大阪新聞工組合
京都日出新聞社争議 1922年主要な労働争議⑨ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)
京都日出新聞社争議
京都日出新聞社では経費削減の方針により印刷工の大幅賃下を計画していることが、労働者に知られ、1922年9月以来争議が続いていた。会社は11月に入るや高圧的姿勢を強め、あらかじめスト破り要員として20名ほどの印刷工を大阪方面から雇い入れ、11月21日夕刻、突然30余名の印刷工に対し、「4割減給」(夜勤手当、手当金などの改悪)を発表して労働者に即答を求め、「なお26日午前10時までに出勤しない者は、退職したものと認める」と脅してきた。
印刷工は結束して会社の要求を退け、11月26日から全面ストに突入した。会社はあらかじめ雇い入れていたスト破り労働者を就業させたが、計画通りの能率は上がらず、その日の夕刊は、ようやく夜8時に印刷できる始末であった。
ストライキ争議団は圓山公園の一旗亭に争議団本部を設置し、関西労働同盟会、信友会、正進会の応援を受けて徹底抵抗した。
(スト破り労働者の決起!)
その深夜、スト争議団は工場に闖入(ちんにゅう)し、スト破り労働者を厳しく問い詰めた。翌朝スト破り労働者の一団は、圓山の争議団本部に来て、前非を謝罪し、「今後自分たちは争議団と行動を共にする」と約束した。彼らはそのまま工場に戻り、サボタージュ闘争を始めた。こうして新聞は休刊となった。
12月2日以下の条件で勝利解決をした。
一、日給を月給とあらためる
一、毎月の全支給額の手当の支給
一、夜勤手当の改正
一、スト中の賃金全額支給
一、今後解雇者を出さないこと、もし万一解雇する時は解雇手当を支給すること
賃金減は、会社がねらった当初の「4割減」が、闘いによって「6分」だけで済んだのだ。