同点かサヨナラになるかわかりませんが
サファテの2イニングまたぎは、いただけませんね。
あそこは岸本です。
さて今から会合にいきます。
総括は東京出稼ぎ4年さまに お任せしましょう。
しかし・・・倉のところで代打を出さなかったのは
石原へのペナでしょうか?
あそこだったよな・・・大きなカギは・・・
同点かサヨナラになるかわかりませんが
サファテの2イニングまたぎは、いただけませんね。
あそこは岸本です。
さて今から会合にいきます。
総括は東京出稼ぎ4年さまに お任せしましょう。
しかし・・・倉のところで代打を出さなかったのは
石原へのペナでしょうか?
あそこだったよな・・・大きなカギは・・・
9回ツーアウトランナーなし・・・得点は2-2
ここでバッター東出。
相手投手は怖くないだろう。
よくてヒット。
間違っても大きいのはないんだから・・・
栗原に代走中東を送り、「オッ勝負に出たな・・・」と思う。
そして広瀬は期待に応えてタイムリー同点打。
尚も二死一・二塁のチャンスで倉。
当然代打で石井と思いきや・・・そのまま。
それはないでしょう・・・監督さん。
(石井はもう使ったの?それとも石原は怪我でもしたの?)
仕事の都合で先ほど6回の攻撃から観戦。
栗原はチャンスに弱いのは昨年もだが、どうも身体に異常があるんじゃないか?
まあ4番の宿命で、痛い痒いは言い訳になるから・・・
それにしても松山は大方の予想通り?
どうもオープン戦の首位打者は鬼門だな。
まあ、いま調子を落としているんだろうが、あまりにも皆が打てなすぎて、どうしても目立つんだよな、松山が打てないのが…
ニックもヒットは出たんだが、ここ一番でどうしても大きいのが出ないため、打線もベンチもファンも一向に盛り上がらない。
しかし野村投手・・・大したものだ。
頼むから見殺しだけはするなよ。
両雄ならび立たず・・・という格言がある。
カープでは衣笠と山本浩二。
巨人では王と長嶋など、選手時代は互いにしのぎを削り、時にはアドバイスもした仲であるが、引退すると不思議なもので、互いに手を合わせ指揮することはない。
さて、衣笠と山本浩二の現役時代の話。
当時の古葉監督が、この二人を呼び将来指導者(監督)になった前提で、ある戦略を問い質したことがあったようだ。(これは報道されたと記憶する)
その時の質問は記憶にないが、古葉監督は両者の野球観を聞き、当時の松田オーナーに「監督にするなら衣笠がいい」と伝えた。
いまあの時のことを思い出そうとしているのだが、確か細かな戦術だったと記憶する。
衣笠は京都の平安高校から入団し、最初は強肩強打の捕手として期待された。
そのことは入団時の背番号28番からも窺える。(山本浩二は法大卒ドラ1で地元の大きな期待を受けながらも、最初の背番号は27番だった)
捕手として入団した衣笠も、最初のキャンプで洗礼を受けた。
当時の投手の球が満足に捕球できない。
今の時代のように悠長な時代でなく、すぐに捕手烙印を押され内野にコンバートされる。
しかしこの衣笠・・・当時は破天荒な少年でもあった。
18歳で免許を取得すると、当時では主力選手も乗らない高級外車を購入し、周囲を唖然とさせた。
また当時の二軍スタッフが厳しく監視しても、あざ笑うかのように合宿所から抜け出し、実績もないのに毎晩豪遊もしていた。
しかしクビにならなかったのは、それだけのセンスの持ち主だったのであろう。
この衣笠を根気よく見つめながら厳しく指導し、野球の世界へ没頭させたのは関根潤三コーチ。(後にヤクルトや横浜の監督を歴任)
有名な逸話は、深夜に酔っ払い合宿所に戻った衣笠を関根コーチはバットを持ち待ち構えていた。そして「お疲れさん。いい気持ちみたいなので、ついでに素振りも行いますか・・・衣笠くん」と、数時間にわたり延々とバットを振らせた。
その時の回想を数年前に関根氏は、「そんなこともありましたね」とニコヤカに振り返っていたが、衣笠は違ったようである。「バットを振りながら、目は回る。気分は悪くなる。そんな状況で、いつストップをかけてくれるのかと思ったが、甘かった。その気配はまったくなく、そのとき、この人を怒らせたら大変なことになると思わされた」
その後、多くのライバルが毎年入団し、衣笠の甘い気持ちも完全になくなり、昭和49年までカープの看板選手となった。
昭和50年、オールスターでの甲子園。
衣笠と山本浩二の両者は共に2打席連続ホームランを放ち、赤ヘル軍団という言葉が使われ始めた。
そしてまさしくこの瞬間から、カープの看板打者は衣笠から山本浩二に変わっていったものである。
つづく
自称カープファン49年の先輩が
「カープを強くするために、古田か野村克也さんを招聘せんと、ツマランわい・・・」と、ご機嫌斜めな様子。
私が、「高橋慶彦は?」 と水を向けると・・・
「オマエいつまでヨシヒコ、ヨシヒコ言うとるんじゃい。アイツが帰ってくるわけなかろうが?」とのこと。
「それじゃ、もし・・・高橋慶彦が戻ってきたら どうする?」と、再び問い質すと・・・カープファン49年さま、「おう。ほんなら、ワシがオマエに300万くれてやるよ・・・」ときた。
300万ゲットしたら、あしのめ学園に100万送り、残り200万は、そのときの有事で判断しようとまじめに考える自分がいたのである。
昨日コメントいただきましたが、申し訳ありません。
全く存じ上げないのです。(失礼しました)
しかし、ウキペディアですか・・・そこに出てますね。
背番号もカープ時代は3番だったようで・・・
凄い方だったと思います。(特に阪急時代は・・・)
追伸・・・緋本祥男さんであれば、実際にお会いしてますから、多少はわかります。(笑)
(もうここで出しましたね)
佐伯虎さま・・・ありがとうございました。
そうなんです。
東京出稼ぎ4年さまのアクセス・・・間違ってました。
ひでさま、そして多くの皆様、申し訳ありませんでした。
実は私・・・このようなコンピューター操作苦手でして、せっかく写真の貼り付けなどができるように知人に携帯を操作してもらったのですが、携帯の機種を変えたばかりに、貼り付けもまた行えなくなったりして困ってます。(笑)
コメント欄から、確かにアクセスできます。
本当に佐伯虎さま・・・助け舟を差し伸べていただき、ありがとうございました。
今日の先発ルーキー野村に対して、相手は山本昌。
年齢が24歳の開きだとマスコミは紹介している。
(他にも楽天の下柳とロッテの藤岡は21歳差だったか?)
その対決を問われ、カープの野村監督・・・
「おじさんとルーキー対決だね。おじさんに負けないでほしい」と、話した。
私は、「アレッ…山本は野村より年下だったか?」と思い、選手名鑑で生年月日を確認した。
すると山本昌が野村より1歳上である。
まあ野村監督には、当然他意がないことは百も承知している。
しかし…どうも彼は、先輩を先輩と思わない言動が目立つように感じるのは私だけか?
監督と言う立場から多少は仕方ないと思う。
しかしそれらの言動が表に出ることが、私にはどうも気になる。
彼の性格云々までここには羅列をしないが、もう少し先輩に対する敬意は立場上示してほしいものだと思う。
「人に好かれることはない・・・しかし、嫌われることは尚更ない・・・」
これは今は亡き、私の高校時代の先輩から言われた金言である。
野村監督には3年間の集大成として、多くの意味で成長した立ち居振る舞いをしてほしい。
何気なく語った一言であったとしても、活字(語録)として掲載されると、当然真意は伝わらない。
ましてや、この言葉が…今年に選手生命を懸け、復活を期す山本昌に届くと、今日のカープ打線には厄介なことになるだろう。
敗因は、「野村監督の一言・・・」に、ならないようにしてほしいものである。