写真下2枚・1921年に日本労働総同盟野田支部発会式が開催された愛宕神社境内(2016年撮影)
野田醤油争議 1922年主要な労働争議⑧ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)
参照
「野田大労働争議」松岡駒吉著
「野田血戦史」日本社会問題研究所纂
「日本労働年鑑第4集」大原社研編
野田醤油争議
野田町は江戸時代から醤油製造が盛んな地域で、水路・陸路で江戸に多くの製品が運ばれていた。1917年(大正6年)大量生産を求めて、野田町の八大醸造家が合同しキッコーマンで有名な野田醤油株式会社を創立した。野田醤油の争議は、1927年~28年の8ヵ月に及ぶ大ストライキが有名だが、1919年には正月1月15日から全工場の労働者が賃上を要求したストライキを1月23日まで行っている。野田醤油では多くの労働者は「ヒロシキ」と呼ばれる合宿所の劣悪な待遇の下、結婚もできず、さながら奴隷のような人生のどん底を強いられていた。しかも「ヒロシキ」には親分子分の関係があり、労働者の賃金から親方が多額の金を巻き上げる「ピンハネ」(中間搾取)が当然のこととして行われていた。
『野田の奴隷を解放せよ』
北海道室蘭製鋼所で同僚松岡駒吉と共に労働組合の熱心な活動家であった小泉七造が、1920年(大正9年)から野田で活動を始めた。小泉は野田町の山崎鉄工所野田支店に勤め、野田醤油などで機械の据え付けをしていた。小泉は『野田の奴隷を解放せよ』のスローガンを掲げ、熱心に労働組合の必要を労働者の間に説き、日に日に同志の数はネズミ算式に増えていった。1921年(大正10年)、小泉七造が労災事故にあい、山崎鉄工所は、一切の労災補償もないまま小泉を解雇してきた。日本労働総同盟本部の松岡駒吉が乗り込み、会社と交渉し解決金を獲得して解決した。小泉はこの解決金で石鹸の行商をしながら組合結成に向けて奮闘した。これがきっかけで、がぜん労働組合組織化の動きが台頭し、同志が増えていった。
(日本労働総同盟野田支部結成)
1921年(大正10年)12月15日午後1時より、愛宕神社境内において約1500名が参加して、日本労働総同盟野田支部(労働会)発会式が盛大に行われた。当日は鈴木総同盟会長、松岡駒吉ら幹部が出席し、野田町有志による「花火」が盛んに撃ちあげられた。午後4時からは会旗を先頭に市内にデモで押し寄せ、大阪屋旅館まで引きあげた。
1922年(大正11年)、地域の各工場の労働者が続々入会し、野田支部は野田町聯合会と改称された。
これに驚いた野田醤油は、親和会などという御用団体を作り、ひとり金2圓で買収・勧誘し、同年2月24日には、やはり愛宕神社で会社をあげての派手な発会式をあげようとし、当日「折詰め弁当」「酒のビン詰め」「金50銭」を提供して労働者を集めた。これに対して、野田支部(労働会)が労働歌を高唱しながら神社境内にデモで押しかけ、御用団体の発会式をめちゃくちゃにして粉砕した。
かくして、野田町を中心に、この地域に、わずか2年足らずで、16工場1500名を超す大労働組合が産まれたのであった。野田支部は組合員のカンパにより、土地を購入して「労働会館」建設に着手した。6月30日野田支部は会社に労働会館建設のための補助金寄付を申し込んだが会社の拒絶にあった。その夜1200余名の労働者は清水公園に集まり、市内デモを敢行する示威行動を行った。翌7月1日もデモをやろうとしたが、警察の厳戒により阻止された。12名の労働者代表と会社重役との話しあいはようやく夜11時に「建設費寄付の代わりに、労働者一同に対し今月より一人月3圓の増給と残業代の割増の増給」でお互いに了解した。
(ピンハネ撤廃闘争と恐ろしい会社の陰謀)
1922年7月17日労働者は、「従来からある棟梁(親分)によるピンハネ」の撤回を要求したが、実現しないため、ついにストライキを断行した。22日妥協案が成立した。「毎月の給料とは別に、月6回分の理髪料を支払う」こととなった。その上、警察署から「親分子分の関係をなくす」提議がなされ、円満に解決したかに見えた。
しかし、この棟梁(親分)のピンハネ制度の撤廃要求に反感を抱いた会社・棟梁(親分)らが、なんとしても野田支部の動きを止めようと、まず、野田分署長警部石原徳太郎を買収し治安警察法でスト労働者を処分させてしまえと、「菓子折」の中に金50圓を入れて石原徳太郎宅に持参提供したが、徳太郎から拒絶されてしまった。あきらめきれない棟梁(親分)らは、以前から支部(労働会)に反感を抱いていた木村純一郎に金・日本刀を渡し、小泉七造らの殺害を命じた。
7月23日、棟梁(親分)側、木村純一郎の動きを察知した野田支部(労働会)は、木村の襲撃に備え、ただちに小泉七造を守る防衛隊を組織し、防衛隊員はそれぞれ武装した。探索の結果木村がピストルも所持し、小泉七造らを殺害するため本気で行動していることが判明した。刻々と危機が迫っている。こうなれば正当防衛で先にやるしかないと2名の組合員は木村を襲い殺害してしまった。
警察は「棟梁(親分)」側9名と野田支部組合員小泉七造ら19名を検挙し収監した。野田支部1800名は今回の事件は会社が棟梁(親分)側を使って支部幹部殺害を目的とした恐ろしい陰謀、謀略だと怒り抗議し、26日までストライキを決行した。26日夜、日本労働総同盟本部の幹部もかけつけ、28日には東京自由法曹団の片山哲弁護士もきて収監されている組合員への善後策を講じた。19名の収監者の内一人は獄中で死亡した。1924年(大正13年)控訴院において2名の実行組合員は懲役5年、一審で懲役7年の判決だった小泉七造らに無罪判決がでて確定した。会社側は全員懲役1年(執行猶予)の有罪判決となった。この事件は、会社野田醤油の謀略犯罪として、新聞や世間は一斉に「封建時代の頭が 白昼に暴露さる ー驚くべき会社の陰謀ー」厳しくと会社を攻撃し、労働者側を応援した。
(「ヒロシキ」の廃止)
かくして1922年(大正11年)の野田醤油争議の闘いは、賃金の増額など多くの労働条件の改善が実現した。とりわけ「ヒロシキ」(合宿所)における食事、寝具、その他の大幅な改善がなされ、ついに8月には「ヒロシキ」(合宿所)そのものを廃止させ、近代的宿舎の建設に着手させ、翌1923年(大正12年)に第一・第二の寄宿舎が完成した。
(その後の野田醤油争議)
1923年(大正12年)には、待遇の改善要求争議(スト26日間)
1924年(大正13年)には、会社の食言問題(賃上の約束を会社が守らなかった)
1925年(大正14年)には、小麦過剰問題(組合幹部6名の解雇と復職勝利)
1927年(昭和2年)には、大ストライキ
が起き、1927年(昭和2年)頃の組合員数は、2238名、うち女性は430名。第17工場以外の全16工場と付属の運送業とその労働者は、ことごとく野田支部に加入した。組合員は組合費毎月40銭を納め、支部は闘うストの準備金として貯金した。