奥羽越列藩同盟軍の敗色が濃くなった、慶応四年八月十九日(西暦1868年10月4日)夜十二時、榎本武揚率いる旧幕府艦隊が品川を離れました。
艦隊の進行と天気の状況を体験者の回顧録より追いかけてみますと、
19日
陰霧濛々と篭り、咫尺を弁じ難し【蝦夷之夢】【品川沖】
20日
十時過ぎ、霧初めて晴れ、、海面一碧天際とともに窮る無し【蝦夷之夢】【伊豆大島辺】
天陰風穏【北洲新話】
21日
狂風強く、衆鑑尽く離散す【北洲新話】
風四方に回り大涛崩れ、夜に入り颶風ますます荒れて、諸鑑木の葉のごとく四方に離散す【蝦夷之夢】
朝浦賀を出て太平洋に乗出したる頃は、天晴風静かなりし、、日の暮るる頃漸く上総の沖に至れり、此夜予は八時より十二時迄の当番にて甲板上に在り、宵より風漸く激しく波高くなり、十二時明番にて船倉に入り釣床に一睡し、一、二時頃目醒めたるに船の動揺究めて大なる故、甲板へ上り見るに、大風雨にて激浪甲板を越し、船の傾く毎の最下の帆桁は海中に没入するかと見ゆ。雨を冒し綱具につかまりて暫時見てある中、船の帆檣の上部は前檣より後檣に至り三本共一時に折れ飛び、三ケ保丸を引きたる大綱直径五六寸なるが、二本共に切れて、三ケ保丸は看る看る遠ざかれり、、測量によれば暴風に遇うたる処は銚子沖八十里許の処なりと云う【後は昔の記】
太平洋ニ出テ各船夫舳艫相啣テ進行ス、午後二時東北ノ風起り、夜ニ入り逆浪ヲ加へ船動揺シテ進マス【戊辰国難記】
22日
下総の銚子沖に至る頃、北風吹起り雨を帯たり、次第に風雨烈く、船の進行漸遅々たり、且つ各鑑の曳綱も切れて分離せり【説夢録】
激雨烈風乾坤を崩すが如く、鮫龍出没し、帆裂け、檣折れ舵挫く、、諸鑑只風水に任せ東南に漂流することおよそ二百里なり【蝦夷之夢】
夕、上総洋跳子近に至りしに、東北の暴風大に起るに会日船進むことを得ず。【麦叢録】
午前四時引綱ヲ断チ回天丸ヲ離レ風涛に任ス、平明乾風、暴怒逆浪天ニ沖シ各船皆危険、時ニ巨涛湧起甲板ヲ洗ヒ檣桁ヲ撲チ海面ハ候変シテ山トナリ、又谷トナル、、午時二時雨止ミ少シク日影ヲ顕ハス【戊辰国難記】
23日
常陸の鹿島灘に至る頃、近年未曾有の颶となり激浪起ち騰って船の動揺殆んど起居に不堪、、風浪に任す【説夢録】
鹿島灘に至る頃バルメートル29度50分颶風大に起こる【北洲新話】
廿三日に至り風浪倍盛に怒涛天を衝き、風雨晦冥にして船覆没んとする数度【麦叢録】
破帆ヲ前檣纏ヒ只見浪ニ任セ洋中ニ漂流ス、正午始メテ緯度ヲ測量ス、常陸国犬吠岬二度強ノ海なり【戊辰国難記】
24日
暁に至って少しく風の撓むを見、、午後三字松島の港に入【説夢録】【松島】
暁来風少しく撓む【北洲新話】【松島】
浪少シク収静、人稍精神ヲ覆ス【戊辰国難記】
( 【戊辰国難記】【麦叢録】【後は昔の記】は山形紘著「幕末の大風」より引用 )
とあります。回顧談ですので、史料としてはやや弱いですが、要約しますと、
慶応四年八月十九日(西暦1867年10月4日)夜霧の品川を発進した幕府艦隊は、銚子沖で二十一日の午後から二十二日の午後二時頃まで、暴風雨に遇い甚大な被害を受け離散しました。二十三日も「うねり」と吹き返しが強く難儀しました。二十四日になりますと風浪がおさまり、破損した開陽丸、回天丸など艦隊主力は仙台藩寒風沢に入港しました。
となります。
次に、この期間の陸上での大雨や強風の記事を抜き出してみますと。
21日
風起る、北風冷にして颯々【江戸】
曇、、夜大風雨【福島県母成峠】
夜風雨烈シク大ニ寒気ヲ覚ユル事筆紙ニ尽セズ【母成峠】
大雨【宮城県新地町】
22日
風雨、、雨将晴、日少朗なり、、空曇る【江戸】
風雨烈敷【宮城県柳津村】
とありますように、陸地では被害が出るほどの風雨ではなかったようです。
この暴風雨は台風であると考えられます、台風は中心に近いほど、雨や風は強くなっていますので、台風の進路は関東東部や東北の太平洋側に影響を与えながら太平洋上を北上したのではないかと思われます。
風の向きを調べますと、
21日
午後二時北東の風
北風冷にして颯々【江戸】
22日
雨天北風四つ時頃より時化に成八つ時凪る【玄蕃日記】【銚子】
北風【銚子沖】
南東ニ漂流(北西風)
とあり風向は概ね、北東風-北風―北西風と反時計回りに廻っています。
したがって、台風の中心は幕府艦隊より東側にあり、艦隊は台風の可航半円を移動していて、北風の時に艦隊に最も接近したと思いますので、北風で銚子が時化になった八月二十二日の午前十時ころから午後二時にかけて銚子沖を通過したのではないかと考えられます。
ただ、陸地での観測と違い、艦隊が台風進行方向に移動していること、台風通過後も海上はうねりや波浪が続くこと、観測史料が陸地と比較して少ないことで台風の実像を把握するのは困難でした。
慶応四年は多雨で、寒冷な年だったと言われています。
台風は、太平洋高気圧のへり(500ヘクトパスカル天気図で高度5880mの等高線)に沿って進むという経験則があります。太平洋高気圧の張り出しが弱かったため、幕府艦隊は台風と遭遇したのかも知れません。
慶応四年の太平洋高気圧が強ければ、戊辰戦争はまた違った展開を見せていたことでしょう。
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艦隊の進行と天気の状況を体験者の回顧録より追いかけてみますと、
19日
陰霧濛々と篭り、咫尺を弁じ難し【蝦夷之夢】【品川沖】
20日
十時過ぎ、霧初めて晴れ、、海面一碧天際とともに窮る無し【蝦夷之夢】【伊豆大島辺】
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天陰風穏【北洲新話】
21日
狂風強く、衆鑑尽く離散す【北洲新話】
風四方に回り大涛崩れ、夜に入り颶風ますます荒れて、諸鑑木の葉のごとく四方に離散す【蝦夷之夢】
朝浦賀を出て太平洋に乗出したる頃は、天晴風静かなりし、、日の暮るる頃漸く上総の沖に至れり、此夜予は八時より十二時迄の当番にて甲板上に在り、宵より風漸く激しく波高くなり、十二時明番にて船倉に入り釣床に一睡し、一、二時頃目醒めたるに船の動揺究めて大なる故、甲板へ上り見るに、大風雨にて激浪甲板を越し、船の傾く毎の最下の帆桁は海中に没入するかと見ゆ。雨を冒し綱具につかまりて暫時見てある中、船の帆檣の上部は前檣より後檣に至り三本共一時に折れ飛び、三ケ保丸を引きたる大綱直径五六寸なるが、二本共に切れて、三ケ保丸は看る看る遠ざかれり、、測量によれば暴風に遇うたる処は銚子沖八十里許の処なりと云う【後は昔の記】
太平洋ニ出テ各船夫舳艫相啣テ進行ス、午後二時東北ノ風起り、夜ニ入り逆浪ヲ加へ船動揺シテ進マス【戊辰国難記】
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22日
下総の銚子沖に至る頃、北風吹起り雨を帯たり、次第に風雨烈く、船の進行漸遅々たり、且つ各鑑の曳綱も切れて分離せり【説夢録】
激雨烈風乾坤を崩すが如く、鮫龍出没し、帆裂け、檣折れ舵挫く、、諸鑑只風水に任せ東南に漂流することおよそ二百里なり【蝦夷之夢】
夕、上総洋跳子近に至りしに、東北の暴風大に起るに会日船進むことを得ず。【麦叢録】
午前四時引綱ヲ断チ回天丸ヲ離レ風涛に任ス、平明乾風、暴怒逆浪天ニ沖シ各船皆危険、時ニ巨涛湧起甲板ヲ洗ヒ檣桁ヲ撲チ海面ハ候変シテ山トナリ、又谷トナル、、午時二時雨止ミ少シク日影ヲ顕ハス【戊辰国難記】
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23日
常陸の鹿島灘に至る頃、近年未曾有の颶となり激浪起ち騰って船の動揺殆んど起居に不堪、、風浪に任す【説夢録】
鹿島灘に至る頃バルメートル29度50分颶風大に起こる【北洲新話】
廿三日に至り風浪倍盛に怒涛天を衝き、風雨晦冥にして船覆没んとする数度【麦叢録】
破帆ヲ前檣纏ヒ只見浪ニ任セ洋中ニ漂流ス、正午始メテ緯度ヲ測量ス、常陸国犬吠岬二度強ノ海なり【戊辰国難記】
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24日
暁に至って少しく風の撓むを見、、午後三字松島の港に入【説夢録】【松島】
暁来風少しく撓む【北洲新話】【松島】
浪少シク収静、人稍精神ヲ覆ス【戊辰国難記】
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( 【戊辰国難記】【麦叢録】【後は昔の記】は山形紘著「幕末の大風」より引用 )
とあります。回顧談ですので、史料としてはやや弱いですが、要約しますと、
慶応四年八月十九日(西暦1867年10月4日)夜霧の品川を発進した幕府艦隊は、銚子沖で二十一日の午後から二十二日の午後二時頃まで、暴風雨に遇い甚大な被害を受け離散しました。二十三日も「うねり」と吹き返しが強く難儀しました。二十四日になりますと風浪がおさまり、破損した開陽丸、回天丸など艦隊主力は仙台藩寒風沢に入港しました。
となります。
次に、この期間の陸上での大雨や強風の記事を抜き出してみますと。
21日
風起る、北風冷にして颯々【江戸】
曇、、夜大風雨【福島県母成峠】
夜風雨烈シク大ニ寒気ヲ覚ユル事筆紙ニ尽セズ【母成峠】
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大雨【宮城県新地町】
22日
風雨、、雨将晴、日少朗なり、、空曇る【江戸】
風雨烈敷【宮城県柳津村】
とありますように、陸地では被害が出るほどの風雨ではなかったようです。
この暴風雨は台風であると考えられます、台風は中心に近いほど、雨や風は強くなっていますので、台風の進路は関東東部や東北の太平洋側に影響を与えながら太平洋上を北上したのではないかと思われます。
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風の向きを調べますと、
21日
午後二時北東の風
北風冷にして颯々【江戸】
22日
雨天北風四つ時頃より時化に成八つ時凪る【玄蕃日記】【銚子】
北風【銚子沖】
南東ニ漂流(北西風)
とあり風向は概ね、北東風-北風―北西風と反時計回りに廻っています。
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したがって、台風の中心は幕府艦隊より東側にあり、艦隊は台風の可航半円を移動していて、北風の時に艦隊に最も接近したと思いますので、北風で銚子が時化になった八月二十二日の午前十時ころから午後二時にかけて銚子沖を通過したのではないかと考えられます。
ただ、陸地での観測と違い、艦隊が台風進行方向に移動していること、台風通過後も海上はうねりや波浪が続くこと、観測史料が陸地と比較して少ないことで台風の実像を把握するのは困難でした。
慶応四年は多雨で、寒冷な年だったと言われています。
台風は、太平洋高気圧のへり(500ヘクトパスカル天気図で高度5880mの等高線)に沿って進むという経験則があります。太平洋高気圧の張り出しが弱かったため、幕府艦隊は台風と遭遇したのかも知れません。
慶応四年の太平洋高気圧が強ければ、戊辰戦争はまた違った展開を見せていたことでしょう。
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