上・「北海道社会運動史」渡辺惣藏
1926年の北海道労働運動その一 1926年の労働運動(読書メモ)
参照「北海道社会運動史」渡辺惣藏
北海道地方評議会結成
1925年総同盟分裂と日本労働組合評議会結成以後、評議会の全国組織は東北、北海道地方にも燎原の火の勢いで伸びていった。盛岡印刷労働組合、青森合同労働組合、函館合同労働組合、函館木工造船労働組合、小樽合同労働組合、室蘭合同労働組合、札幌合同労働組合、釧路合同労働組合等がわずか数か月で次々に組織化され、北海道地方評議会等も結成された。
小樽総労働組合の誕生
(大山郁夫の北海道遊説)
1925年(大正14年)、政治研究会による北海道の遊説が大山郁夫らによって行われた直後から、小樽港湾労働者による労働組合結成への活動がひそかに、しかし活発に展開された。
(鈴木源重)
1922年(大正11年)の夕張炭抗炭山争議で山を追放された鈴木源重は、小樽へ出てから石炭場を中心に幾度が労働組合の結成に向けて努力していた。彼はメソジスト教会の街宣活動にも参加していたが、労働団体の集会・演説会があると聞いて駆け付け、一労働者の立場から発言を求め、かつて4年前の夕張炭坑争議の苦闘を語りつつ、労働者には労働組合が絶対必要であると力強く説いて万場の聴衆を感激に打ち振るわせた。
小樽総労働組合結成
1925年(大正14年)8月30日、200余名の労働者が参加し、堺一雄を執行委員長、鈴木源重らが執行委員に選ばれ、感激のるつぼの下、小樽総労働組合が結成された。9月には評議会に加盟した。翌1926年鈴木源重が小樽合同労働組合の執行委員長となる。
(争議の頻発)
小樽総労働組合が結成されるや小樽市内で今まで苦しんでいた労働者の怒りが爆発した。小樽の労働者は次々と立ち上がり、争議が頻発した。ある工場での中間搾取との闘いでは、会社側が悪徳弁護士を雇い入れたため組合側も弁護士をつけ、演説会を開催し、.50名を動員して大衆抗議を行い、大乱闘も起きた。1926年3月には小樽運送会社の首切り反対闘争も起きた。100余名の交渉とデモでついに解雇撤回を勝ち取ったが、その場で小樽署の警官隊が一人の組合幹部を検束した。労働者はこれと肉弾戦で闘い、検束された幹部をついに奪還した。しかし、翌日小樽警察は約30名の組合幹部を一斉に検挙する大弾圧をしてきた。その結果組合幹部の10名が送検・有罪とされ収監されてしまった。これが小樽における労働争議の最初の犠牲者であった。
北海道地方評議会の結成
小樽総労働組合の結成当時、函館では函館造船、函館水電、函館鉄工、函館合同労組等の組合が相次いで結成され、評議会本部と連絡を取っていた。小樽総労働組合にも関東地方評議会議長山本県蔵が訪問し評議会加盟が話しあわれ、総同盟の松岡駒吉が来樽した時にはすでに評議会加盟が決まっていた。評議会の山本県蔵はこの後、国鉄苗穂工場に潜行し組合の組織化を目指した。
国鉄苗穂工場600名の組織化と苗穂工場従業員組合の結成た弾圧
札幌合同労働組合などの評議会は、札幌の国鉄苗穂工場を最大の組織目標工場として、外部から粘り強く意識的に計画的に徹底的に働きかけ、ついに組合結成を実現した。北海道唯一の官業労働組合運動の先駆的な役割を果たした。国鉄苗穂工場の組織化活動は、1925年9月に山本県蔵が来道したことを契機に、その働きかけがはじめられた。山県は苗穂工場に潜行し、工場労働者宿舎を訪問し、工場内の労働者の労働条件、労働者の不満、怒りを詳しく調査し、さらに評議会本部から三田村四郎もオルグとして乗り込んできた。恒例の苗穂工場の慰安会は家族や一般者参加もでき三田村四郎も潜行をはかった。途中特高刑事の尾行を撒き、慰安会にもぐり労働者への働きかけや工場調査をした。1926年(大正15年)1月頃には、評議会本部の東京合同労組の南喜一もオルグとして来北し潜行した。こうした評議会本部の熱烈な支援と札幌合同労組、小樽合同労組や労働農民党、学生等の共同応援の下に、1926年8月国鉄苗穂工場従業員組合が約600名の組合員を擁して結成された。国家資本の牙城国鉄工場の労働者がついに立ち上がったのだ。山本県蔵が最初に潜行してから約1年間の奮闘の結果だった。国鉄苗穂工場従業員組合は官営工場であることを配慮して評議会には加盟しなかったが、札幌合同には参加し、また幹部は労働農民党札幌支部幹部となり札幌地方一帯の労働運動の第一線に立った。10月に行われた札幌市会議員選挙では組合リーダーの田中好雄を全市最高点で札幌市議に当選させた。
札幌鉄道管理局は組織的弾圧をねらい、1927年(昭和2年)3月に田中好雄ら幹部を解雇するなど徹底的な組合攻撃を行ってきた。組合は評議会、労働農民党の応援の下に闘ったが、当局の熾烈な圧力の前に敗北し、国鉄苗穂工場従業員組合はわずかに8ヵ月の歴史で第一頁の幕を閉じた。
札幌合同労働組合
札幌合同労働組合の最大の功績は、国鉄苗穂工場を組織化した大変な苦労と努力であった。評議会には加盟しなかった国鉄苗穂工場従業員組合は札幌合同労働組合には加盟し、その後の札幌地域での争議を共に闘った。札幌合同労働組合のこの頃の最大の争議は、1926年(大正15年)8月に勃発した豊平製鋼の争議だった。参加人数約300余名が約一ヶ月にわたって奮闘したが、この争議は敗北に終わった。
室蘭合同労働組合の奮闘
1926年(大正15年)春ごろから、政治研究会のメンバーによる熱心な組織化の奮闘が始まった。日鋼や日鉄輪西の工場や栗林商会の現場をねらって工場の塀や電信柱に「伝単」(ポスター)を貼り、工場の塀をよじ登ってビラを投げ込んだり、工員の宿舎を訪問し、また地域で公然と労働組合演説会を開くなど必死な活動を繰り返し展開したが、残念ながら官憲等の厳しい弾圧のため日鋼や日鉄輪西の組織化はこの時は成功しなかった。
釧路合同労働組合
小樽総労働組合の結成間もない時、*武本実三郎が丸三運送店の現場で手を骨折する労災事故事件に遇い、この時丸三運送店の労働者は勇敢に闘い、小樽総労働組合に応援を求めた。早速小樽総労働組合が釧路に乗り込み、八千代座で丸三運送店糾弾演説会を開いた。ついに前例が無かった傷害手当を獲得した。これが契機として釧路合同労働組合が創立された。
(*「羽ばたけ北海道 : 北海道回想録2 組合闘士パン売りじいさん 武本実三郎 」/ p322)。 武本実三郎は労働運動に身を投じて20余年、人夫や行商をしながら労働農民党を結成し、市会議員に推しだされ、幾たびも検挙投獄されながら、苦難の道をきりひらき、一筋に社会運動の途を歩き通した方)。
北海道最初のメーデー
1926年(大正15年)北海道第一回のメーデーは小樽と函館において行われた。小樽では小樽合同労働組合が、政治研究会やその他の労働団体と協力して猛烈なメーデー宣伝運動を展開した。毎夜全市にわたるビラ貼り・配布と街頭演説、電柱の上やゴミ箱の上からも呼び掛けた。5月1日花火が五発打ち上げられた。これがメーデー挙行の合図であった。手宮公園には以下の組合など約600人の労働者が押しかけた。
評議会
小樽合同労働組合
日本海員組合
北海道労働倶楽部
自由労働連盟(アナ系)
朝鮮親睦会
政治研究会
等々
手宮公園会場には、労働組合、団体の旗が林立し激烈な演説の後、手宮公園から小樽公園までのデモに入った。鈴木源重夫人や正木清夫人ら女性たちが甲斐甲斐しい労働服に身を固めてデモの先頭に立ったことは、参加者の大きな関心を集めた。
スローガン
一、労働者保護法をつくれ!
一、労働者のたまり場をつくれ!
一、海員宿泊所をつくれ!
一、首切り反対!
一、八時間労働制の確立!
一、歩合制度廃止!
一、公務負傷は親方負担!
函館でも、
函館水電交誼会
造船木工労働組合
鉄工労働組合
港湾労働組合
合同労働組合
労働農民党支部
アナ系の印刷工親交会
など多数が参加した。
次回、1926年の北海道労働運動その二 函館水電争議に続く