伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

愛情は、次元を超える

2010-07-20 10:06:56 | Weblog
読者から伝え聞いた話ですが、伊勢神宮の伊雑宮(イザワのみや)に参拝へ行った時、読者は隣に在る神の田んぼを見に行かれました。
そこで、田んぼのそばで一人たたずむ小柄な老人と出会いました。老人は80歳を超える高齢で、日に3回も毎日のように神田(しんでん)を眺めに来るそうでした。その人が神田を眺める横顔の写真をメールで観ましたが、もう田んぼの妖精の様に、自然と同化している感じの方でした。
可愛く子供返りをされている様で、家族からは「爺ちゃん、また田んぼに行ったよ」なんて言われているのが目に浮かびました。

老人は、物心付いた頃から伊雑宮の御田植え祭りに参加されていました。ただ、戦争で海外に出兵された時は、家族が代行で祭りに参加されたようです。とにかく生きて帰って、伊雑宮の田んぼを再び見たかったそうです。
出兵した大半の日本人が亡くなる中、老人が生きて無事に帰国できたのは、やはり無言の伊雑の神様の配慮があったのでしょう。
信仰とは、祈りや儀式をする事が本意ではなく、自分の生活の中に常に神様への畏敬と愛情を維持することだと感じます。
老人の様に、常に神田を愛する気持ちは、インドのバクティ信仰(神への強い親愛主義)のように、やはり神様(外在神)へと通じ、神(内在神)を動かします。

インドの聖者としては、ラマナ・マハリシよりは劣りますが、有名なラーマクリシュナ(1836~1886年没)は、強烈なバクティ信仰一本道で、あらゆる宗教で見神(けんしん)しています。もし、日本神道と縁が有れば、天照太御神を見神したでしょう。
それは文化や言語を超えた、「神への愛情」と言う視点で信仰するから可能なのです。
人間が持つ愛情は、神性の一面です。人の表面意識が行う儀式を飛び越えて、人間が持つ神性(愛情)を持って、神様と向き合うから通じやすいのです。

老人が毎日のように神田を見に来るのは、神様の田んぼが好きだからです。もし肉体を離れても、やはり田んぼを見守っていることでしょう。そして大自然に溶けこんで、神様の元へと帰るのです。
先祖供養や神祭りは、恐れる気持ちでは通じません。本質から離れる結果に成ります。
生きている人間にも、見えない存在にも、愛情で接すると必ず通じます。
愛情は、世界共通の見えない言語かも知れませんね。

生かして頂いて ありがとう御座位ます

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コメント (634)
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