戦争
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は常に弱い人々にとって酷い事ばかりです。
戊辰戦争でも、やはり、巻き添えになり難民化した村上藩の婦女子がおりました。
山形境から会津に転戦したしました官軍側の日記「軍事日記」に、このような記事がありました。
曰く
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解読しますと、以下のようでしょうか。
一、昼少前方、村上之婦女子老若三四拾人つれニ而、山野ニ打伏、昨十五日夜取〆所え
来リ、夕飯をもらひ度段頼入、右ニ付無拠一宿を施、夕朝飯振舞、朝出立ニ而舟渡駅
え来りつるか、雨ニ濡みの笠もなく俵のはしはぢをもちひ頭にかむり物、あわれなる有様也、
右之躰を見て舟渡屋久右衛門、女子共ニ笠三拾かい餘施し、其外銘々ニ栗ゆて汁迄遣候。
誠ニ稀也もの也。何程火急ニ逃出候也、衣類も差当の侭ニてたくわひも無之様子也.
とあります。
要約しますと、
慶応四年八月十五日の夜、山野に隠れていた村上藩の婦女子老若
34人
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が官軍の取締所へ夕飯を貰いたいと頼みに来た、仕方がないので一宿させ
夕飯と朝飯を振舞ってやった。
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朝出立の時舟渡駅に来たが、雨に濡れ、蓑笠もなく、米俵の端を頭にかぶりあわれな有様でした。
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この様子をみて、気の毒に思った、舟渡屋久右衛門
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が女子供に笠を三十余かい施し、銘々に栗茹で汁
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まで遣わした。
本当に稀な人物だ。
どんなに急いで逃げ出してきたのだろうか、衣類も其の時ままで、貯えも無い様子だ。
となります。
その時の村上藩は、慶応四年七月十六日に藩主 内藤信民が急死し
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、藩主不在のまま、藩内は佐幕派と官軍への帰順派
に分かれ争っていたようです。
官軍が村上城に近ずくと、佐幕派は城を捨てて家族とともに羽州境に移動して戦い9月末まで戦闘を続けたとあります。
想像ですが、当然同行した家族の非戦闘員は足手まといとなります
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。
日記は、羽州境から会津か米澤を目指して、舟渡(山形県小国町舟渡)を通過した際の村上藩の婦女子の様子ではなかったのでしょうか。
着の身着のままで、お金も持たずに会津か米澤を目指す様は、生活に苦労をしている百姓とは思えません。
ともあれ、村上の婦女子34人は、敵方の温情と舟渡屋久右衛門の侠気で何とか行先を目指して行ったと思われます。
それにしても、官軍にも度量があり、舟渡屋久右衛門の人徳も大したものです。
子孫でも居て商売をしてれば、何かの時に行ってみようと思い、小国町 船渡屋で検索しましたが、探しかねました。
顕彰のため 「
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男
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」と叫びました。
今の世の中、この叫び声よくないでしょうね。