斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

60 【荒らげる 荒らぐ 荒ぶる】

2019年04月11日 | 言葉
 孫引きだった新元号「令和」
 5月からの新しい年号が「令和」と決まった。出典は『万葉集』で作者は大伴旅人、ないしは山上憶良とのことだったが、4月2日付「毎日新聞」朝刊は、中国で6世紀に成立した美文集『文選(もんぜん)』からの引用、つまり”孫引き”だと報じている。作者は1、2世紀の後漢時代に活躍した張衡(ちょうこう)という政治家で、地震計を発明した科学者でもあるという。『万葉集』が「初春令月 気淑風和」で『文選』は「仲春令月 時和気清」だから、なるほど旅人や憶良のオリジナルだとは言い難い。

 和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)
 現代人が使うための元号である以上、現代人に分かりやすい表記がベターだ。しかし現代人の感覚だと、「令」の字に「命令」の語を連想する人が大半のようにも思える。美しいという意味なら「令」よりも「玲瓏(れいろう)」の「玲」を当てて「玲和(れいわ)」か、あるいは画数は多くなるが「麗(うるわ)しい」の「麗(れい)」を当て「麗和(れいわ)」にした方が、意味はぴたりと合う。元もと万葉仮名は古代日本語の表記法として中国の漢字を用いた借字(当て字)であり、であれば現代人に意味が通じやすいように字を当て直したとしても不自然ではあるまい。孫引きのイメージを薄める意味からも、「文選」の[令」をそのまま借用せず、「玲」や「麗」に当て直した方が良かったかもしれない。

 それにしても元号には「和」の字が多い。聖徳太子が「和をもって貴しとなす」と定めた影響もありそうだ。日本の伝統精神を語るとき、「和魂(にぎみたま)」と同じくらい比重が置かれるのが「荒魂(あらみたま)」だったが、こちらはさすがに元号としては人気がない。「あらみたま」が「にぎみたま」を圧していた時代は、勇猛果敢が貴(たっと)ばれた戦時中ぐらいだろうか。平和な時代に「荒い」というコトバ自体が敬遠されても仕方あるまい。

 「荒げる(あら・げる)」と「荒らげる(あら・らげる)」
 あまり使われなくなったコトバは、表記も乱れがちだ。たとえば「荒げる」と「荒らげる」。「議員が、声をアラげて質問する」は、よく耳にする言い方である。『広辞苑』の最新7版は「あらげる」についても「アララゲルの約」として是認している。つまり「アララゲル」が本来の言葉。意味は「荒くする」。また「荒らぐ(あら・らぐ)」は文語体であると説明している。

 一方で筆者の手元にある『広辞苑』第1版(昭和43年、第29刷)には「荒らげる」の項目はあっても「荒げる(あらげる)」はない。「荒げる」は誤用扱いだ。時代とともに言葉が変化してゆく好例だろう。ちなみに「約」は便利な言葉で、ら抜き言葉なども、そのうち「約」として『広辞苑』に載るかもしれない。いや、これは冗談!
 ついでながら筆者が勤めていた新聞社の「スタイルブック」(2011年版、編集局内で統一した用語・表記基準をまとめた書)には、正しくは「荒ら(あらら)げる」であり、「荒(あら)げる」は誤用であると、はっきり書いている。筆者なども長く「『荒げる』は誤用」という考えが強かったから、最近の新聞やテレビニュースで「議員が、声をアラげて質問した」などというフレーズを読んだり聞いたりすると、結構強い違和感を覚えてしまう。

 「荒ぶる」考
 他動詞である「荒ら(あらら)げる」に対し、自動詞は「荒(あら)ぶる」である。正確には「荒ぶ」だ。意味は「暴れる、乱暴する、荒れている、未開である」(『広辞苑』7版)。こちらは「荒ら(あらら)ぶる」ではない。ただし似た語に「荒(あら)ぶれる」という自動詞がある。意味は「精神のいらだちや粗暴な性格が、荒あらしい態度や行動にはっきり現れて見える」(『新明解国語辞典』)だから、ほぼ「荒ぶる」に同じである。

 「荒ぶる」の語が今に使われた、よく知られた例としては早稲田大学ラグビー部の部歌がある。題名もズバリ『荒ぶる』で、大学選手権に優勝した時だけに歌われる第二部歌なのだそうだ。ちなみに第一部歌は『北風』という。他にやくざ映画の題名に使われた『荒らぶる獅子』、アリスの持ち歌『荒ぶる魂』などもある。『荒らぶる獅子』の場合は「荒」を「あ」とだけ読ませ、「荒(あ)らぶる獅子」になるようだ。

 ここまでたどると、紛らわしさの一因に「荒」を「あら」と読むか、それとも「あ」とだけ読むか、という違いがあるらしいことが見えて来る。「荒(あら)い」に限らず「畑が荒(あ)れる」や「畑を荒(あ)らす」など、「あ」と読ませる場合も多いから、余計にややこしくなるのだろう。繰り返すが、コトバとしての使い方がまちまちになる、つまり”荒れて”しまう原因や背景には、コトバ自体があまり使われなくなったという時代変化がある。

 「和」の精神こそ
 「平和」の「和」、また「和洋」のように日本そのものを指すコトバとしての「和」。読み方も「わ」のほかに「和(やわ)らぐ」「和(やわ)らげる」「和(なご)む」「和(なご)やか」など、好ましいイメージばかり。誰もが好感を持ちそうな字が「和」だと言える。その意味でも「令和」の「和」には、平和な世を願う至上の価値観が込められている。「荒らげる」や「荒ぶる」のように縁遠く、なじみの薄いコトバには、させたくない。
 もちろん同じ「和」が付く「昭和」にも、血と硝煙の臭いばかりの時代があった。それを忘れず真の「令和」を目指すことこそが国民の願いであり、義務であるはずだ。