上・日本初の普選総選挙時の労農党大山郁夫の選挙ポスター(1928年)
上・「争議団の決議文」
内閣印刷局1300名ストライキの悲壮な敗北―1928年の労働争議(読書メモ)
参照・日本労働年鑑第10集/1929版(大原社会問題研究所編)
内閣印刷局證券課労働者のストライキ(1928年4月6日から5月25日まで)
(大山郁夫を東京駅に出迎えに行って検束、解雇)
證券局内部には以前から評議会の関東印刷工組合が組織した「同交会」があった。同交会は雑誌「同交」を発行し、熱心に活動し組織の拡大に努めていたが、印刷局当局は常々評議会の同交会をつぶそうと狙っていた。1928年2月29日普選総選挙を終えて帰京した労農党の大山郁夫を東京駅に出迎えに行った同交会員数名が官憲の弾圧により検束された事件が起きた。待ってましたとばかりに印刷局当局はこの検束を口実として検束されたひとり細金某を解雇してきた。これを知った印刷局労働者は憤激した。3月19日印刷局工場内で従業員大会を開催し、細金某の復職と、かつ当局がかねてから約束していたのに実行していない労働条件の改善の要求をあわせて提出しようとした。
(日比谷警察署の弾圧)
しかし会場にいた日比谷警察署の警察官が大会討議を弾圧をしてきた。これに怒った労働者が反撃し官憲と乱闘となった。労働者数名が警察官の暴力で怪我を負わされた。この騒ぎに事態はますます大きくなり、労働者側は、組合同盟の顧問弁護士松谷与二郎を代理として日比谷警察署長を傷害罪で告発した。争議は印刷局当局と組合同盟の闘いとなった(直前の3.15弾圧、スト中には4月10日の評議会など三団体への解散命令がある)。
(左翼分子の一掃をはかる当局)
政府の3.15弾圧もあり、当局はこれを奇禍として印刷局から左翼分子の一掃を一挙に謀ってきた。当局は3月19日より3月29日までの10日間になんと31名もの労働者を次々と無慈悲にも解雇してきた。
(1,300名ストライキに決起!)
4月5日組合同盟望月源治は「不倒解雇反対復職要求」の決議文を杉田印刷局長を渡そうとしたが、当局は面会する必要もないと断ってきた。4月6日ついにストライキを敢行した。6日午前7時、印刷局ストライキ労働者と組合同盟の幹部は、東京駅、有楽町駅、神田駅等で一斉に印刷局に出勤する仲間たちにストライキ決行を知らせ、またストに参加しようと呼び掛けるビラを撒いた。職場の仲間たちは次々に呼応しこの日のスト参加者は1,300名にのぼった。
(10ヵ条要求書)
一、不当解雇絶対反対
二、食堂献立表の公表
三、居残り賃金値上げ
四、日曜出勤賃金全額支給、父母祭の賃金全額支給
六、深夜勤務手当の増額
七、賞与を雇と同率にすること
八、最低賃金の確立
九、解雇者の即時復職
十、団結権の承認
(当局糾弾演説会)
4月10日吾嬬橋日本紡績クラブで罷業激励演説会、王子町王子演芸場において当局糾弾演説会を開催した。また、争議団と組合同盟の青年前衛隊は総出動して、労働者の家庭訪問を行いストライキの拡大に努めた。
(行商隊)
4月13日争議団は行商隊を組織し、歯磨き、石鹸などの日用品を行商し争議費用とした。
(当局の猛烈な争議団切り崩し)
印刷局は当初から強硬な態度だった。4月6日早々とストライキ参加者1300名に対し、警告書を送り脅してきた。また局員80名を動員してストライキ労働者の家庭に出向きスト破りをして出勤するようにあらゆる手段を使い切り崩しに狂莾した。今まで一度も争議やストライキの経験もなく、階級意識もすこぶる希薄であった印刷局労働者は、日を追って切り崩され、争議団の気勢はたちまち落ちていった。組合同盟はやむなく戦術を変えて解雇者以外の労働者のストライキを中止し、全員出勤させた。しかし、3.15弾圧と4.10評議会などの解散命令弾圧の前にこれ以上の闘いは組める状態ではなかった。
(悲壮な決議文)
悪戦苦闘の結果5月26日に至って、組合同盟と争議団本部は、当局の今井庶務課長を訪ね、以下の悲壮な決議文を突き付け50日間にわたる争議の幕を閉じた。
「吾等は今日をもって争議団の組織を解体し、あわせて争議団としての行動を終了す。しかしながら争議終結に対して、局長以下各幹部の吾等にとれる態度は永久に忘るゝ能はざるものであることを記憶せられたし。」
以上