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気ままに生活してるシニアの残日録

「等伯(上)(下)」(安部龍太郎)を読む

2023年02月14日 | 読書

今年1月にサントリー美術館で開催された「京都・智積院の名宝」展を観に行って等伯・久蔵親子の絵に接した。絵の解説を読んで等伯親子に興味をひかれ、この本を読んでみた。

等伯(1539-1610、72歳没)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生きた絵師であり、初期は信春と称した。能登・七尾の武士奥村家に生まれたが、その後、染物屋の長谷川家に養子に出される。奥村家は能登の大名畠山家に仕えていたが畠山家はお家騒動で殿様が追放され朝倉家に支援を頼んだがその朝倉家も信長に滅ばされた。

この畠山家であるが、平氏系と源氏系を二つあり、平氏系は昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも出てきた秩父の畠山家で北条義時に滅ぼされた。平家系は足利一族で室町幕府の守護大名となったがその後家督争いで滅んだ、能登の畠山氏はその分家で江戸時代に高家として残り維新を経て士族となり畠山称のまま残ったとのこと。

等伯は長谷川家で絵仏師として養親と一緒に生計を立てていたが兄の奥村武之丞の策略にのり養親を失い、七尾にいられなくなり、絵師として大成するために妻子をつれて京を目指した。信長による朝倉攻めの危険な中、妻子を途中の寺に残し一人京都に入ろうとする途中、今度は比叡山焼討ちに遭遇したが何とか京に入る。焼討ちの最中信忠勢に取り囲まれていた10人くらいの僧を救う、これが後々等伯の運命に良い影響を与える。

京に入ってからは知り合いの寺に世話になりながらも絵師として懸命に努力して日堯上人図などで徐々に名前が知られるようになり、やがて妻子も京都に呼ぶ。その後、京の画壇を支配していた狩野派との熾烈な闘いをするまでに名が売れてきたが、信長ににらまれたため寺も等伯をかくまうのは危険になったため、病気の妻と子を連れて故郷を目指すがついに妻を亡くす。

やがて絵を通じて日蓮宗の僧侶や茶人、公家、奉行などとの人間関係を広げ秀吉にも知られる存在になり、また、堺の大商人の娘と再婚して子ももうけ、大徳寺三門の壁画を手がけたことにより一層の狩野派の攻撃を受け永徳に抗議の直談判に行き、永徳はその直後に急逝する。等伯は秀吉から亡き子鶴松を弔うために建てた祥雲寺の障壁画を依頼される(これが先のサントリー美術館の展覧会となった)、その後、狩野派と協同で対応していた肥前名護屋城の障壁画制作中に息子の久蔵が足場から落ちてなくなってしまう不幸が襲う、これを狩野派の仕業と見破り狩野派の屋敷に乗り込み力ずくで真相を聞き出し、それを元に秀吉に原因調査を直談判する、怒った秀吉は牢に入れろと言うが、親しくしていた近衛前久の取りなしで今までに無いような絵を描いて見せれば許すといわれ悪銭苦闘の末描いたのか「松林図」であった。

等伯は持ち前の反骨心により何度も困難な状況を打ち破っていく波瀾万丈の人生を送るが、安部氏の本の全部が事実ではなく、安部氏によるフィクションもある程度入っていると思う、特に最後の方の久蔵の死の原因と等伯による狩野派や秀吉への直談判などはフィクションだと思う(が、それを悪いといっているわけではない)。

あと、松林図の制作への苦悩ぶり、最後の完成の場面だが、読んでいると下絵を何枚も描いているところが述べてあり、知らない間に完成しその後意識を失い3日間寝ていた、というところがどうも解せない、下絵を屏風に貼付けたものが完成したものとして今残っているものなのか、その後下絵でない本番の絵を描いたのか分からないなと感じた。ウィキペディアでも下絵説があると書いてある。

更に気になったのは、女性の呼び方である。先妻を静子、後妻を清子と書いているが、この時代、普通は「お静」、「お清」ではないか。

さて、等伯は72歳で亡くなるが、その後の長谷川派の発展は芳しくなかった、一方、狩野派は狩野探幽が出現して長く繁栄した、久蔵が生きていれば展開は違っていただろう、が、これが運命であろう。狩野永徳と比べ、自分一代で長谷川派といわれるほどの発展を遂げたのは素晴らしいし、歴史にしっかりと足跡を残して今も我々を感動させているのだから偉大な芸術家であったと言えるだろう。が、死に際して等伯の気持ちはいかばかりであったろうか、自分を支えて苦労させた先妻を病で亡くし、ライバルの永徳を自分の攻めによって早死にさせ、息子に先立たれ、後妻にも先立たれた。狩野派も永徳の父松栄は等伯を指導してくれたし永徳は久蔵を弟子にしてくれた、みんな自分を支えてくれた人たちが先立った。複雑な心境で死を迎えたのだろう。安部氏のこの物語はこの等伯の悪戦苦闘人生を良く描いており、読み物としては大変面白く一気に読めた。