大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

伊丹酒蔵通り!

2015年03月26日 | 伊丹

JR伊丹駅の西側から県道尼崎伊丹線を越えて阪急伊丹駅の少し手前の三軒寺前広場までの約400mの通りを「伊丹酒蔵通り」といいます。

  
(伊丹酒蔵通りのまちなみ)

この通りには、江戸時代に約80の酒蔵が並び、酒造業で栄えました。

320年前に創業した「伊丹老松酒造株式会社」の本社横には、酒造りに使われた井戸水が出ており、多くの人がこの水を汲みにきています(水質検査済み)。

 
(伊丹老松酒造株式会社横の井戸水)

また“白雪”で知られる「小西酒造株式会社」が江戸時代に建てた酒蔵の長寿蔵は、1995(平成7)年に1階をレストランやショップ、2階は伝統の酒造りの道具200余点と伊丹の酒造りの歴史等の資料を展示するブルワリーミュージアムに改築され、昔ながらの面影を残しています。

  
(白雪ブルワリービレッジ長寿蔵)

伊丹市は2006(平成18)年に、この酒蔵通り周辺の地区を市景観計画の重点区域(正式名称は“伊丹酒蔵通り都市景観形成道路地区”)に指定し、1.新たに建てられる建物は、町屋や酒蔵などをイメージする伝統的な建物にすること、2.白色や黒色を基調にした周辺と調和した建物にすること、などを定めました。
この取り組みが評価され、2008(平成20)年、官民一体となって景観の保全などに取り組んだ地区に贈られる都市景観大賞の「美しいまちなみ優秀賞」に伊丹酒蔵通り地区が選ばれました。


「伊丹」という地名のあれこれ!

2015年03月18日 | 伊丹

私は兵庫県の伊丹市で生まれ育ちましたが、文献上に“いたみ”という文字がはじめて登場するのは、権中納言忠観の日記「山槐記」の1180(治承4)年11月23日にある“伊多美武者所”の文字で、前後の文章の内容から明らかに“いたみ”だとされています。

そして、“伊丹”という文字が正式に出てくるのは、それから100年ほど後の川西の多田神社にある1303(嘉元元)年9月15日付の「出雲国守田地寄進状」という文書で、“摂津國伊丹村”と記されています。

一方、“伊丹”という名字に関しては、鎌倉時代に「伊丹」を名乗る武士が活動を始めたらしいですが、文書上で初めて出てくる伊丹姓は、1309(延慶2)年の古文書で、さらに南北朝時代の1353(文和2)年の文書には“伊丹城”という文字も出てきます。
こうしてみると、伊丹という地名が先に出てきたのか、それとも伊丹姓の名前が先なのかどちらも決め手になるものがなく謎が多いです。

ちなみに、上記の伊丹城というのは、南北朝時代に摂津国国人だった伊丹氏によって築かれた城でした。
しかし、戦国時代の1574(天正2)年11月18日に荒木村重が伊丹親興を倒して、伊丹城を惣構えの難攻不落の城に大改修したうえで有岡城と改名しました。 そしてこの改修された有岡城は、ポルトガル宣教師のルイス・フロイスが「甚だ壮大にして見事なる城」と讃えられたほどでしたが、今度は荒木村重自身が謀反を起こしたことにより織田軍に攻められ、10ヵ月にわたる攻防の末、1579(天正7)年11月19日に有岡城は落城し、翌年、池田之助が有岡城主となります。

それから3年後の1583(天正11)年に城主の池田之助が美濃の岐阜城主に国替することになり、ついに有岡城は廃城となってしまいました。

その後、その城下町は日本一の酒造の町に変身し、1715(正徳5)年には72軒もの造り酒屋がこの界隈に軒を並べていたといいます。 当時の日本酒の主流は濁り酒でしたが、伊丹は透明な清酒発祥の地とされ、「丹醸」や「伊丹諸白」は江戸でも大好評で、将軍家の御膳酒にもなりました。 そのころ、この伊丹から江戸へ出荷された清酒は、年間およそ20万樽(4斗入り)もあったそうです。

しかし、江戸末期から明治にかけて急激に衰退し、今では2軒の酒造会社が残るだけとなりました。


伊丹軍用側線の廃線跡!

2015年03月09日 | 伊丹

太平洋戦争中の1944(昭和19)年末に、国鉄(現JR)福知山線の中山寺駅から現在の伊丹市北野5丁目にある北野センター付近と宝塚市山本野里3丁目の自衛隊山本宿舎付近を結ぶ二つの引き込み線が作られました。 この引き込み線は、終戦の1945(昭和20)年8月までという、ごくわずかな期間だけ貨車が走りましたが、終戦により同年10月には線路が撤去されて道路となり、今もその線路跡がところどころに残っています。

 

 

引き込み線は、伊丹市北野地区にあった「旧大阪陸軍獣医資材支廠長尾分廠補給科」と宝塚市山本野里の自衛隊山本宿舎から川西市久代4丁目の自衛隊病院付近にかけての広い範囲にあった「旧大阪陸軍兵器補給廠川西分廠」の軍事物資を運ぶために敷設されたのでした。
この「大阪陸軍獣医資材支廠」とは、陸軍における獣医・蹄鉄その他の獣(軍馬を始めとする軍用動物)医資材、衛星用品の購買、修理、貯蔵及び補給を掌握し、かつ獣医資材に関する調査、研究及び試験を行う機関でした。 それまでは、今の大阪市港区の池島周辺にあったのですが、戦争の激化とともに敷地が手狭になってきたので、陸軍省により1947(昭和17)年7月からこの周辺一帯の約10万坪が買収され、1944(昭和19)年のはじめにこの地に移転してきたのです。
ちなみに、1943(昭和18)年当時の用地買収価格は、1坪あたり4~6円だったそうです。

北野からの線路は、北野センターの東側付近にあったプラットホームから北へ市営高縄手団地の横を通り、今の中国自動車道の下を越えて北へ直進、同市荒牧5丁目の県営伊丹荒牧高層住宅をあたりで山本野里からくる線路と合流して一本になり、北西方向の国鉄中山寺駅に向かっていました。

山本野里からの線路は、自衛隊山本宿舎から西に延び、伊丹市との市境で中国自動車道の下を斜めに横断し、中国自動車道のすぐ北側にある伊丹市荒牧5丁目の天神川トンネルをくぐります。 そしてここから北西に進み、北野からきた線路と合流してました。

 
(この先で左へ緩くカーブして中山寺駅に新入していました)

 


 
(旧鉄道の天神川トンネルは内部を鉄骨で補強されていますが、原型をとどめています)


 
(トンネルを越えて、この先の中国道を斜めに横断して今の自衛隊山本宿舎付近まで線路が敷かれていました)


 
(旧大阪陸軍獣医資材支廠に向かっていた線路跡)


 
(この先に陸軍獣医資材支廠のプラットホームがありました)


 
(今も残る旧大阪陸軍獣医資材支廠長尾分廠の正門の門柱)


 ・撮影年月日:2013年2月28日 


伊丹の合併の歴史!

2015年02月28日 | 伊丹

兵庫県の伊丹市が誕生したのは1940(昭和15)年11月10日で、当時の伊丹町と西隣の稲野村が合併して実現しました。 この合併話は1935(昭和10)年頃から既に始まっており、合併にいきつくまでいろいろ問題があったが、両町村とも財政難であったことや伊丹町側が合併に熱心だったうえ、稲野村も工場・住宅地域づくりを目指していたこと等から、何とか合併にこぎつけました。 県内では7番目、全国では174番目の市でした。

次いで1942(昭和17)年には、伊丹市と神津村、伊丹市の北隣の長尾村や南隣の園田村、さらに川西町などとの合併話が持ち上がったが、いずれも実現しませんでした。
しかし、神津村との合併話は、戦後の1947(昭和22)年になって再燃します。 神津村は、小坂田・下河原・中村・東桑津・西桑津・森本・口酒井・岩屋の8地区から成っていました。 合併については神津村村内で賛否が分かれましたが、最終的には3月1日に合併が実現します。 神津村の田畑300ヘクタールのうち約80ヘクタールが伊丹空港の拡張でなくなったこともあって、神津村の財政力が弱っていたことが合併を促進したといわれています。 この合併により、伊丹市の人口は53,200人になりました。

園田村に対しては、昭和21年に伊丹市が正式に合併を申し入れました。 これと相前後して尼崎市も園田村に合併を申し入れ、伊丹市と引っ張り合いの格好になってしまいました。 この園田村はかつて伊丹町に郡役所があった河辺郡に属し、伊丹町とは同じ経済・行政圏にあったうえ、昭和12年には園田村が伊丹警察署管轄になったこともあって交流が盛んだったのですが、結局、園田村は伊丹市ではなく尼崎市を選び、昭和22年に合併してしまいました。
三菱電機は昭和16年に園田村に工場を作りましたが、いずれ園田村が伊丹市に合併すると判断して、この工場名を「三菱電機伊丹製作所」と名付けました。 ところが尼崎市となり困ってしまうが、今もこの名称のままにしています。

昭和17年に起きた伊丹市と長尾村との合併話は、太平洋戦争の激化で一旦消滅しましたが、この話は伊丹市と神津村との合併が実現した翌年の昭和23年になって再燃します。 それは当時長尾村に属していた荒牧・鴻池・荻野・大野などの伊丹市の隣接地区が、長尾村長に伊丹市への合併を要望する文書を提出したのがきっかけでした。
6年・3年の義務教育制ができ、新制中学校を建設しなければならなかったが、小さな長尾村には財政的に余裕がなく、膨大な建設費用が村民を苦しめることを懸念して、合併という方法を考えざるをえなくなっていたのです。
この長尾村に対しては、伊丹市の他にも、1948(昭和23)年12月17日に川西町(現・川西市)や小浜村(現・宝塚市)が「北部都市建設構想」をもって合併を申し入れたこともあって、長尾村内の意見は多岐に分かれて混乱を重ねます。 おおまかにいうと、阪急宝塚線の沿線地区は、小浜村または北部都市建設賛成派、伊丹に近い南の地域は、伊丹市への合併派ということでした。
昭和24年1月31日に長尾小学校で、伊丹市と川西市と小浜村による合併に関する説明会が開かれましたが、会場はヤジと怒号が飛び交い収集がつかなくなったので、やむなく散会となりました。
長尾村の村民たちは同年2月5日に村民大会を開いて議論した結果、僅かな差で伊丹市への合併反対を決議しました。 しかし、2日後の2月7日に開いた臨時村議会では、逆に伊丹市への合併を可決してしまいました。 これに対し、伊丹市への合併に反対する村民は、この村議会の決議を「民意を踏みにじったもの」として、2月11日から2回にわたって議会解散請求をした結果、同年5月に小差で議会解散が決定され、伊丹市への合併話は白紙に戻りました。

その後、川西町とともに長尾村に合併を申し入れていた小浜村は1952(昭和27)年3月に宝塚町になり、昭和29年4月には武庫郡良元村と合併して宝塚市に発展しました。

そしてこの宝塚市が1955(昭和30)年1月に改めて単独で長尾村に合併を申し入れてきたので、これが原因でまた合併問題の南北対立が激化することになりました。
伊丹市と宝塚市の両市から合併話を持ち込まれた長尾村は、村議会や村民との話し合いでなんとか解決しようとして、昭和30年2月に長尾小学校で議員協議会を開きますが、会場は殺気立った雰囲気になり、いたたまれなくなった村長と村議会議長が役場へ逃げだしてしまい流会となりました。 長尾村だけでなく伊丹、宝塚両市も解決の手掛かりをなくし、結局は兵庫県に相談するしか方法はありませんでした。

そこで相談を受けた兵庫県は、解決策として、1.長尾村は昭和30年3月10日をもって宝塚市に編入する、2.宝塚市は同年4月1日に市議会を開いて、荒牧・鴻池・荻野・大野地区についての境界変更を議決し、これらの地区を分村して伊丹市に編入する、という分村合併案を出しました。
これにより、昭和30年3月10日に長尾村全域がいったん宝塚市に編入。ひとまず宝塚市議会議員選挙の投票を済ませた後、22日後の4月1日に宝塚市議会の境界変更の議決をもとに長尾村南部の荒牧・桑田・西池・鴻池・大野・荻野の6地区が改めて伊丹市に合併されました。


伊丹市営バス!

2015年02月23日 | 伊丹

最近は利用者の減少による経営悪化により、地方公共団体による公営バスが少なくなりましたが、私が生まれ育った伊丹には、まだ伊丹市交通局による市営バスが走っております!

そこで今日は、伊丹市営バスのことを書きます。

太平洋戦争終了後の伊丹市では、公共交通機関が市の東端を走る国鉄(現JR)福知山線と市の南部に乗り入れる阪急伊丹線だけという不便な状況でした。
そこで、市民の不便を解消すべく、市がバス事業に乗り出すことになりましたが、当時はまだ国産のバスがなく、木炭車も危険という理由で、運輸省は新規事業としては許可しない方針でした。

こんな状況のなか、伊丹市内にある三菱電機伊丹製作所が時速30kmで走る電気バスを試作していることがわかり、この電気バスを4台購入して、1949(昭和24)年1月5日に営業を開始しました。

営業開始当初の営業区間は、阪急伊丹駅から昆陽里、荒牧、緑ヶ丘を経由して同駅に戻る延長16kmの1系統だけでした。
しかし、伊丹市は市域が狭く、特に北部や西部からは鉄道の便が悪いため、その後は続々と免許申請を行い、現在では、わずか25平方キロメートルの市域を44の運行系統、総延長78.7kmの路線が網の目のように張りめぐらされて、市民の貴重な交通手段になってます。

(車両について)

一般的に公営バスでは、国内メーカー各社を営業所ごとに割り当てるか、入札で年度ごとに購入車種を決めるため、事業者全体で特定メーカーのみに統一されることはほとんどないが、伊丹市交通局の場合は、原則としていすゞ自動車製のみに揃えています。
塗装は、白色とダークグリーンのツートンカラーで、ノンステップバスを導入してからは、オレンジを入れるようになりました。
バスの保有台数は、88両です。

(運賃について)

運賃は乗車距離にかかわらず、1回の乗車につき、大人210円、小人110円です。
また関西地区のバス事業者のほとんどは、均一運賃であっても「後乗り前降り、運賃後払い」方式を採用していますが、伊丹市営バスは関西地区では珍しい「前乗り後降り、運賃先払い」方式を採用しています。

(沿 革)

・1949(昭和24)年1月5日:電気バス4両で運行開始

・1952(昭和27)年1月:観光バス事業をスタートし、貸切バスの運行開始

・1965(昭和40)年11月:大阪空港線の運行開始

・1967(昭和42)年9月:ワンマンバスの運航開始

・1979(昭和54)年10月:路線バスのワンマン化100%達成

・1991(平成3)年4月:貸切バス事業12両から2両体制へ

・1993(平成5)年1月8日:料金改定(160円から180円へ)

・1995(平成7)年6月17日:料金改定(180円から200円へ)

・2003(平成15)年8月18日:JR中山寺駅への乗り入れを開始

・2006(平成18)年1月:貸切バス事業を廃止


(JR中山寺駅前で発車を待つ伊丹市営バス)


ところで話題は変わりますが、今日は歌手の中島みゆきの誕生日(63歳)です!