斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

断想片々(18) 【小学生の社会科「少数“異”見」】

2020年10月20日 | 言葉
 日本学術会議の新会員任命拒否問題。自民党は10月14日、同会議の今後のあり方を検討するプロジェクトチームを立ち上げた。任命拒否の理由説明が済まないうちに新たな課題を持ち出すのは、国民の目を逸(そ)らすための、使い古された手法(テ)である。もう一つの狙いも見過ごせない。「つべこべ言うなら予算を付けないゾ」という恫喝(どうかつ)だ。

 明らかになってきた対立の根っこは軍事研究の可否。学術会議は設立時からの大原則の「戦争目的の科学研究は行わない」を堅守せんとし、政権は中国の軍事的台頭と脅威を背景に軍事研究への道を開こうとする。歴史から得た教訓の尊重か、戦後70年の経過を重く見るか。簡単に結論は出ないだろうが、それだけに対立論者間での真摯な議論が望まれる。
 そこで気になるのは少数意見を排除すべし、という風潮だ。対立意見を嫌うあまり、論者自体の排除を、とまで加熱する。学術会議の新会員任命拒否が典型例だ。
 主だった多数意見と、少数ゆえの“異”見。多数決を原則としつつ、少数“異”見を採り入れることが民主主義の根幹であり近代精神の原点である。人種・民族、障害の有無、性的マイノリティー。少数者・少数意見の尊重と配慮は近年めざましく向上したが、こと対立が政治分野に及ぶと人は途端に頭に血がのぼってしまい、アタリマエのことさえ忘れてしまう。
 
 政権の行き過ぎ、間違いのチェック・是正は、野党が発する少数“異”見の大事な役割である。ジャーナリズムもまた政権チェック機能に存在意義があるが、最近は政権にすり寄る御用メディア、昨今言うところの“忖度メディア”が大手を振るうようになった。チェックする存在を失い、オール与党になってしまえば、政権運営が容易になる反面、間違った方向へ進んでも是正されず、政権は腐敗する。
 
 民主主義にとって真に必要なのは、イエスマンより少数“異”見の存在である。香港民主化の活動家を逮捕・拘束して本国へ連れ去り、対立“異”見を封じる中国一党独裁政治の手法を、日本の自民党政権が真似てはならない。

断想片々(17) 【総合的、俯瞰的】

2020年10月09日 | 言葉
 日本学術会議の前会長、山極寿一氏(前京大総長)の元へ、「政府は新会員6人を任命しない」旨の連絡が入ったのは、9月28日だったらしい。10月1日の学術会議総会開催を目前にしてのこと。以来今日まで問題は大きくなるばかり。当然だろう。任命拒否が時の政権の意図次第ということになれば、戦後民主主義の一大理念だった「学問の自由」や「学問の独立」が揺らぐ。簡単にカタがつく問題ではない。
 
 任命拒否の理由を政府側は説明せず、「総合的、俯瞰(ふかん)的に判断して」「人事に関することなので、具体的な理由説明は控えたい」と繰り返すのみ。「俯瞰」は<高い所から広く見渡すこと>(三省堂『新明解国語辞典』)の意。類語は「鳥瞰(ちょうかん)」、反対語は「近視眼的」(近視の人に失礼な言い方だが…)。昔は「大局的な見地から」が政治の常套(じょうとう)句だった。
 満足な理由説明もなく「総合的、俯瞰的に」の一言で片づけるなら、およそこの種の人事は権力者の意のままになる。「人事なので理由は説明しない」も、一般の公務員・会社員の異動人事と同じ次元で考えているが如き物言いである。

 静岡県の川勝平太知事が7日の会見で「菅義偉首相の教養レベルが図らずも露見した」と述べたらしいが、筆者も同感である。政治手腕に長(た)けてはいても、戦後民主主義のイロハについては知識不足の新首相なのかもしれない。政権に批判的な意見を排除せんとする傾向は、一党独裁国家のやり方であり、自由主義国家のそれではない。日本でもよく知られたイギリスの科学雑誌『ネイチャー』が8日付けの社説でこの問題を取り上げ「国が学問の独立性を尊重するという原則は、現代の研究を支える基盤の一つ。政治家がこの約束を破れば、人々の健康や環境、社会を危険にさらす」と懸念したという(8日付け朝日新聞デジタル版)。英誌の指摘に筆者は日本人の一人として恥じ入り、顔を赤らめる思いだった。

 拒否された6人は憲法解釈や安保法制で政府と異なる立場をとってきた人たちという。もし学説の違い以外に理由がなく、その一点を判断の大きな要素にまで拡大したのなら、まさに虫眼鏡的、つまり「近視眼的」である。広い視野から「総合的、俯瞰的」に見た人事だなどとは言い難い。政府は、日本の学術振興という大局からモノを見るべきだろう。