大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

今日は日本初の観艦式が行われた日!

2020年04月18日 | 軍艦

4月18日は日本で初めて観艦式が行われた日です!

観艦式とは、国際親善や防衛交流を促進するために行われる軍事パレードの一種で、国家の祝典の際や海軍の記念行事の際に軍艦を並べて壮行する式のことです。

かつては、味方の艦隊を観閲することにより、軍の士気を高め、国民や友好勢力には、精強さをアピールすると共に、敵勢力に対する示威行為とすることでありましたが、現在では、他国からの艦艇を招き、国際親善や防衛交流を促進することや、自国民の海軍に対する理解を深めることが主要な目的です。

この観艦式は、1341年の英仏百年戦争の時に、イングランドの国王だったエドワード3世が自ら艦隊を観閲し、士気を鼓舞したのが始まりとされています。 また、現在各国で行なわれている観艦式の様式は、1897(明治30)、イギリスのビクトリア女王即位60年祝賀の際に挙行されたものが基となっています。

日本で最初の観艦式は、1868(明治元)年4月18日に大阪湾の天保山沖において、明治天皇が陸上から観閲の下、明治新政府に帰順した日本の軍艦6隻とフランス海軍の軍艦1隻の計7隻で行われました。
この時の参加艦艇は、「電流丸=肥前藩鍋島家所有、300トン」、「萬里丸=熊本藩細川家所有」、「千歳丸=久留米藩有馬家所有、459トン」、「三邦丸=薩摩藩島津家所有」、「華陽丸=長州藩毛利家所有、413トン」、「萬年丸=広島藩浅野家所有」の6隻と「デュプレクス、1173トン」というフランスの1隻で、総指揮官の石井忠亮海軍中佐は旗艦の電流丸で指揮を執りました。

太平洋戦争前には、この第1回から1940(昭和15)年の特別観艦式まで合計18回の観艦式が行われましたが、1905(明治38)年10月23日に115隻の軍艦が参加して行われた東京湾凱旋観艦式(日露戦争凱旋観艦式)と、1928(昭和3)年12月4日に186隻の軍艦と130機の航空機が参加して行われた御大礼特別観艦式は、特に盛大な観艦式でした。

戦後、観艦式は、海上自衛隊の創設に伴って1957(昭和32)年10月1日に東京湾で再開されました。 その後、1973(昭和48)年までは毎年行われていましたが、オイルショックによる中断を経て、現在は3年に1回、自衛隊記念日である11月1日前後に記念行事の一環として行われています。


今日もご訪問有難うございます


今日は世界初の空母「鳳翔」が竣工した日!

2019年12月27日 | 軍艦

1922(大正11)年の今日(12月27日)、横須賀海軍工廠で世界初となる日本海軍の航空母艦「鳳翔」が竣工しました。

「鳳翔」は、設計と開発段階から空母としての運航を目的として建造された艦(正規空母)として世界で最初に完成し、日本初の航空母艦として日本海軍機動部隊の創成期を担いました。

しかし、太平洋戦争時は既に艦そのものが旧式化していたし、日本海軍は艦載機用カタパルトを開発できなかったため小型空母であった鳳翔に最新機のゼロ戦や九九式艦上爆撃機などを運用することが不可能だったので、1942(昭和17)年6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦に、戦艦を基幹とする主力部隊に編入されて、梅谷 薫艦長指揮の下に複葉低速で発着艦の容易な九六式艦上攻撃機6機(補用2機)と固定脚の九六式艦上戦闘機9機(補用2機)の計19機を搭載して参加した(直接戦闘には参加せず)後は、主に練習空母として瀬戸内海で用いられ、空母艦載機搭乗員の着艦訓練及び潜水艦の標的空母として運用されました。
ちなみに、終戦時に問題なく航行可能な空母は鳳翔、龍鳳、葛城の3隻だけでした。

そして、終戦後は飛行甲板の前部を撤去したうえで復員輸送艦として使用され、1945年10月から1946(昭和21)年8月まで内地と南方の各地を9往復して約4万人の将兵と民間人を輸送した後、1946(昭和21)年8月31日から1947(昭和22)年5月1日にかけて、日立造船築港工場で解体されました。


空母「信濃」!

2015年04月26日 | 軍艦

私の事務所には、写真のような空母「信濃」の模型があります。

  


  


「信濃」は旧日本海軍に所属した当時世界最大の空母でした。

この空母信濃は、もともとは海軍の大和型戦艦の3番艦として1940(昭和15)年5月4日に横須賀海軍工廠で着工され、1945(昭和20)年3月末の完成を目指して工事が進められていました。
しかし、太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年11月に、戦艦を含めた艦艇建造計画が見直され、潜水艦と航空機の生産優先が決定し、大型艦の建造が中止となったことにより信濃の戦艦としての建造も中断します。

その後、1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦で「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻を沈められた日本海軍は、空母不足を補うために、大和型戦艦の3番艦として起工しながら工事が中断していた信濃を航空母艦へ設計変更し、1944(昭和19)年12月末の完成を目指し空母として就役させることを決定しました。

こうして信濃は空母としての工事を進めます。 当時は国内の資材不足も深刻になってきていた時期でしたが、信濃は横須賀海軍工廠で建造された最後の大型艦艇だったので、同海軍工廠に残る全ての資材が投入されました。

1944(昭和19)年になると、太平洋戦争の戦局は次第に日本に不利となり、海軍も6月のマリアナ沖海戦や10月のレイテ沖海戦で敗北して多くの艦艇が撃沈されましたが、そういう状況の下で信濃は10月8日に命名式が行われて正式に横須賀鎮守府所属となり、11月19日に竣工します。

そして横須賀地区がアメリカ軍から空襲されることを危惧した海軍は、11月末に信濃に対して「速やかに瀬戸内海西部(呉方面)に回航すべし」と命令を出します。
この時点で信濃は書類上、軍艦籍に入って完成艦として扱われていますが、実際はまだ建造中の未完成艦で、機関も12基のうち8基しか搭載していませんでしたし、気密試験も行われていませんでした。

しかし、前述の軍の命令を受けて、11月28日の午後1時30分に護衛の3隻(「浜風」「磯風」「雪風」)の駆逐艦を伴って、呉へ向けて横須賀を出港したものの、翌29日の午前3時16分にアメリカ潜水艦「アーチャーフィッシュ」の魚雷攻撃を受けて、4本の魚雷が右舷に命中し、同日の10時57分に潮岬沖南東48kmの地点で沈没しました。

信濃は世界最大の空母でありながら、1度も実戦に投入されることなく竣工してから10日後に沈没してしまった不運の艦でした。

 (信濃の主要要目)

 ・基準排水量:62,000トン
 ・満載状態排水量:71,890トン
 ・全長:266.1m
 ・飛行甲板長:256m
 ・最大幅:40m
 ・最大速力:27ノット
 ・航続距離:18ノットで10,000海里
 ・機関出力:153,553馬力
 ・搭載機:艦上戦闘機18機、艦上攻撃機18機、高速偵察機6機、補用5機の合計47機
 ・乗員数:2,400名

 <兵 装>
 ・12.7cm連装高角砲8基16門
 ・25ミリ3連装機銃37基111梃、25ミリ単装機銃40基40梃、
 ・12cm28連装噴進砲12基


戦艦「武蔵」!

2015年03月08日 | 軍艦

先週、マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレンが、シブヤン海の水深1000mの海底で戦艦「武蔵」らしい艦を発見しました。

戦艦「武蔵」は、太平洋戦争中に完成した旧日本海軍の大和型戦艦の2番艦で、旧海軍が建造した最後の戦艦です。

この艦は、1938(昭和13)年3月29日に三菱重工業長崎造船所で建造が始まり、当初の完成予定は1942(昭和17)年12月でしたが、建造途中で太平洋戦争が勃発したため、工期を繰り上げた結果、1942年の8月5日に完成しました。
「武蔵」は1番艦の大和よりも約5ヶ月遅れて建造が始まったので、大和の建造中に判明した不具合の改善や、特に連合艦隊旗艦としての司令部設備の充実が図られました。

「武蔵」は完成してから横須賀鎮守府籍に編入され、訓練に従事した後、1943(昭和18)年2月11日にトラック島に進出し、大和に代わって連合艦隊の旗艦となり、連合艦隊司令長官の山本五十六が乗艦します。

その後、マリアナ沖海戦に参加し、レイテ沖海戦では「大和」「長門」と共に第1戦隊を形成し、栗田健男中将指揮の第1遊撃部隊として参加するも、米機動部隊の艦載機の集中攻撃を受け、艦隊から落伍した後も波状攻撃を受け続け、1944(昭和19)年10月24日にシブヤン海で沈没しました。

 (武蔵の主要要目)

 ・基準排水量=65,000トン
 ・満載状態排水量=72,809トン
 ・全長=263m
 ・喫水線長=256m
 ・最大幅=38.9m
 ・深さ(キールラインより最上甲板側線まで)=18.9m
 ・速力=27.46ノット
 ・航続距離=16ノットで7,200海里
 ・機関出力=153,553馬力
 ・搭載機=零式水上偵察機・零式水上観測機6機
 ・射出機(カタパルト)=2基
 ・乗員数=2,399名

 <兵装>竣工時
 ・主砲=46cm砲3連装3基9門
 ・副砲=15.5cm砲3連装4基12門
 ・高角砲=12.7cm連装高角砲6基12門
 ・機銃=25ミリ3連装機銃12基36梃、13ミリ連装機銃2基4梃

 <兵装>レイテ沖海戦時
 ・主砲=46cm砲3連装3基9門
 ・副砲=15.5cm砲3連装2基6門
 ・高角砲=12.7cm連装高角砲6基12門
 ・機銃=25ミリ3連装機銃35基105梃、25ミリ単装機銃25基25梃、13ミリ連装機銃2基4梃

 (武蔵の歴代艦長)

 1.有馬 薫 大佐:1942(昭和17)年8月5日~1943(昭和18)年6月9日
 2.古村啓蔵 大佐:1943(昭和18)年6月10日~1943年12月5日
 3.朝倉豊次 大佐:1943(昭和18)年12月6日~1944(昭和19)年8月11日
 4.猪口敏平 少将:1944(昭和19)年8月12日~1944年10月24日

(私の家にある「武蔵」関連の書物)

     

 


戦艦「大和」!

2015年02月15日 | 軍艦

私の自宅には、戦艦「大和」の模型があります。

そこで今日は戦艦「大和」について書きます。

     

 

戦艦「大和」は、日本の造船技術を結集し、4年の歳月をかけて建造され、戦艦として史上最大の排水量に、史上最大の46cm3連装主砲3基9門を備えた、けた外れの戦艦でした。

太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年12月16日に就役し、1942(昭和17)年2月12日にそれまでの戦艦「長門」に代わって連合艦隊旗艦となりました。
その後、ミッドウェー海戦・マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦に参加し、1945(昭和20)年4月6日に軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦8隻を従えて天一号作戦で沖縄水上特攻に出撃するが、翌7日、米軍機367機の波状攻撃により坊ノ岬沖で沈没しました。

(「大和」の艦名の由来)

軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選んで天皇の決定を仰ぐことが定められていたため、海軍が艦名の候補として「大和」と「信濃」を挙げ、昭和天皇は「大和」を選択したのでした。 そしてその天皇の決定を受けて、吉田善吾海軍大臣は第1号艦を「大和」と命名しました。 ちなみに「信濃」は大和型戦艦の第3番艦として着工されましたが、ミッドウェー海戦で空母4隻が沈没したことにより空母が不足したため、建造途中で空母に計画変更され、世界最大の空母として完成しました。

(大和の主要要目)

・基準排水量=65,000トン
・満載状態排水量=72,809トン
・全長=263m
・吃水線長=256m
・最大幅=38.9m
・深さ(キールラインより最上甲板側線まで)=18.9m
・速力=27.3ノット
・航続距離=16ノットで7,200海里
・機関出力=153,553馬力
・搭載機=零式水上偵察機・零式水上観測機6機
・射出機(カタパルト)=2基
・乗員=竣工時2,500名、最終時3,332名

<兵装>新造時
・主砲=46cm砲3連装3基9門
・副砲=15.5cm砲3連装4基12門
・高角砲=12.7cm連装高角砲6基12門
・機銃=25ミリ3連装機銃8基24梃、13ミリ連装機銃2基4梃

<兵装>最終時
・主砲=46cm砲3連装3基9門
・副砲=15.5cm砲3連装2基6門
・高角砲=12.7cm連装高角砲12基24門
・機銃=25ミリ3連装機銃52基156梃、25ミリ単装機銃6基6梃、13ミリ連装機銃2基4梃

(私の家にある大和関連の書物)