斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

57 【『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』追記】

2019年01月14日 | 言葉
 議論多い「謎の微笑」
 最後の最後でヌードルスがアヘン窟に横たわりながら薄気味悪く笑うシーンには、以前から「あの笑いは、どんな意味があるのか?  なぜ笑ったのか?」といった議論が多い。「モナリザの微笑」ならぬ「ヌードルスの微笑」。美女の口元からこぼれる微笑ならともかく、ロバート・デ・ニーロがニッと笑っても観客はぞっとしない。最後にマックスと対峙したヌードルスの落ち着き払った印象が重く残る直後だけに、軽薄な笑いが見る人に違和感を生じさせる。
 ネット上の意見や映評を読むと「最終的に大金を手にしたヌードルスが、嬉しくて笑っている場面」という解釈が、いくつかあった。いちばんラストのシーンであり、最後まで生き残った少年ギャング団の元メンバーはヌードルスが1人(ファット・モーは準メンバーとして)だけ、さらに現にヌードルスは大金を手に入れている--などを根拠に、こう考えた人が多かったのかもしれない。
 しかし、この見方は間違っている。大金を手にしたヌードルス1人がハッピーエンドだった、などという薄っぺらな終わり方では、ヌードルスとマックスが最終場面でぶつけ合った会話の重みが、さっぱり活きて来ない。映画としての価値を貶(おとし)める解釈である。

 最終シーンのアヘン窟では、青・壮年時代のヌードルス 
 アヘン窟のシーンは冒頭近くにも登場する。「上」で筆者は、青・壮年時代のヌードルスと初老時代のヌードルスとを、見分けることが大切だと書いた。冒頭のアヘン窟でもラストシーンのアヘン窟でも、現れたのはどちらも青・壮年時代のヌードルスである。ともに髪が黒く、顔はやや細くて精悍。腕に金時計、指に大粒ダイヤの指輪を嵌(は)め、ネクタイが赤みがかった柄物である点も同じだ。違う点と言えば、ヌードルスの頭の下の枕のデザインぐらいだろうか。
 つまりラストシーンのアヘン窟で微笑するヌードルスは、青・壮年時代の彼なのである。マックスが清掃車の巻き込みローダーに飛び込んで自殺した後の、初老のヌードルスではない。であれば、大金を得てニンマリしたという解釈では、時期的に合わない。そもそも初老のヌードルスは35年ぶりに舞い戻った直後に、貸しロッカーで札束入りの鞄とマックスからの「次の仕事の前金だ」のメッセージを受け取っている。すでに大金は手中にあったわけだ。

 さらに青・壮年期以降の物語は、すべて麻薬をやりながらヌードルが見た幻覚・幻視の産物であることを暗示している--という説もある。この見方も感心出来ない。全編中、最も精緻に構成され、充実した部分が、初老期における場面展開であるからだ。この部分がすべてヌードルスの頭の中だけで起きたことにしてしまうのは、握り寿司を注文しながら大トロや中トロを捨ててしまうようなものだ。
 では「ヌードルスの微笑」の意味は何か。「どこでもドアー」や「フリスビー・ディスク」と同じく、レオーネ監督の”お遊び”だと考えたら、どうだろう。<起きたことの一切は一夜の夢の如きもの>といった東洋的死生観(?)をメッセージふうに伝えようとした場面、と受けとめるぐらいなら可かもしれない。

 もう1つのラストシーンの意味
 あまり論じられることのない、もう1つのラストシーンについて考えたい。マックスを巻き込んだマック・トラック社製のゴミ収集車が闇の中へと消え、その辺りから反対方向へ、アメリカ愛国歌『God Bless America』を騒がしく歌う若者たち満載の3台のオープンカーが走り去る。レオーネ監督がこのシーンで言いたかったのは、古きアメリカが去り、若者たちの新しいアメリカに生まれ変わる、というメッセージだ。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」つまり「昔むかし、アメリカで」を題名にしたセルジオ・レオーネ監督の意図が読み取れる気がする。

 なお残る謎も
 さて、最後の最後で、なお残る謎について触れたい。あの時のゴミ収集車は、なぜ”マックス長官”邸の正門前で停車(待機?)していたのか。ヌードルスとマックスが対峙したシーンから推定するに、時刻は夜の11時頃。こんな夜中に大型のゴミ収集車が(路上清掃車ではない)、パーティー開催中の政府高官邸の正門前にドンと停まっている図は不自然である。静かな夜の邸宅街に騒音を響かせてローダーまで回転させる。この時のヌードルスの不審げな顔が印象的だ。また、自身の殺害依頼をヌードルスに断られたマックスが、ヌードルスを追って正門の外まで出て来た理由も分からない。死にたいのなら、自室に自分の拳銃もあるのだから、外へ出ずとも事足りたはず。そもそも自分の部屋でヌードルスに撃たれていれば、そこで終わり、つまりゴミ収集車など不要のはずなのである。
 はっきりしているのは、清掃車を待機させておく手配が可能な人物がいたとすれば、実力者で邸宅主のマックスだけではないか、という点。しかし待機させて何をさせるつもりだったのか。当のマックスは死んで口をきかず、レオーネ監督も何ら説明の手がかりらしきものを残していない。

 そこで以下は、筆者の勝手な推測--。マックスの元の計画では、自分を撃った後のヌードルスは、正門を出たところで殺される段取りになっていたのではないか。マックスとしては自分の死後もデボラとの間に生まれた一人息子に「ベイリー財団」ぐらいは残してあげたい。だがマックスはヌードルスとすり替わった身だから、ホンモノのヌードルスに生きていられては不都合だ。そこでギャングの手を借り、巻き込みローダーでヌードルスの体を粉砕し、地上から消しておく。ところがマックスは殺されなかったので、自身が慌てて正門前まで出て来て、ギャングへの指示を変更した--。
 ただ、そこまで陰惨な結末にしてしまっては、映画ファンの共感を得られまい。作品前半の基調が少年ギャング団時代へのノスタルジーで彩られている点にも合致しない。そこで急きょ結末部分を手直しした。しかして手直しの残滓(ざんし)が、分かりにくい謎のままに残った--と。ハズレが承知の、筆者の想像である。

56 【『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』下】

2019年01月11日 | 言葉
 丁寧な性格描写の意味
 迫害と差別が日常だった、貧しいユダヤ系移民の子供たち。貧困から抜け出そうとすれば、ギャングとして成り上がるしか方法(テ)のない時代だった。その意志が最も強固だったのが、頭脳明晰な準主役のマックス。少年たちのリーダー格だった当時、浮力と塩の溶解速度を応用した、水中からの麻薬回収方法を皆で考え出し、ギャングに売り込んで大金をせしめた。反面、性格は神経質で、幼いペギーとの”初体験”では外で待つヌードルスらの話し声が気になって「おっ勃(た)た」ない。何気ない青春のヒトコマは、マックスの明晰さと神経質さゆえに結末への伏線にもなっていて、計算された構成だ。

 青・壮年時代のマックスは葬儀社を隠れ蓑とし、大物ギャングと組んで禁酒法の網をかいくぐり、コックアイらかつての少年ギャング団の面々とともに、いっぱしのギャングにのし上がっていた。ヌードルスも加わって宝石商から大量の宝石を強奪した後、ギャングの大物フランキーの差し金で、強奪に一役買った小物ギャングのジョー派を皆殺しにした。帰りの車中でヌードルスがマックスを問い詰める。
「なぜ黙っていた?」
「最初からジョーを殺(や)ることはフランキーとの約束だった。フランキーとの約束は絶対なんだ。フランキーは裏世界を牛耳る大ボスだ」
「俺なら断る‥‥ボスは嫌いだったろ。いつから考えを変えた? 今日はジョー、明日はお前だぞ。そうなってもいいと? 俺はご免だぞ」
 単に路線対立や考え方の違いというだけでなく、全編のキーとなる個所。物語の最後でマックスが自殺に到る、重要な伏線になっている。ギャングと組めば大金を掴むのも「出世」するのも早いが、利用されるだけ利用され、邪魔な存在になれば殺される。ロッカーの札束と「前金に」のメッセージは「明日はお前だぞ」の身に嫌気が差したマックスからヌードルスへの「(ギャングに殺される前に)自分を殺してくれ」という依頼だったと、最後の最後でマックスにより明かされる。

 マイペースなヌードルスと恋の結末
 刑務所にいたためギャングとしては出遅れたヌードルス。組織内では参謀兼殺し屋的な、一匹狼に近い存在にとどまる。「ボスは嫌い」で、アヘン窟(くつ)に入り浸るマイペース人間。マイペースなタイプは、だが往々にして他者への配慮、思いやりが苦手だ。羽振りのよかった青年ギャング時代、幼い頃から恋心を抱いてきたデボラを、貸し切り・生演奏付きの超高級レストランへ招いて豪勢な宵を過ごす。自ら「刑務所の中ではデボラが心の支えだった」と話し、デボラも「幼い頃から本当に好きだったのは、あなただけ」と告白する。女優として売り出し中のデボラは「明日はハリウッドへ帰る。頂点を目指している」とも。マックス同様、上昇志向の強いデボラの夢は、2人の性格の不一致とこの夜のデートの結末とを暗示する。
 案の定、ヌードルスは運転手付きの車中で無理やりコトに及ぼうとして、デボラの激しい抵抗に遭ってしまう。いくら何でも運転手の目がある車内で、というのはヒドい。高級レストランを借り切る金があるなら、スウィートの一部屋でも予約しておけば良いものを、その辺の配慮がヌードルスには出来ない。
 かくてヌードルスは最愛のデボラをマックスに奪われることになる。「長官」にまで出世したマックスと、35年間の放浪のすえに舞い戻ったヌードルス。しかし結局のところ勝者はどっちだったのか。セルジオ・レオーネ監督が最後に用意していた答えは、見事にして悲しき逆転劇だった。ここに至って観客は初めて、ヌードルスとマックスの性格が対照的に描かれてきた意味を知ることになる。

 謎解きの最終シーン
 映画にしろ小説にしろ、作品最大の謎やテーマの伏線は冒頭に配されることが多い。この映画も然り。いきなりギャング映画らしい残虐シーンから入るが、作品全編を貫く謎に対する伏線が、この冒頭にある。銀行強盗襲撃を警察へタレ込んだヌードルスを追って差し向けられた3人の殺し屋が、ヌードルスの情婦を殺し、ファット・モーを拷問してヌードルスの行方を聞き出そうとするシーンだ。
 もう1つの重要な伏線も。マキシムの無茶な言動に対してヌードルスが「イカレてる!(You are crazy!)」と言うと、マックスがブチ切れてヌードルスに殴り掛かるシーン。たびたび出て来るが、ギャングなら「イカレてる!」程度の口汚さには慣れっこになっていそうなもので、マックスのブチ切れぶりは違和感を抱かせる。ところが最終場面の直前で、ヌードルスはマックスの情婦だったキャロルから「マックスは心の病で父親を失い、同じ運命を恐れていた」と、このコトバへの過剰反応の理由を知らされる。実は連邦準備銀行襲撃の警察へのタレコミには、キャロルから「襲撃すればマックスは必ず殺される。マックスの命を助けるため、警察へタレ込んで事前に逮捕させて」と依頼され、ヌードルスが応じた経緯があった。

 すべてはマックスが仕組んだ
 そしてヌードルスとマックスが1対1で対峙した最終場面。マックスは「あの時はイカレていなかった。完全に正気だった」と告白する。「あの時」とは、フロリダの海を見ながらマックスがヌードルスに銀行襲撃計画を持ち掛けた場面。マックスによれば、一切は警察もギャングもグルで、マックス自身がヌードルスになり替わる--という計算され尽くした、つまり「完全に正気な」計画だった。キャロルの密告依頼も、キャロルを使ってヌードルスが密告するように仕向けたのだ、と。

 「完全に正気」の意味は重大だ。冷静冷酷な計画の全貌。目的の1つには、少年ギャング団が貸しロッカーに蓄えていた大金の、マックスによる独り占めもあった。ここで初めて、銀行襲撃直後にヌードルスの元へ殺し屋が差し向けられた冒頭シーンの意味が明らかになる。フロリダの海でマックスが「完全に正気」だったとすれば、描いていた青写真は、パッツィとコックアイを犯行に名を借りて殺し、犯行に加わらなかったヌードルスは、初めから殺し屋の手を借りて殺すつもりだった--ということになる。この部分の謎解きこそが、セルジオ・レオーネ監督が用意した、作品最大の大どんでん返しだったのである。
 (諸説ある「ヌートルスの笑み」ほかは、次回「追記」にて詳述します)

55 【『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』上】

2019年01月03日 | 言葉
 久しぶりに見た名作
 10年以上も前にDVDへ録画しておいたアメリカ映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)。マカロニ・ウエスタンで知られるセルジオ・レオーネ監督が10年余の歳月をかけた、渾身の遺作映画だ。ふと見たくなりDVDを家中探し回ったが、見つからない。レンタル屋さんで借りるテもあったが、まあ、そのうちに見つかるサと放っておいたところ、某テレビ局が再(再々?それとも再々々?)放映すると知り、さっそく再録画した。次に見れば10回近く見たことになる。何度見ても見るたびに発見があり、飽きることがない。というか、1度や2度見ただけでは、さっぱり理解出来ない部類の映画なのである。

 映画でも小説でも、見る人読む人それぞれに好みがある。同じギャング映画として『ゴッドファーザー』(1972年)と比較されることが多いが、筆者の好みで言えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の方が格段に上だ。ミステリー小説のような謎と伏線とが各所に散りばめられ、主人公「ヌードルス」(ばか、あほう、うどんを意味するアダナ)や準主役「マックス」「デボラ」の性格付けも丁寧。この性格の違いがストーリーの面白さや悲劇的結末への伏線になり(詳しくは後述)、こうした構成の精緻(せいち)さも数あるギャング映画の中で異彩を放つ理由になっている。
 特に前半では、ニューヨーク貧民街に暮らすユダヤ系移民の子らの日常が、エンニオ・モリコーネのノスタルヂックな音楽をバックに描かれ、見る人を魅了する。題名「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」が意味する「昔むかし、アメリカで」の通り、去った時代への追憶も重要なポイントで、最後の最後でセルジオ・レオーネ監督がなぜこの題名にしたかが分かるという、凝った骨組みだ。

 正しく解釈するカギ
 「過去への追憶」が主題の要素だから、シーンは過去と現在を頻繁に行き来する。ヌードルスが宿敵バグジーを刺殺して刑務所へ送られるまでの少年時代。刑期を終えたヌードルスがマックスたちと合流してから、マックス、パッツィ、コックアイら3人による連邦準備銀行襲撃を警察へタレ込み、行方をくらますまでの青・壮年時代。さらに「35年」が過ぎ、マックスもヌードルスも初老になった”今”の時代。マックスは所在不明のヌードルスに成りすまして米政府の「長官」に出世し、パーティー招待状をヌードルスへ送る。目的は何か。ヌードルスは「謎」を解くべく”マックス長官”に会おうと乗り込み、マックスの告白によりすべての「謎」は氷解する。直後、マックスは清掃車の巻き込みローダーに飛び込んで自殺した--。

 少年時代はともかくとして、青・壮年のギャング時代と初老時代とは、しっかり見分けておかないと、ストーリー理解に混乱をきたす。両時代の混同こそが、この映画の解釈を難しくしたり、ストーリーに「整合性を欠く」と印象付ける原因になっているからだ。例えば冒頭近くに、こんなシーンがある。タレコミ後に訪れた殺し屋をヌードルスが返り討ちにした後、駅でバッファロー行きのバス切符を買う。そしてドラエモン漫画の「どこでもドアー」にも似た扉の向こう側へと消える。時代は青・壮年時代。ところが直後に場面は急転換し、初老のヌードルスが「どこでもドアー」から出て来ると、今度はレンタカーを借りてファット・モーの店へと向かう。「どこでもドアー」はセルジオ・レオーネ監督お得意の”お遊び”のようだが、この映画を1度見ただけでは、時代転換への監督の意図が見抜けないかもしれない。

 時代転換の分かりにくさこそ、この映画の面白さ
 同じように”お遊び”の小道具を使った時代転換場面は他にもある。初老になって再び足を運んだ貸しロッカーで、ヌードルスは鞄に詰められた札束と「次の仕事の前金だ」のメッセージを見つける。青・壮年時代の密告後、姿を消す直前に貸しロッカーを覗いた時は、カバンの中の札束は新聞紙に変わっていた。なぜ35年も経ってから札束が再び詰められたのか。「謎」は、作品の最後でマックスから明かされるが、これも後で詳述。ともかくもヌードルスは大金を詰めた重い鞄を下げて帰る。すると突然フリスビーのディスクが飛んで来て、ヌードルスの頭上を過ぎた。どこへ飛んだのかと追う視線の先で、青年マックスが笑いながら立っている。刑期を終え出獄した青年ヌードルスを、青年マックスが迎える時代転換のシーン。ここではフライング・ディスクが「どこでもドアー」よろしく転換の小道具に使われている。これも監督ならではの”お遊び”なのだ。

 髪黒く、細おもてで精悍なヌードルスの青・壮年時代。薄毛で白髪混じりのオールバック、丸顔で老成した口調の初老時代。主役ヌードルスを演じたロバート・デ・ニーロが2つの時代のヌードルスを見事に演じ分けているので、集中力を切らすことなく見ている限り、時代を混同してしまうことはない。とりわけ初老期のヌードルスは名演技なので、デ・ニーロのファンであれば見間違えることはあるまい。

 この映画はアメリカでの公開当初、映画配給会社の意向により、原型と異なって時系列的に、つまり時間の推移に従ったストーリーに再構成されたようだ。分かりやすさが優先されるアメリカ映画界らしい。しかし評判は散々だった。そこで元の、つまり現在の非時系列的構成に戻すと、一転、好評を得た。作品の奥行きや奥深さに魅かれるクロウトっぽいファンも健在だ、ということだろうか。
 (続く「下」では、ヌードルスやマック、デボラの性格付けの意味や、結末の謎解きについて詳述します)