前年1921年の大電の大争議と全面勝利の新聞記事
大電争議 1922年主要な争議⑩ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)
会社の大巻き返し大阪電燈株式会社争議
前年1921年の大電の大争議・大ストライキ・大暴動(上の新聞記事)による労働者側の全面勝利に対し、憎さ百倍となった会社は争議解決から一年もしないうちに大巻き返しで電業員組合に総力で襲い掛かってきた。再び組合つぶし攻撃をかけてきたのだ。
1922年3月11日、会社は突然、経費削減の名目のもとに、
一、社内組織の大がかりな変更
一、全社員職工の月給の一割二分の減給
一、社員99名、職工222名の解雇
と発表した。
新たに会社が春日出発電所に備え付けた2萬キロのモーター2台が運転すると多数の職工が不要になるからと伝えられている。しかも、解雇された労働者には、電業員組合長以下同組合幹部全員が入っている。会社の目的が、昨年の大争議での会社側敗北への報復・復讐、電業員組合つぶし攻撃にあることは誰の眼にも明らかであった。
(闘い)
3月13日、電業員組合代表7名が会社河合常務と面会し、「今回の解雇は、組合を破壊し、団結権を蹂躙するものだ。全員の解雇を取り消せ」と抗議・申し入れた。
14日、安治川、春日出発電所、高津、中之島等の変圧所・営業所の労働者は、解雇された同僚に対する「同情ストライキ」やサボタージュ闘争をはじめようとし、また示威行動や演説会で気勢を挙げ世論を喚起させようとした。しかし、昨年5月の争議で、安治川、春日出発電所における組合の勢力はことごとく覆えされ、組合の力はいまだ回復していない。電業員組合の組合員は1200余名を擁するとはいえ、昨年のように送電ストップを実現させた発電所を拠点として会社に迫る力は今はない。その上、官憲強圧は昨年をいちじるしく上回り、形勢は労働者側にすこぶる不利であった。14日、解雇された労働者約200名と組合員約100名は中之島大電本社前に集まり、デモを行い、天王寺の組合本部前広場にて、会社糾弾演説会を開催した。官憲は大がかりな非常召集を行い、労働者に圧力をかけた。この夜、日本労働総同盟関西同盟会の臨時理事会においてこの争議の全面的応援を決議した。
15日夜、中之島営業所労働者約200名が、示威行動を行わんとしたが、川口署は、夜間の示威行動だから禁止すると解散を命じてきた。他の営業所でも同様であった。16日にいたるや官憲の弾圧は一層激しさを加え、市内36ヵ所に数名の制服・私服警官を配置し、外部と組合との接触を断ってきた。また、会社は電業員組合代表団の面会要求に対して、「会社は電業員組合なるものを認めていないので、お目にかかりかねます」と面会すらも拒否してきた。
同夜午後6時、土佐堀青年会館において、西部交通労働組合発会式を兼ねた大電争議会社糾弾演説会を開催した。争議発生から一週間、発電所送電ストップの闘いはできていないが、各営業所はほとんどがサボタージュ闘争の状態であった。ここにおいて、電業員組合の幹部は決然たる態度を示して局面を打開する決意を固めた。この夜ついに全面ストライキの決議がなされた。
18日朝から、各修繕所の内外線係、引き込み線係約300名は筆ヶ崎本部に集合し、20日より市内36か所の修繕所労働者約1000名がストライキに入る計画であった。19日、新淀川13堤に約350名が示威運動会を行おうとしたが、昨年の運動会の大衝突の再来を警戒した官憲約200名が、沿道で厳しく警戒し、組合員3名が検束された。午後2時、デモで本社に押し寄せんとしたが、警察は「一緒に帰ってはならぬ。5分置きに10人まで」と分断させられた。やむなく三々五々で集まり示威行動を試みたがことごとく弾圧された。
(敗北)
20日夜、今回のストライキ計画の失敗が明らかとなり、実行委員会は「一時涙を呑んで兵を納め英気を養って再び戦わん」と決議し、21日九条市民殿において電業員組合大会を約400名の出席のもと開催し、賛否激論一時間の後、争議の打ち切りを決定した。
ー休戦宣言よりー
「資本家階級のいよいよ労働者階級に向かって挑戦の態度に出てきたことは、今度の大電の我が電業員組合に対する態度によって明らかである。
我らは、大電の暴虐なる挑戦に止むなく応じほとんど一旬にわたって或いは怠業に或いは罷業によって悪戦苦闘を続けた。(中略)我らは、今さら資本家の横暴や官憲の圧迫を叫ばない。ただ云う、かくの如きに処する我らの今後の運動はそこに方向転換を求めざる可からざることを。」