幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

大相撲 若柳巡業 は~どすこいどすこい

2025-02-09 12:19:29 | Weblog


は~
当地興行も 本日限り  観進元や 世話人衆
お集まりなる 皆様よいろいろお世話に なりました
お名残惜しゅうは 候(そうら)えど
今日はお別れ せにゃならぬ我々発ったる その後も
お家繁盛 町繁盛悪い病(やまい)の 流行らぬよう
陰からお祈り いたします

御存じ相撲甚句の御当地興行でございます。

御かたずけしておりましたら、お宝が出て参りました。



先ずは、東の横綱大関 羽黒山でございます。



続きましては、西の横綱大関 照国でございます。



勧進元は、町内の魚屋、稲辺東平さんです。

巡業は戦後間もない昭和21年で、写真から見ますと初夏でもありましょうか。

大相撲 若柳巡業はその後も2回行われたようです。



大入り叶う です。

お家繁盛 町繁盛悪いやまいの 流行らぬよう陰からお祈り いたします

は~どすこいどすこい  と 


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昭和天皇 栗原市若柳新山公園

2025-02-05 19:24:47 | Weblog
気象デ-タも大分たまりましたが、本や古文書も沢山になりましたので、
日記史料館を作りたいと思い、掃除をはじめましたら、
 昭和天皇の写真が出て参りました。


私どもの田舎は、人口が減り、若者が減り、店も段々無くなってきました。
そのうち、荒れ野原になってしまうことでしょう。
何もなくなる前に昔の良かったころの面影を残しておきたいと思う此の頃です。
ブログで残せば、消えないということを聞いたことがあります。
ほんとかどうかわかりませんが、せめて電脳に書き込んでみます。

しかし、大した人数ですね。

時に 昭和22年8月(おそらく7日)の事でありました。・
ああ昭和、活気がありました。
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出ました、人気のオオサンショウウオ

2025-02-01 12:33:04 | Weblog
慶応二年八月七月十八日の西本願寺寺侍の記録に、大阪城御堀のオオサンショウウオがでてまいりました。
京、大坂の日記にはよく出てくる、怪獣ぽいオオサンショウウオです。
瓦版などと、記述に違いがありますので紹介いたします。



一、大坂御堀ニ往古より住居候、山椒魚、十五日夜よりシキリニ堀底ニて
  ウメキ候声イヤラしく、然ニ水上ウキ出候処、死骸引上候えバ顔ハ
  ヒヒの如くカラダハサメ、丈ハ一間余有之候事

とあります。

怪獣か大山椒魚か良くわかりませんが、実物を見た人の記録は、まだ読んだことがありません。
浮説かもしれませんね~ 
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一橋慶喜公、あだ名は飛脚

2025-01-25 11:10:16 | Weblog
十五代将軍 一橋慶喜公は何かとやり玉に挙げられます。
その分、あたりへの影響力は大きかったのだと思います。
 「豚が好きな一橋」であだ名は「豚一」などは有名です。
只今、西本願寺の寺侍が残した記録を読んでい居りますが、
あだ名が出て参りました。
慶応三年三月の記録です。

曰く「昨年 家茂将軍葬去後、一橋月之うちニ両三度ツツ、
   大坂往還致候ニ付 飛脚、飛脚ト浮説候事」
また、慶応三年九月の記事に、こうもあります。

曰く「大坂御城へ異国人入城申付、日々之饗応有之、
   慶喜将軍異人姿ニ相成 、二条御城より六日、
   月毎ニ一騎掛ケ往還被致候ニ付、飛脚将軍ト
   称し、殊之外評判悪く相成候事}
とあります。

月に二三度が六日毎と大坂への往復が多くなっています。
異国人姿とは背広姿と思われますが、将軍が一騎掛けなど
するものでしょうか。

ともあれ、筆者は西本願寺の寺侍なので、長州びいきです。

当世のあだ名「増税メガネ」よりは、害のない分「飛脚」の方が
まだ良いような気もします。
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バカ殿

2024-12-03 22:48:28 | Weblog
ドリフタ-ズにバカ殿シリ-ズがありましたが、本物の馬鹿殿の記録は少ないようです。

先ず、馬鹿では殿様に成りにくいでしょうし、殿様が馬鹿をしたとしても記録には残さないでしょう。

【萬日記抄】【三戸】に珍しい、馬鹿殿の記録がありましたので、紹介いたします。記事の日にちは遠慮します。

曰く

松前志摩守殿乱心の儀にも可有之哉、御本陣へ御着と直に刀を抜、雨たれを切候所障子を切さき、屏風ふすまも切さき、しんどう致候処、、駕籠へ太鼓入歌ナド歌ひ太鼓打、馬鹿殿也と皆々指ささぬ者なかりけり【萬日記抄】【三戸】

訳すれば、こうも成りましょうか。

松前志摩守様御乱心でもなさったのでしょうか。御本陣に着くとすぐに刀を抜き雨だれを切っていたが、障子を切り、屏風や襖を切り裂き困ってしまった、、駕籠には太鼓を持込み、太鼓を打ち歌を歌っている、皆々馬鹿

殿だと指ささない者

はいなかった。

さて、この史料の信憑性はありそうですが、松前志摩守殿御乱心でしょうか、はたまたそのような御人柄なのでしょうか。

殿様もいろいろですね~。

        「これ、三太夫はおらぬか」
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百万石 殿様も楽ではない

2024-11-29 18:29:58 | Weblog

今は、加賀百万石の藩主 温敬公の日記を読んでおります。
百万石の太守ともなれば、安楽に暮らしているように思っていましたが、そうでもないようです。

日記には八朔の登城の様子が書かれています。
登城の、天保四年八月一日はたまたま台風が通過して、江戸は大荒になりました。
曰く

今日登城中より風雨烈敷、退出且西丸登城退出之節大ぬれ、カッパは不用故、一入ヌルル、駕之内雨シブキ込、甚難儀、足袋も駕之内ニてヌグ、帰宅四時半頃也【温敬公日記】【江戸】

とあります。

要約すれば、登城中風雨が烈しく、御城を退出して西の丸に伺候して退出した際に合羽を着ていないので大濡れになってしまった。駕籠の中までしぶきが入り込み、大変難儀で駕篭の中で足袋を脱いだほどだ。といった具合でしょうか。

台風の為とは言いながら殿様大難儀、殿さまも楽ではないようです。
それでも、駕籠に付き従う家来よりはましかも知れませんね~。

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気象デ-タ 100万件

2024-10-28 18:44:53 | Weblog
私、各地の日記から、天保元年から明治五年までの気象デ-タを集めております。

微雨【上田久兵衛日記】【大坂】とこんな感じです。

半年ほど前にデータの数を調べて見ましたら 98万件ほどでした。

もう少しで100万件と思い、ブログの書き込みもせず、せっせと

デ-タ収集をしておりましたが、2万件の壁は厚く

ようやく99万6千件になりました。

屁の河童と思い取り組みましたが、なかなか思うようには

ならないものです。

今夜もデ-タを入力しますが、晩酌が先かデ-タ入力が先か。

迷っています。
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戊辰戦争の難民

2024-03-31 19:00:54 | Weblog
戦争は常に弱い人々にとって酷い事ばかりです。
戊辰戦争でも、やはり、巻き添えになり難民化した村上藩の婦女子がおりました。
山形境から会津に転戦したしました官軍側の日記「軍事日記」に、このような記事がありました。
曰く

 解読しますと、以下のようでしょうか。

一、昼少前方、村上之婦女子老若三四拾人つれニ而、山野ニ打伏、昨十五日夜取〆所え
  来リ、夕飯をもらひ度段頼入、右ニ付無拠一宿を施、夕朝飯振舞、朝出立ニ而舟渡駅
  え来りつるか、雨ニ濡みの笠もなく俵のはしはぢをもちひ頭にかむり物、あわれなる有様也、
  右之躰を見て舟渡屋久右衛門、女子共ニ笠三拾かい餘施し、其外銘々ニ栗ゆて汁迄遣候。
  誠ニ稀也もの也。何程火急ニ逃出候也、衣類も差当の侭ニてたくわひも無之様子也.


とあります。
要約しますと、
慶応四年八月十五日の夜、山野に隠れていた村上藩の婦女子老若
34人が官軍の取締所へ夕飯を貰いたいと頼みに来た、仕方がないので一宿させ
夕飯と朝飯を振舞ってやった。
朝出立の時舟渡駅に来たが、雨に濡れ、蓑笠もなく、米俵の端を頭にかぶりあわれな有様でした。
この様子をみて、気の毒に思った、舟渡屋久右衛門が女子供に笠を三十余かい施し、銘々に栗茹で汁まで遣わした。
本当に稀な人物だ。
どんなに急いで逃げ出してきたのだろうか、衣類も其の時ままで、貯えも無い様子だ。

となります。
その時の村上藩は、慶応四年七月十六日に藩主 内藤信民が急死し、藩主不在のまま、藩内は佐幕派と官軍への帰順派
に分かれ争っていたようです。
官軍が村上城に近ずくと、佐幕派は城を捨てて家族とともに羽州境に移動して戦い9月末まで戦闘を続けたとあります。
想像ですが、当然同行した家族の非戦闘員は足手まといとなります
日記は、羽州境から会津か米澤を目指して、舟渡(山形県小国町舟渡)を通過した際の村上藩の婦女子の様子ではなかったのでしょうか。
着の身着のままで、お金も持たずに会津か米澤を目指す様は、生活に苦労をしている百姓とは思えません。

ともあれ、村上の婦女子34人は、敵方の温情と舟渡屋久右衛門の侠気で何とか行先を目指して行ったと思われます。

それにしても、官軍にも度量があり、舟渡屋久右衛門の人徳も大したものです。
子孫でも居て商売をしてれば、何かの時に行ってみようと思い、小国町 船渡屋で検索しましたが、探しかねました。

  顕彰のため 「」と叫びました。

今の世の中、この叫び声よくないでしょうね。


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佐賀藩羽州遠征隊の着帆地点 姉川伊貞陣中日誌

2024-02-18 12:50:42 | Weblog
 佐賀藩士 姉川伊貞の戊辰戦争従軍日記を読んで、こんなものなのでしょうかと思ったことがありましたので、紹介致します。
姉川伊貞と鍋島藩兵は、慶応四年八月十一日、鍋島藩船甲子丸とイギリス船に乗り込み、羽州を目指して久原村から出発しました。
八月二十一日新潟県北部の島に粟島に到着しました。

 着帆ニ而、水少々相談相成候得共、昨今之戦争ニ而其儀難叶

とありまして、粟嶋で水を貰うため交渉したところ、戦争中なので断られたとあります。
また、夕方七時頃、山形県飛島に着船水を貰おうとしたところ、

  紋付之籏差上、大鉋打掛る様子ニ御座候得ハ、早速出帆

紋付之籏を上げ、大砲を打ちかける様子でしたので、すぐさま出帆したとあります。
この後、秋田領分の男鹿嶋に着帆して上陸しますが、

  右トは違、大悦ニ而秋田より役人罷出

とあります、官軍に属する秋田藩の行為としては、当然と思われますが、この後鍋島勢は、秋田に到着後、今泉付近で南部藩との戦争に突入して行きます。

さて、到着する目的の港もなく、姉川伊貞らは水を求めて漂着しています。       こんなものなのでしょうか。

ただ、粟嶋でも飛島でも、交渉相手は百姓だったと思われます。
力ずくでも水は奪えたと思われますが、相手の言い分を通して佐賀兵は立ち去っています。
そう言えば、戊辰戦争で民衆(農兵は別として)が殺戮されたと言う記事は見たことがありません。
ただ、福島県の日記に土佐藩兵が通行した後は犬がいなくなって困ると言う記事がありましたが、、

やはり、江戸時代は兵農が分離された、倫理的な社会であったような気がします。


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岩倉具視の和歌 夏獣

2023-11-19 16:13:24 | Weblog
この頃、日記を書いた人の和歌を楽しんでいます。
和歌にはそれぞれの人柄が出ているような気がします。
先ずは、嵯峨実愛卿の短冊です。

 船中雪 と題しまして
   拂うさえ かえす袂と 見ゆるかな あさ妻ふねの 雪のゆうぐれ


続きまして東久世通禧卿の和歌です。

 
   七種は のこりすくなに なりにけり 心してふけ 野辺の秋風

秋の七草の歌でもございましょうか、二首ともに みやびておりますなあ。


続きまして、岩倉具視卿の和歌ですが



夏獣と題しまして
   てる月に 母きてうとや ひくらむを なおむらあけて 蓑きる子勝

と、社会性の強い根性ものになっております。
母を幕府軍、子を薩長軍、蓑を錦旗と読むのは穿ちすぎでしょうか。
いずれ、前の二卿の和歌とは全く異なっているようです。

ところで、その短冊本物かい?。
と言われますと、そのようなものと思ってお楽しみください。
としか言えないところがまた面白いです。
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