息子の(小中高等)学校は脱皮中~ホワイトPTA目指して~

PTA問題に目覚めてしまい活動を始めたのは2015年。
私立高校でも、県立高校でもPTAが…。終わらないな。

ボランティア4

2015-09-08 19:53:55 | ボランティア
KKです。
やっと夏休みが終わりましたね。
以前の静かな環境が戻ってきました。

宿題の丸付けやら、もろもろで
8月後半はそれにかかりきりでした。
なんで息子は自分で宿題を済ませて
おかないのだろうか…。
そろそろ一人で計画的にして欲しいと
息子に言いました。

しかし自分の子ども時代を振り返ると
自発的に宿題を取り組んではおらず
最後の数日はいつも地獄を見ていました。
自分が出来ない事を息子に求めるのは
間違っていると気づいた次第です。

9月になり仕事が忙しくなり
時間を作れず時間ばかり経ちました。


さて、今回もボランティアについて
考えます。

ボランティア2で私の学生時代
所属した会のディレクターから
ボランティアの意味として、
自分が所属している会を最後まで
支える事だと聞いた話を紹介しました。

私は会に所属する前提が自分の意思で
入会する事とずっと思っていました。

PTAの入会に関しては、どの段階でも
意思確認をされていない。
自分から進んで入会したいと思った
訳ではないので自分がPTAを支える事は
ないと思っていました。
それどころか、騙して入会させられた
PTAをなぜ私が支える義理があるのか
と思っていました。

しかし会を支えるや寄り添う意味が
そうではない事が最近分かりました。
久しぶりに学生時代のディレクターに
連絡をしそこで判明しました。

ボランティアグループにはそのグループ
をメンテナンスする人(保護者)が
必要。

その役割は「何かの目的をなしとげる
こと」ではなく「グループの成長に
添い遂げること」。
結果としてそのグループが良いことを
達成すればそれはそのグループメンバー
の手柄であってメンテナンスをする人の
手柄にはならない。

PTAを良いものにしたいのなら、
遠回りだがそのグループ自体を
良いものにしないといけない。
役員になり仲間を増やし、グループの
保護者になる。

また寄り添うという事は相手が
変わろうが変わるまいがそれでも
一緒にいるという意思表示。


はじめはその考えがよく理解出来ず
混乱しました。
数度やり取りをし、ディレクターの
考えが分かりました。

私にとってPTA執行部や校長を
支えるや寄り添うのは考えられない
事です。
人を騙して入会させたのにそんな
おかしな話はないと思いました。

ただ10月には理事会後の会に私の参加が
了承された場合は同じテーブル
に着き話し合いをします。

それは結果としてPTA執行部や校長を
支える事になるのではないか?
と今は思っています。
支えるという言葉じりに囚われるのでは
なく今後を見据えるしかないのか…。

『支える』を『最後まで見届ける』に
置き換えれば納得出来ます。
どんな結果になろうが最後まで
見届けるつもりです。

おかしな方向に話が行くのなら何度でも
しつこく話し合いをするつもりです。
そういう私のスタンスが保護者なのかも
しれないと思います。
別に一緒にいたい訳ではないですが
きちんと結論が出るまでは一緒に
考えていくので同じだと感じています。

今後の事は分かりませんが、恐らく
息子の小学校は何らかの変化が
生じる事と思います。
その時に私の名前を出すつもりは
ありません。
手柄にしようなどはじめから思って
いません。

今のPTA会長を始めとした執行部や
理事達で議論し改革をした結果と
堂々と発表すればいいと思って
います。

支えるという言葉の意味を何日も
いろいろと考えさせられました。


今回はここまで。まだ考えていきます。
そろそろ7月末話し合いで男性の
副PTA会長が気にしていた件の
その後を書きたいと思います。
では、次回!



ボランティア3

2015-08-26 15:03:59 | ボランティア
KKです。
前回は熊本PTA裁判の意見書に
ついてでした。

私のブログをご覧になって
いる方のPTAでの
立ち位置は同じではないと
思っています。

PTAに対して批判的な方、
PTAと今対峙されている方、
PTAとこれから対峙しよう
としている方、
何かおかしいな、と思っている方、

PTA関係者で執行部など
実務をされており特に問題を
感じない方、
実務をされているが問題を感じ、
内側から変えようとしている方、

一般のPTA会員の方、
PTA問題の何が問題なのか
全く理解できない方、
既に退会された方、
以前PTAに関わったが子どもさんの
年齢で卒業した方など
いろいろあると思います。

立場は様々ですがPTAのあるべき姿は
普遍だと私は思っています。

まるおさんの意見書を読むと
今まで私が校長やPTA会長や教育委員
会とやり取りをした事、ある種の闘いを
思い出し感慨深いものがありました。
何度話しても伝えても理解してもらえ
なかった点がきちんと整理され論点が
述べられていました。

私が話しても伝わっていない点、
これは私の力不足であり克服するべき
課題でもあります。
足りない部分を埋める為に
今後も調べたり確認するつもりです。

10月以降、理事会後の会において、
噛み砕いて説明をし、繰り返し伝える
しかない。
よい勉強をさせていただいたと思って
います。

まるおさん、本当にありがとうござい
ます。
たくさんのパワーをいただきました。

まだ考え中のボランティアの続きは
じっくり考えます。結論は何となく
出ているのですが過程が不十分です。


さて、私の学生時代のボランティア
体験をもう少し続けます。

私が所属していたボランティアの会の
ディレクターからいろんな話を聞いた。

ボランティアにおいて役割分担が
明確になればなるほどギスギス
した関係(の団体)になる。

効率で物事を見ればその人の心の
動きを踏みにじんでいる。
効率は人の心の渇きにつながる、
と言われた。

ボランティアというのは自分の意思の
上で行う活動。
自分の意思に関わらず、あらかじめ
決められた内容をただ消化するだけ
であれば得る事はなくただ活動を
しただけになる。

支援をして欲しい人がいて、支援
したい人がいる。
支援を必要とする人に合わせた活動が
求められている。

求める物は一人一人異なっている
かもしれない。
またある一定の年齢などで共通の物が
求められているかもしれない。
何らかのニーズがあり叶えたいと思う
人がいる。
それを支援して欲しい人自身で
叶えられるように下から支えるのが
ボランティアだと思う。

活動はニーズを叶える為の手段で
あって目的ではない。
手段が目的にすり替えられる事により
そもそもの目的が見えなくなってしまう。

ただ機械的に何かの行事をこなすだけで
その目的や趣旨が活動をする人に見え
なくなったり伝わらなくなる。
すると元々の目的からズレたり
おかしな話に変わっていくのではないか。

役割が決められる事により自分に割り
振られた内容しか興味を持たず考えない
ようになる。
効率を優先させたり重視すると
そもそもの目的がかき消されてしまう。

何かイレギュラーな事が起きたら
柔軟に対処せず前例がないので、とか、
慣例では、というような
常套句の台詞が出て来る。
問題を深く考えようとしないのでは
ないか?

誰の為の活動なのか、自分に何が出来る
のか、どう関係出来るか、
という問いかけがボランティアには
常に必要ではないのかと思います。

又評価はボランティアをする人では
なく、ボランティアを受けた人が
する事だ。
独りよがりなボランティアは迷惑な
だけだ。
その理解がないと、せっかくして
あげたのに、とか、してやった、
などのとんでもない言葉になる。

ボランティア2で触れた、
ボランティアをした人が得たものを
紹介したブログがあります。


私が散々こだわってきた夏休みプール
問題の対応を振り返ってみます。

プール問題で考えると、
すべての児童の為の夏休みのプール。
子ども会会員やPTA会員として
子どもが楽しく安全にプールを使用
するには何が必要かと考える。

会員によるボランティア制の
監視当番が出てくるかもしれない。
仕事や家庭の事情もありどこまで
関われるか。
協力出来る保護者が少なければ
PTA活動でなくなるかもしれない。

学校によっては夏休みのプールは
学校行事で先生が監視をしている
例もある。

また夏休みはプールを解放していない
小学校もあると友人から聞いた事がある。
息子の小学校から比較的近くだった。

どれがよいのか決めかねるが、
前例にとらわれず柔軟に考えてみるのが
よいと思う。

難しく考えなくても答えは案外簡単な
事でありシンプルな気がします。
しかしそこがどうも伝わりません。

今回はここまで。

ボランティア2

2015-08-22 10:24:05 | ボランティア
KKです。
前回はボランティアの基本的な考えを
書きました。
今回は私とボランティアの関わりに
ついてです。

私は高校生の時に今住んでいる県にある
日本赤十字社の献血ルームで
ボランティアを週1回していた。
高校には確かクラブがあったがそこに
属さず、個人的に半年位お世話に
なった。

進学をする際ボランティア活動を
しておいた方がよいのではないか
と思った。
福祉系の学校を進路にしていた
からだ。

高校生だった私に出来た事は
少なかった。
献血をする人に用紙を配ったり、
献血を終えた人に希望する飲み物を
聞き、運んだり、おかしの補充をした。

献血のお願いのプラカードを持ち、
呼びかけながら商店街を歩いたり
などもした。

一応自分の意思で始めた事だから
ボランティアではあったと思う。
だがあまりお役に立てなかったと
感じる。

次に進学した学校にあったボランティア
サークルに所属した。
そこは学校にある正式なサークルでは
なかった。

ある宗教系の団体が母体のNGOで
(学生)ボランティアとスタッフの
協働により運営をする所だ。
そこが学生ボランティアを募っていた。

私は県外に進学した為寮生活だった。
寮の先輩が所属しており、子どもと
一緒に夏はキャンプ、冬はスキーに
行けると勧誘され楽しそうだと思い
入会した。

その当時住んでいたのが県庁所在地の
市から電車で1時間位離れた市だった。
1時間かけて県庁所在地にある
その会の事務所に行き説明を受けた。

そこには専従のスタッフが3人いた。
主に活動を管理している
ディレクターは1人。
他の2人は事務担当であり活動自体は
あまり一緒にしなかった。

そのディレクターからまず初めに
ボランティアとは何か?を問われた。
本来の意味は当然知らなかったので
教えられた。

ボランティア1にある志願兵が語源で
あり、自発的に積極的に参加する事で
ある。
自分が所属している会を最後まで
支える事だ。
リーダーシップを取る人について
行く事ではないと聞かされた。

毎月会員の子どもたちで希望する子を
野外活動に連れて行った。
また2泊3日や3泊4日で夏は
キャンプ、冬は4泊5日位でスキーに
行ったり日帰りでスケートもした。

学生ボランティアは交通費を支給
されるのみ。
キャンプ等で発生する私たちの
費用は会が負担した。

自然を舞台に遊びを通し子どもたちの
集団における学びのキャンプだった。
学生ボランティアとスタッフは
子どもたちがいろんな体験をしたり
人間関係を作る事により、
軋轢や醍醐味を体験し気づきを助ける
のが役割だ。

キャンプは疑似(社会)体験だ。
帰宅し親に話したり自分がキャンプの
様子を振り返る。人間関係を考える事で
成長する。


上から子どもを引き上げるのではなく、
下から子どもを支えるのが役割だった。

子どもの良い所を探し、たくさん褒める
ように言われていた。

下は年長から高校生までがキャンプの
対象だ。
小さな子どもでは生活のサポートが
特に大事だ。
夜になると親を思い出す子もいた。

子どもたちは親元を離れ6~7人位の
年の近い子どもとかつての私のような
若い学生のボランティアと寝食を共にする。

夏はテントをグループ毎に張って過ごす。
スキーキャンプは旅館にグループ毎に
宿泊した。親離れの一歩だ。

夜子どもが寝た後、記録の整理が
あり大変だった。
記録を書く事で子どもにどう関わった
のかが分かる。
記録を書けないのは子どもを見ていない
からだ。
手がかからず自分が声かけをしていない
のかも知れない。
自分の抜けている点を認識する為でもある。

キャンプの終わりには、キャンプ修了証
を子どもたち一人一人に渡す。
その修了証を書く時にその記録が
役立つのだ。

修了証を渡す時は寂しさも感じた。
ずっと何日も過ごした子どもたちとの別れだ。
次のキャンプで会える子どももいるし、
会えない子どももいる。

楽しく過ごせなかったり二度と行きたく
ないと思った子どももいたかもしれない。
それでも何か心に残って大きくなって
思い出してくれるといいな、
という気持ちは今でもあります。


なかなか奥が深くきちんと出来ていたの
か自信がない。
子どもが唯一頼れる存在が学生の
ボランティアだ。
話を聞くのが大事だ。

危ない事をする時は全力で注意し阻止する。
分からない事は教えるがそれ以外は
基本見守る。
見守ると言うのが実は一番難しい。

子育てをする時もそうだが、
つい手や口を出し子どもの自主性を
奪う事をやりがちである。


年に何回か研修があった。
キャンプをする上で必要になる
野外で遊ぶ為の知識や技術を
実際に体験し勉強をした。

カヌーやアーチェリーや
スキーなど初体験もあった。
カレーや飯盒炊飯をする際の
火を起こす方法や救急法も
あった。
子どもの命を預かっている
以上必要な事はしっかり
研修を受けた。

キャンプ前には危険予測やミーティ
ングを持ち入念に準備をした。

初めて行く場所の場合は下見も行った。
目印になる場所や時間を記録し、
子どもから後どれ位で目的地に着くのか
や次のトイレ休憩までどれ位かかるなど
聞かれた際は答えられるようにする為だ。
子どもが感じる不安を取り除いたり
信頼関係を築く事は大事だ。

ただ当日思いがけないトラブルや
アクシデントは当然ある。
そのダメージをいかに最小限にするかが
大事だ。

いつも予見を言われていた。

⒈ベスト ⒉中間 ⒊最悪

3パターンの予見だ。
最悪の状況を考え備えていればそれが
無用でも文句は言われない。
1つでもトラブルの可能性が
あるなら準備する考えだ。

晴れでも雨支度。夏でも冬支度と
よく言われた。
山を登る人の基本らしい。

今でもその習慣が抜けず、私は人より
荷物が多いとよく言われる。
身についているのか。
いや染みついているのだ。

事故が起きた場合の自分の動揺を抑える
方法、パニックコントロールも
教えられた。
不測の事態も考え準備をした上で
楽しむ。これが難しかった。


幸い預かった子どもがケガをするような
事はなく活動を終えた。

しかしいろんな失敗もあった。
今振り返っても未熟だった。
最初のキャンプでは私自身も18才の
子どもだった。

でもキャンプに来ている子どもから
すると学校の先生ではない、少し年の
離れたお兄さんやお姉さんだった
と思う。
頼りない存在だったと思うが
それでも子どもと一緒に
過ごすのは楽しかった。

海水浴や白玉団子を作ったり虫取りや
魚釣りをした。
魚釣りのえさはゴカイだ。

18才までゴカイなど触った事はなく
最初は衝撃的だった。
ニョロニョロする海辺にいる水生動物だ。

しかし訓練し場数を踏めば、ゴカイを
素手で触り、針に刺す事も難なく
出来るようになった。
ワイルドになったはずだ。

夜はキャンプファイアーをし歌ったり
ゲームをした。
子どもと一緒に泣いたり笑ったりと
いろんなことがあった。

キャンプを終えた後の子どもの成長を
感じる親御さんが多かったように感じた。
キャンプに行く度に私も少しずつ
成長させて貰ったと今でも感じる。

もう二度と会う事がない、かつての
子ども達や親御さんには感謝の気持ちで
いっぱいだ。
当時の事は今でも忘れてはいない。
大事な思い出として心に焼きついている。

ボランティアは人に施すのが目的ではない。
ボランティアをした人もいろんなものを
貰っているのだ。

もし自分がボランティアをして何も得る
ものがないのなら、ボランティアを
していなかったのではないかと私は思う。

ある程度予想しているものもあれば
思いがけず得るものもある。
その時に一緒にいた人、場所、状況など
条件によりきっと変わる。

同じ場所で同じキャンプをしても
その時々により参加する子ども、
学生ボランティア、スタッフの顔ぶれが
違う。
キャンプに行く度に毎回違うものを
得ていた。
これは絶対自信を持って断言出来る事だ。

私は18才の頃からボランティアを
知っていたし実際に体験している。

そんな私からするとPTAが
ボランティアとは到底思えないのだ。

私の意思は何も聞かれていない。
自発的に参加してもいない。
自分の考えは反映されていない。

そもそも自分の意思で入会などしていない。
こんなおかしな事はないだろうと
今でも思っている。

今回はここまで。
まだまだボランティアについて
考えます。



ボランティア1

2015-08-21 11:24:44 | ボランティア
KKです。
話し合いは長かったですね。
何とか前回で終了して一安心です。

さて、今回はボランティア
について考えます。

PTAは学校とは別組織。
任意のボンティア団体と
言われています。

ボンティアの意味を
こ存じでしょうか?

以前ブログのコメントに
ボランティアについて
ご意見がありました。

そこに私の意見を書きましたが
もう少し詳しく考えてみようと
思います。


ボランティアはウィキペディア
より以下の通りです。

志願兵であり(反語がdraft―徴集兵)、
歴史的には騎士団や十字軍などの
宗教的意味を持つ団体にまで遡る
ことができる。
十字軍の際には「神の意思
(voluntas)に従うひと」を意味した。


ボランティアの特徴、
ボランティア活動の原則として
挙げられる要素は一般的に、
自発性、無償性、
利他性、先駆性の4つである。
1980年代以降、無償性の原則に
関して「無償」の範囲をより
柔軟に考えることによって
実費の弁済や一定の
謝礼を受ける「有償」ボランティアが
出現し、受け入れられてきているのが
現状である。


日本におけるボランティアの概況、
日本独自の意味合いとして、
動員・勧誘・強制を受けての活動への
参加は本人の純粋な自由意志に
基づかないのでボランティアとは
言えないが、日本では奉仕活動の
同義語として、事実上無償労働に
強制的に参加させる、
参加するのが当然という意味で
ボランティアという語が曲解され
用いる場合もある。


~以上 略~

志願兵というのがミソです。
自分の意思で言い出さないと
志願兵にはならないと思います。

日本では無償(無料)奉仕の意味で
理解している方の方が多いかも
しれません。

自分の意思や自由な意志があって、
無償で奉仕するならよいのですが
自分の意思がなく無償奉仕する、
無償奉仕を他人から強制される
のならボランティアではないと
私は考えます。

ボランティアは無償だけでなく
有償の物もあります。
有償であっても目的はお金ではなく
自分が持っている能力を役立てたいと
思いボランティアもする方もいます。

青年海外協力隊や
シニア海外ボランティア(JICA)や
国境なき医師団などが有名ですね。

それ以外でも宗教法人が母体で作られた
NGOやNPOもたくさんあります。
調べるといろんな有償ボランティア
団体があります。

JICAボランティアの
ホームページには、
JICAのボランティアとは?
と下記のようにあります。

JICAボランティア事業は、
日本政府の ODA(政府開発援助)の
一環として、独立行政法人国際協力機構
が実施する事業です。

開発途上国または日系人社会から
の要請に基づき、それ見合った技術・
知識・経験を持ち、
「現地の人々のために活かしたい」と
望む方を募集し、選考、訓練を経て
派遣します。

現地の人々と共に生活し、働き、
彼らと同じ言葉で話し、相互理解を
図りながら、彼らの自助努力を
促進するように活動することを
特色とした草の根レベルの
ボランティアです。



有償であろうと無償であろうと
一番大事な点は
ボランティアをする人が
自分の意思で自発的に
する事です。


またボランティアを必要とする
(支援される)人の
希望に沿った形でその人自身が
問題を克服出来るように
問題の整理や方法論を
教えたり一緒に考える事。
最後は支援される人自身が
自分で決定し行動する。

まだ他にもボランティアが
出来る事があると思います。
決して自分の考えを押し付ける事
ではないのだと思います。

主体や主役は支援される人自身。
ボランティアをする人は
あくまでも後方支援になると思います。
裏から支えて表に出ないのが理想
ではないかと私は思っています。

任意加入によらない、半ば強制加入の
PTAでの活動は、本来のボランティア
とは程遠いと感じます。

もう少しボランティアについて
考えます。
今回はここまで。続きは次回。