上写真・山川均・堺利彦・大杉栄
下動画・我が行く道(詞:無名氏 曲:白鳩生)/土取利行(唄・演奏)
堺利彦の出版社<由分社>が明治39年に発行した小冊子「社会主義の詩」に「富の鎖」や「血染めの赤旗」と共に収められた歌
1920年の社会主義運動 (読書メモー「日本労働年鑑」第2集 1921年版大原社研編)
第九編 社会主義運動
日本における社会主義運動は、官憲の非常なる弾圧と圧迫にもかかわらず、ついに昨年1919年あたりから俄然進展し、ついに今年1920年に入って一挙に社会主義同盟結成が実現した。これに対し官憲は相変わらず、絶対的圧迫方針を持っていることは明白であるから今後も多難であろうと考えられる。しかし、明治40年(1907年)の日本社会党結社禁止からすでに14年を経た大正9年(1920年)12月、日本社会主義同盟の新たな成立は、我が国の社会主義運動史上特筆すべき事である。
社会主義運動の今年(1920年)の特徴としては、社会主義者が労働団体とより接近したこと、軍隊内で社会主義思想を宣伝する者らが生まれたことである。文筆と演説による思想の宣伝の従来の方法に対して、相変わらず官憲は猛烈な弾圧・圧迫を加えている。とりわけ演説のごときは、中止に次ぐ中止で解散を命じられた。その結果官憲との乱闘で検束者を出し、収監者を見るという有様であった。また、法廷において、傍若無人に裁判官を侮辱する態度を採る者が出て、それが社会主義者の風習とする傾向に到ったことも今年から始まった。
ロシアの過激派の脅威の手が上海を中心に日本にも及んでいるとの風説がしきりに流され官憲も虎視眈々と弾圧をねらっている。ただその真相は一切明らかでないことを一言付け加えておく。
日本社会主義同盟の誕生
本年1920年8月、山崎今朝治弁護士をはじめ、荒畑勝三(寒村)、赤松克磨、加藤勘十、麻生久、岩佐作太郎、大杉栄、堺利彦、和田厳、山川均、加藤一夫、布留川桂、橋浦時雄、服部濱次、京谷周一、近藤憲二、水沼辰夫、前川二亭、延島英一、大庭柯公、小川未明、岡千代彦、島中雄三、高島素之、高津正道、田村太秀、植田好太郎、渡邊満三、吉田只二、吉川守邦の諸氏が発起人となって呼びかけられた。各社会主義者を始めとし、友愛会、信友会、正進会、交通労働組合、日本時計工組合、鉱夫総同盟、労働運動同盟など労働運動団体と知識人、新人会、建設者同盟、暁民会等各方面の人々を網羅していた。全国からの加盟申し込み者は10月までに約1千名に達した。
12月9日、翌日10日の創立大会の準備会であったが、官憲は10日の創立大会を阻止する姿勢をみせていたため、司会の岩佐作太郎は『今日の会合を持って創立大会に代えます。すべては委員に一任を』と緊急提案をした。臨場の警官はこの不意打ちに狼狽し『弁士中止』と叫んだが時にはすでに会衆の大拍手と大歓声がわき起こっていた。『同盟万歳!』が繰り返しとどろき革命歌が高唱される。検束者3名。かくして日本社会主義同盟は創立された。この日、大杉栄宅には50余名が集っていたが、神奈川県警は大杉宅を包囲し中止解散命令を出した。そのため一同は鎌倉八幡宮に集まり、列を作り示威行動を行いつつ再び大杉宅に集合したため、官憲は一同全員を鎌倉署に同行すると一同は署内で革命歌を高唱するなど警官と衝突したため4名が検束され残りはようやく夜9時に釈放された。
10日午後1時より神田青年会館での社会主義同盟大会挙行に、定刻には300余名が詰めかけたが、この時すでに警官隊500名が同会館を取り巻いた。午後2時には4名が検束された。午後3時右翼団体が「国賊社会主義者を殺せ」とこん棒を持ち押しかけてきた。会衆は殺到し青年会館の中は立錐の余地がないほどであった。検束者は瞬く間に40名を数えた。警察は「中止と解散」を命じた。大杉栄など検束者は74名に達し警視庁に送られ13名が建造物破壊剤で起訴された。翌年5月28日、政府は日本社会主義同盟の結社を禁止してきた。
軍隊内の社会主義者
陸軍歩兵第52連隊付松下芳男中尉は、幼年学校出身であるが大杉栄、堺利彦と交流がある社会主義者である。彼は軍から戒告を受けたが、あくまで非妥協的態度を変えないため8月停職を命じられた。
また、第三師団歩兵上等兵冨田錦蔵上等兵は社会主義思想を持ち、軍隊の規律を破壊せんと企て発覚し、9月越後高田監獄に収監された。
12月13日、内地の各軍隊と朝鮮の各部隊と警察署・税務署に「階級打破」を主張する社会主義宣伝の手紙が一斉に送られてきた。名古屋の社会主義者鈴木楯夫ほか4名を逮捕し厳重にとり調べた。
森戸事件の発生(「日本の労働組合100年」大原社研編 旬報社より)
森戸辰男東京帝国大学教授の論文「クロポトキンの社会思想の研究」に、同じ帝国大学の右翼教授上杉慎吉ら「興国同志会」は、森戸教授は無政府主義の宣伝をしていると騒ぎ立て、総長・文部省・検事総長を訪ね、森戸を起訴するよう激しく運動した。この時の検事総長は大逆事件の時の司法処理を担当した平沼騏一郎であった。1月、結局経済学部教授会は、森戸の休職を議決した。文部省は休職処分を出し、閣議は森戸と論文を載せた機関誌編集者大内兵衛東京帝大助教授が「朝憲紊乱罪違反」で起訴され、3月の第一審では「朝憲紊乱罪違反」には当たらないが安寧秩序を乱したとして有罪とされた。しかし、6月の控訴審では「朝憲紊乱罪」に該当するとされた。「不法な手段」での行動がなく、価値判断を示しただけでも「朝憲紊乱」に該当するとしたこの判決は、その後の思想運動弾圧に適用されるようになった。