大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

伊丹の合併の歴史!

2015年02月28日 | 伊丹

兵庫県の伊丹市が誕生したのは1940(昭和15)年11月10日で、当時の伊丹町と西隣の稲野村が合併して実現しました。 この合併話は1935(昭和10)年頃から既に始まっており、合併にいきつくまでいろいろ問題があったが、両町村とも財政難であったことや伊丹町側が合併に熱心だったうえ、稲野村も工場・住宅地域づくりを目指していたこと等から、何とか合併にこぎつけました。 県内では7番目、全国では174番目の市でした。

次いで1942(昭和17)年には、伊丹市と神津村、伊丹市の北隣の長尾村や南隣の園田村、さらに川西町などとの合併話が持ち上がったが、いずれも実現しませんでした。
しかし、神津村との合併話は、戦後の1947(昭和22)年になって再燃します。 神津村は、小坂田・下河原・中村・東桑津・西桑津・森本・口酒井・岩屋の8地区から成っていました。 合併については神津村村内で賛否が分かれましたが、最終的には3月1日に合併が実現します。 神津村の田畑300ヘクタールのうち約80ヘクタールが伊丹空港の拡張でなくなったこともあって、神津村の財政力が弱っていたことが合併を促進したといわれています。 この合併により、伊丹市の人口は53,200人になりました。

園田村に対しては、昭和21年に伊丹市が正式に合併を申し入れました。 これと相前後して尼崎市も園田村に合併を申し入れ、伊丹市と引っ張り合いの格好になってしまいました。 この園田村はかつて伊丹町に郡役所があった河辺郡に属し、伊丹町とは同じ経済・行政圏にあったうえ、昭和12年には園田村が伊丹警察署管轄になったこともあって交流が盛んだったのですが、結局、園田村は伊丹市ではなく尼崎市を選び、昭和22年に合併してしまいました。
三菱電機は昭和16年に園田村に工場を作りましたが、いずれ園田村が伊丹市に合併すると判断して、この工場名を「三菱電機伊丹製作所」と名付けました。 ところが尼崎市となり困ってしまうが、今もこの名称のままにしています。

昭和17年に起きた伊丹市と長尾村との合併話は、太平洋戦争の激化で一旦消滅しましたが、この話は伊丹市と神津村との合併が実現した翌年の昭和23年になって再燃します。 それは当時長尾村に属していた荒牧・鴻池・荻野・大野などの伊丹市の隣接地区が、長尾村長に伊丹市への合併を要望する文書を提出したのがきっかけでした。
6年・3年の義務教育制ができ、新制中学校を建設しなければならなかったが、小さな長尾村には財政的に余裕がなく、膨大な建設費用が村民を苦しめることを懸念して、合併という方法を考えざるをえなくなっていたのです。
この長尾村に対しては、伊丹市の他にも、1948(昭和23)年12月17日に川西町(現・川西市)や小浜村(現・宝塚市)が「北部都市建設構想」をもって合併を申し入れたこともあって、長尾村内の意見は多岐に分かれて混乱を重ねます。 おおまかにいうと、阪急宝塚線の沿線地区は、小浜村または北部都市建設賛成派、伊丹に近い南の地域は、伊丹市への合併派ということでした。
昭和24年1月31日に長尾小学校で、伊丹市と川西市と小浜村による合併に関する説明会が開かれましたが、会場はヤジと怒号が飛び交い収集がつかなくなったので、やむなく散会となりました。
長尾村の村民たちは同年2月5日に村民大会を開いて議論した結果、僅かな差で伊丹市への合併反対を決議しました。 しかし、2日後の2月7日に開いた臨時村議会では、逆に伊丹市への合併を可決してしまいました。 これに対し、伊丹市への合併に反対する村民は、この村議会の決議を「民意を踏みにじったもの」として、2月11日から2回にわたって議会解散請求をした結果、同年5月に小差で議会解散が決定され、伊丹市への合併話は白紙に戻りました。

その後、川西町とともに長尾村に合併を申し入れていた小浜村は1952(昭和27)年3月に宝塚町になり、昭和29年4月には武庫郡良元村と合併して宝塚市に発展しました。

そしてこの宝塚市が1955(昭和30)年1月に改めて単独で長尾村に合併を申し入れてきたので、これが原因でまた合併問題の南北対立が激化することになりました。
伊丹市と宝塚市の両市から合併話を持ち込まれた長尾村は、村議会や村民との話し合いでなんとか解決しようとして、昭和30年2月に長尾小学校で議員協議会を開きますが、会場は殺気立った雰囲気になり、いたたまれなくなった村長と村議会議長が役場へ逃げだしてしまい流会となりました。 長尾村だけでなく伊丹、宝塚両市も解決の手掛かりをなくし、結局は兵庫県に相談するしか方法はありませんでした。

そこで相談を受けた兵庫県は、解決策として、1.長尾村は昭和30年3月10日をもって宝塚市に編入する、2.宝塚市は同年4月1日に市議会を開いて、荒牧・鴻池・荻野・大野地区についての境界変更を議決し、これらの地区を分村して伊丹市に編入する、という分村合併案を出しました。
これにより、昭和30年3月10日に長尾村全域がいったん宝塚市に編入。ひとまず宝塚市議会議員選挙の投票を済ませた後、22日後の4月1日に宝塚市議会の境界変更の議決をもとに長尾村南部の荒牧・桑田・西池・鴻池・大野・荻野の6地区が改めて伊丹市に合併されました。


今日は咸臨丸の日!

2015年02月26日 | 今日は何の日

今日は咸臨丸の日です!

咸臨丸とは、幕末期に江戸幕府が保有していた軍艦です。
黒船の来航に驚いた江戸幕府が10万ドルでオランダに発注し、1855(安政2)年7月にホップ・スミット造船所で起工、1857(安政4)年3月に完成しました。 その後、この船はオランダ人のファン・カッテンダイケの指揮で、同年8月に長崎に到着して幕府に引き渡されました。

長さ48.8m・幅8.74m・排水量625トン・最大速度6ノット、3本マストに100馬力の蒸気機関を備えた木造の蒸気帆船で、12門の備砲も装備していました。 当時の蒸気船といえば、船体の両側で水車を回して走る外輪船が普通だったのですが、咸臨丸はスクリュー推進の蒸気エンジンを装備するとともに、バーク型の帆装を備えており、汽船と帆走を併走できるようになっていた最新式の軍艦でした。

(咸臨丸の日の由来)

1858(安政5)年6月19日に日本(江戸幕府)とアメリカとの間で日米修好通商条約が締結されましたが、その第14条にワシントンにおいて批准書を交換することが明記されていたことから、1860(万永元・安政7)年、日米修好通商条約の批准書交換のため、江戸幕府が新見豊前守正興を正使とする77人の使節団をアメリカに派遣することになりました。 遣米使節団は、アメリカの軍艦ボーハタン号に乗艦して渡米することになりましたが、その護衛の名目で随伴艦に選ばれたのが咸臨丸でした。

この時の咸臨丸の艦長は勝海舟、提督を務めたのが軍艦奉行の木村摂津守喜毅で、士官・水夫併せて総勢96人の日本人と米海軍ジョン・ブルック大尉以下11人の米国人が乗り組んだが、その日本人の乗組員の中に福沢諭吉や中浜万次郎(後のジョン万次郎)もいました。

浦賀を出港した使節団は、37日間の太平洋横断航海を終えて1860年の今日(2月26日)、サンフランシスコに無事到着しました。 このことを記念して2月26日が咸臨丸の日となったそうです。

サンフランシスコに到着後、新見正興以下の遣米使節団は、パナマ経由で首都ワシントンに向かい、ブキャナン大統領と条約批准書を交換しました。 一方、咸臨丸の乗組員は、2ヶ月弱ベイエリアに滞在し、咸臨丸の修理が終わるのを待ってホノルル帰国の途に就きました。

サンフランシスコにおいては、咸臨丸は初めてアメリカまでやって来た日本の軍艦として注目を集め、新聞にも大きく報道されたそうです。 咸臨丸は往路の航海で暴風雨により船体に損傷を受けたが、その修理はバレホの米海軍工廠で米政府の好意により無償で行われ、この好意に感謝した木村喜毅提督は、サンフランシスコの消防士、船員の遺族団体にお金を寄付したと言われています。


ところで話題は変わりますが、今日はサザンオールスターズの桑田佳祐の誕生日(59歳)です!


レンタカー事業!

2015年02月25日 | 行政書士事務所

今や所有から「必要なときに必要なだけ」というレンタル産業の時代です!

そして自動車関連産業では、レンタカー事業が脚光を浴びています。 現在、レンタカー事業への新規参入は増加しており、特にガソリンスタンド事業者の新規参入が増えています。

ガソリンスタンド業だけでなく、自動車整備業や自動車販売業もレンタカー事業との相性は良く、メリットを最大限に活かすことができれば、本業にも良い影響を及ぼすことは間違いありません。
また、ガソリンスタンド、自動車整備業、自動車販売業などの自動車関連事業をすでに行っている事業者様にとっては、レンタカー事業を開始するにあたりほとんど初期投資が発生しません。今までの経営資源(店舗・人員・自動車)で十分に開始できます。

<ガソリンスタンドとレンタカー営業>
ガソリンスタンドには常に自動車を利用する人たちが給油や洗車サービスなどの利用のために来店します。 自動車を利用するという顧客が目の前にいるので、潜在的なレンタカー利用者(見込み客)がいる状態でレンタカー事業を開始できます。

<自動車整備業とレンタカー営業>
整備工場には常に自動車を利用している人たちが整備や点検のために来店します。 法人の営業車の整備・点検の仕事がある場合には、法人顧客をお持ちです。 まさしく潜在的なレンタカー利用者(見込み客)がいる状態でレンタカー事業を開始できます。
また、事故保険修理の業務がある整備工場の場合は、工場代車ではなくレンタカーを貸し出すことで、保険会社よりレンタカー代として収入を得ることが可能です。

<自動車販売業とレンタカー営業>
自動車販売店には自動車を購入したい、あるいは以前購入した人たちが来店します。 その人たちは、通常、レンタカーを要望しているわけではありません。
しかし、購入したい自動車と乗りたい自動車が異なる場合もあります。 そういった場合、ハイクラスな自動車、あるいは普段乗らない自動車のレンタカーを展開することで、販売だけではない収入を得ることが可能です。


レンタカー事業(自家用自動車有償貸渡事業)を始めるには、国土交通大臣の許可を受けることが必要です(道路運送法第80条)。 レンタカー事業の許可がなければ、レンタカーの登録はできません。
※なお、借受人が自動車の使用者として登録され、貸渡人が自動車の所有者として登録される自家用自動車有償貸渡許可(リース事業)は、平成18年10月1日に規制が撤廃され、許可の取得が不要です。

《大阪府内においてレンタカー事業を新たに行う場合》

1.「自家用自動車有償貸渡許可申請書」を作成して、添付書類と共に大阪運輸支局輸送部門へ提出します。 ※許可基準の詳しい内容については、公示をご覧下さい。

2.提出された申請書等の審査が行われ、記載事項に不備がなければ、約1ヶ月後に許可となります(許可書や納付書が交付されます)

3.登録免許税9万円を金融機関等で納付します。

4.輸送部門より経由印を受けた「事業用自動車等連絡書」を使用してレンタカーの登録(軽自動車の場合は届出)を行います。

☆マイクロバスをレンタカーとして使用する場合は、レンタカー事業を始めて2年以上の経営実績が必要となります。


国鉄山陰本線が全通した日!

2015年02月24日 | 鉄道

1933(昭和8)年の今日、国鉄山陰本線が全通しました!

山陰本線は、京都駅から中国地方の日本海沿岸の各都市を経て、山口県下関市の幡生駅に至るJR西日本の鉄道路線です。
仙崎支線を除く営業キロは673.8kmで、JRの在来線としては日本最長の路線ですが、起点駅から終点駅までを通して走る優等列車の設定が史上一度もない本線の一つともなっています。

山陰本線の駅の国鉄時代の懐かしい駅名標をいくつか紹介します。

   

   


   


   


   


   


   


かつては、この山陰本線に日本一長い走行距離を有する普通列車が運行されていました。 その列車は門司から福知山行の824列車で、鉄道ファンの間でも有名な列車でした。 門司~福知山間の営業キロは595.1kmで、福岡県の門司を早朝の5時22分に出発し、終点の福知山には深夜の23時51分に着くという、なんと所要時間が18時間29分にもなる列車でした。

この824列車の車両にはオハ35系やスハ43系などの旧型客車が使用されていたのですが、客車の老朽化が進んだことや当時の国鉄合理化政策の一環として客車列車を気動車・電車化した上で運行距離を短縮する施策が取られるようになったこと等から、824列車は1984(昭和59)年2月のダイヤ改正で、下関~出雲市間の824列車と出雲市~福知山間の548列車に系統が分割されてしまいました。

私も中学時代の夏休みに2年連続でこの824列車に友人と全区間乗り通しました。 山陰本線は単線が多く、特急・急行の待避や荷物輸送のために長時間停車をする駅が結構あったので、その度に駅の窓口まで走って硬券入場券を買ったものでした。
終点の福知山駅には夜中に着くので、その夜はそのまま福知山駅の待合室で過ごし、早朝の福知山発大阪行きの始発で伊丹まで帰ったんですが、とにかく疲れたのを覚えています。