大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

今日はモノレール開業記念日!

2020年09月17日 | 鉄道

9月17日はモノレール開業記念日です。

1964(昭和39)年の今日(9月17日)、日本初の本格的旅客用モノレールである東京モノレール羽田線が東京浜松町~羽田空港間(13,1km)で開業しましたが、これを記念して運営する東京モノレール株式会社が9月17日を「モノレール開業記念日」に制定しました。

このモノレールは、同年秋の東京オリンピックの開催で日本国内外からの羽田空港利用客の都心へのアクセスの改善を目的としてアルヴェーグ式(跨座式)で建設され、料金は片道15分・250円、往復450円で、当時としては破格の金額でした。
1964年の開業当初は途中駅が全くなかったため、空港利用客以外の乗客がおらず、まだ旅客機利用や海外旅行が一般的でなかったこともあり、乗車率は20%台で、一時は利用者が1日当たり2,000人程度しかおらず、夜には一部区間で車内を消灯して夜景を楽しんでもらえるよう、デートコースとしていたこともあったといいます。

ちなみに、日本においてモノレールは鉄道に分類され、法令上、鉄道事業法に基づく「鉄道(懸垂式鉄道/跨座式鉄道)」と軌道法に基づく「軌道(懸垂式モノレール/跨座式モノレール)」が存在します。ただし、これは建設時期により適用された法令が異なるためでありシステム上特段の差はなく、初期に開通した路線(1970年に開通した湘南モノレールまで)は鉄道事業法(旧地方鉄道法)が適用されました


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今日は名寄本線が廃止された日!

2020年05月01日 | 鉄道

名寄本線は、宗谷本線の名寄駅から石北本線の遠軽駅に至る本線(138.1km)と中湧別駅から湧別駅に至る支線(4.9km)の2つの線からなっていた全線単線非電化のローカル線でした。

(名寄)-中名寄ー上名寄ー矢文ー岐阜橋ー下川ー二ノ橋ー幸成ー一ノ橋ー上興部ー西興部ー六興ー中興部ー宇津ー北興ー興部ー旭ケ丘ー豊野ー沙留ー富丘ー渚滑ー潮見町ー紋別ー元紋別ー一本松ー小向ー弘道ー沼ノ上ー旭ー川西ー中湧別ー北湧ー上湧別ー共進ー開盛ー北遠軽ー(遠軽)と(中湧別)ー四号線ー湧別

この名寄本線は、1896(明治29)年5月14日に公布された北海道鉄道敷設法の規定により、道央とオホーツク沿岸方面とを結ぶ幹線鉄道として建設され、1921(大正10)年10月5日の全通後は札幌と北見・網走方面を結ぶメインルートとなりましたが、1932(昭和7)年10月1日に石北本線が開通すると、名寄本線は一転してローカル線に転落してしまい、以後はオホーツク沿岸の市町村を淡々と結ぶ生活路線に徹しました。

やがて名寄本線は、1980(昭和55)年12月27日の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)施行による特定地方交通線選定の際には第2次特定地方交通線に選定されますが、営業キロが143kmもある長大路線であったため地元の自治体が特別な配慮を求めたことや、沿線道路が未整備だったため、冬季の代替輸送に問題があるなどの理由により1984(昭和59)年6月22日に一時廃止承認が保留されたものの、その後、運輸省(現在の国土交通省)の調査結果を受けて1985(昭和60)年8月2日に追加廃止承認されてしまいます。

そして、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、沿線の遠軽町・紋別市・下川町が住民の利用に補助金を出すなど、なおも存続を求める運動が行われ、比較的乗降客数が多かった名寄駅~下川駅と紋別駅~遠軽駅間を第三セクター化して部分存続させる案も浮上したものの、結局鉄道としての存続は断念され、1989(平成元)年5月1日で廃止されました。

ちなみに、名寄本線は、廃止された特定地方交通線の中では、唯一の「本線」でした。

 

 
(下 川 駅)

 
(一ノ橋駅)

 
(上興部駅)

 
(西興部駅)

 
(六 興 駅)

 
(中興部駅)

 
(宇 津 駅)

 
(興 部 駅)

 
(沙 留 駅)

 
(渚 滑 駅)

 
(紋 別 駅)

 
(小 向 駅)

 
(上湧別駅)

 
(開 盛 駅)

 
(湧 別 駅)


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今日は駅弁の日!

2020年04月10日 | 鉄道

4月10は駅弁の日です!

明治時代から鉄道の旅の友として多くのお客様に利用され親しまれてきた駅弁を、これからも末永くご愛顧されることを願って、社団法人 日本鉄道構内営業中央会が1993(平成5)年に、4月10日を「駅弁の日」と制定しました。 

日付は、弁当の「弁」の文字が洋数字の4と漢数字の十を組み合わせた文字に見え、また「当=とう(10)」の語呂合わせから、この日になりました。

毎年この日を中心に、各地で駅弁イベントが開催されます。

(駅弁の起源)

駅弁は当初は「駅弁当」と呼ばれていましたが、時代を経て、略語の「駅弁」が正式名称となりました。 ちなみに、駅弁は弁当文化がある日本独自のものです。

ところで、日本で最初に駅弁が発売されたのは、どこの駅でしょうか?
これについては諸説ありますが、一般的に通説となっているのは、1885(明治18)年7月16日に、栃木県の宇都宮市で旅館「白木屋」を営んでいた白木屋嘉平が、たまたまその旅館に宿泊していた日本鉄道の重役の薦めにより、この日開業した宇都宮駅でゴマをふりかけた梅干し入りの握り飯(おにぎり)2個とたくあんを竹の皮に包んで発売したのが最初だとされています。 この時の値段は5銭でした。

現在のような折詰に入った駅弁は、1890(明治23)年に姫路駅構内で「まねき食品」が幕の内風の駅弁を発売したのが最初だといわれています。 この幕の内弁当の中身は、『たいの塩焼き、伊達巻、焼きかまぼこ、玉子焼き、大豆昆布佃煮、きんとん、ごぼうの煮つけ、ゆり根、ふき、たけのこ、にんじん、そら豆、奈良漬、梅干し、黒ごまをふった白飯』で、この13種類のおかずを上折に、下折には白飯を入れ、二重の経木の折詰にして12銭で販売しました。

明治・大正時代は、駅弁について「米飯を主とし、数種のおかずを添えて1つの容器におさめるもの」という鉄道当局の規制がありました。 つまり、サンドイッチや蕎麦は駅弁として認めていなかったのです。

その後、第二次世界大戦前、各所に駅弁業者が開業するにつれ、日本軍の部隊が演習や出征等により鉄道で移動する際の車内での食事用にも駅弁が利用されるようになり、その場合、軍の輸送計画に基づき軍部隊から経路上の駅弁業者に発注・手配が行われました。しかし輸送計画の秘匿のため発注がなされるのは直前であり、駅弁業者には短時日で大量の弁当調製対応が求められました。難しさを伴ったものの需要は大きく、駅弁業者はその需要に応えるよう努め、駅弁の進歩・普及の背景ともなりました。

かつては列車が駅に停車中に、首から提げた四角い木箱に駅弁を積み重ねてホームを歩く“立ち売り”さんを窓近くへ呼んで、窓越しに駅弁を購入する方法が主流でしたが、“立ち売り”さんの高齢に加え、窓が開閉できない車両の増加や列車の高速化による停車時間の短縮、また駅構内の売店や飲食店の充実などにより、“立ち売り”さんは現在ほとんど姿を見かけなくなりました。2016(平成28)年5月現在でも駅弁の立ち売りが行われているのは、肥薩線の吉松駅・人吉駅など日本全国で数駅だけです。


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今日は大社線が廃止された日!

2020年04月01日 | 鉄道

大社線は山陰本線の出雲市駅と縁結びの神で有名な出雲大社の門前町の大社駅とを結んでいた全長7.5kmの全線単線非電化のローカル線でした。

 (出雲市)-出雲高松ー荒茅ー大社

大社線は出雲大社への参詣路線としての性格を有していたことから、かつては東京・名古屋・大阪などから直通列車が設定されていたほか、お召列車も乗り入れたりしました。 そして最盛期の1972(昭和47)年には各地からの団体臨時列車が年間280本も乗り入れ、1日平均4,000人の利用者がいましたが、周辺の道路が整備されるにしたがって、出雲大社参拝の団体客は貸切バスへ、個人観光客もレンタカーやタクシーを利用するようになり、直通急行列車や団体臨時列車の乗り入れは年々減少していきました。 さらに、沿線の住民もバスやマイカーにシフトしてしまったことから、大社線の利用者は減る一方でした。

こうしたことから、1980(昭和55)年12月27日に施行された国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)により、大社線は1987(昭和62)年2月3日に第3次特定地方交通線として廃止承認されます。 そして同年4月1日の国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継された後、1990(平成2)年4月1日に廃止され、78年の歴史にピリオドを打ちました。

なお、1924(大正13)年2月28日に竣工した大社駅の駅舎は、鉄道省本省の建築課に在籍していた曽田甚蔵氏の設計により出雲大社を模して造られた木造駅舎でしたが、2004(平成16)年7月6日に国の重要文化財に指定され、今も現役当時のままの姿で保存されています。

  <大社線の年表>

 ・1912(明治45)年6月1日:出雲今市駅(現在の出雲市駅)~大社駅間(7.5km)が大社線として開業
 ・1912(明治45)年11月15日:朝山駅が開業
 ・1932(昭和7)年5月10日:朝山駅が出雲高松駅に改称される
 ・1958(昭和33)年4月1日:荒茅駅が開業
 ・1974(昭和49)年10月1日:貨物取扱い廃止
 ・1987(昭和62)年2月3日:第3次特定地方交通線として廃止承認される
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継される
 ・1990(平成2)年4月1日:全線が廃止される

 

 
(出雲大社方を望む)

 

 

 
(保存されている現在の大社駅)

 
(駅 舎 内)

 
(廃止前の時刻表)


 撮影年月日:2015(平成27)年6月26日


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今日は足尾線がわたらせ渓谷鉄道に転換された日!

2020年03月29日 | 鉄道

3月29日は足尾線がわたらせ渓谷鉄道に転換された日です。

旧国鉄足尾線は、群馬県桐生市の桐生駅と栃木県日光市の間藤駅とを結んでいた全長44.1kmの全線単線非電化のローカル線でした。

(桐生)-相老ー大間々ー上神梅ー水沼―花輪ー小中ー神戸ー沢入ー原向ー通洞ー足尾ー間藤ー(足尾本山)

この足尾線は、もともとは足尾銅山から産出される鉱石輸送のために足尾鉄道が敷設した路線でしたが、当時鉱石輸送は国策上重要だったことから、1918(大正7)年6月に国有化されて国鉄足尾線となりました。

足尾銅山は最盛期には日本国内の銅産出量の約40%を占めていましたが、やがて資源の枯渇により1973(昭和48)年2月28日をもって採掘を停止し閉山しました。その後も輸入鉱石の製錬が継続されたものの、1986(昭和61)年にはそれも縮小され、足尾線による鉱石、精錬用の硫酸の輸送も廃止されました。 
この足尾銅山の衰退と歩調を合わせるように足尾線の輸送量も減少し続け、営業係数(100円の売り上げを得るために必要な費用)は677にまで上がっていました。 その結果、1980(昭和55)年12月27日に施行された国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)により、足尾線は1984(昭和59)年9月11日に第2次特定地方交通線として廃止承認されてしまいます。

そして、国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道(JR東日本)の承継された後、1989(平成元)年3月29日に第3セクターのわたらせ渓谷鉄道に転換されました。

  <足尾線の年表>

 ・1911(明治44)年4月15日:足尾鉄道の下新田連絡所~大間々町間が開業
 ・1912(明治45)年7月1日:相生駅が相老駅に改称される
 ・1912(大正元)年9月5日:大間々町~神土(現在の神戸)間が延伸開業
 ・1912(大正元)年11月11日:神土~沢入間が延伸開業
 ・1912(大正元)年12月1日:大間々町駅が大間々駅に改称される
 ・1912(大正元)年12月31日:沢入~足尾間が延伸開業
 ・1914(大正3)年8月25日:足尾~足尾本山間の貨物支線が開業
 ・1914(大正3)年11月1日:間藤駅が開業、足尾~間藤間の旅客営業開始
 ・1918(大正7)年6月1日:足尾鉄道が国有化されて、国鉄足尾線となる
 ・1959(昭和34)年9月8日:草木駅を新設
 ・1960(昭和35)年11月18日:小中駅を新設
 ・1973(昭和48)年6月27日:神土~沢入間を草木トンネル経由の新線に付け替えたたことにより、草木駅廃止
 ・1984(昭和59)年9月11日:第2次特定地方交通線として廃止承認
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継
 ・1989(平成元)年3月29日:第3セクターのわたらせ渓谷鉄道に転換される

 
(国鉄足尾線時代の駅名標)

  
(左は硬券入場券:右は硬券乗車券)


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