古代出雲王国 スサノオ超考古学より
2016年11月03日
スサノオ超考古学 最新!
日御碕灯台の秘密に迫る!!
現地レポート!!
しばらくぶりに日御碕にやってきている
これは昨日撮影した白亜の石造り
日御碕灯台の画像だ(本職は写真家です)
2016.11.02.07:25 LUMIX Phoneにて撮影
早朝の斜めからの光と澄んだ空気が灯台を鮮やかに浮かび上がらせた
出雲日御碕灯台の歴史
出雲日御碕燈台は、明治32年(1899年)に浜田、境の両港が開港場に指定され、
外国貿易が盛んになってきたことから、大型沿岸灯台設置の必要性が高まり、
明治33年から3か年をかけた大工事の末に完成しました。
この工事には、島根県八束郡森山から硬質の石材を切り出し、
境港から海路54海里を運搬し、灯台用材に使われました。
我が国の洋式灯台建設の技術は、
明治政府が招聘した外国人技師の指導のもとに始まったのですが、
外国人技師は、明治10年代にはすべて帰国していますので、
出雲日御碕燈台の設計、施工のすべては日本人の手によって行われました。
我が国には昔から城等を築いてきた経験があり、
優れた石工技術を持っていましたので、
この頃には硬固で美しい石造りの灯台が各地に築かれていますが、
この灯台は、建設時から我が国最高の灯台の高さ(43.65m)を有する灯台として
親しまれ、
現在もなおその王座を守り続けています。
社団法人 燈光会パンフレットより
さて
この
我が国には昔から城等を築いてきた経験があり、
優れた石工技術を持っていました
ですが
過去記事↓クリック
と深く関わりがあります
例えば
雪野橋(ゆきの)
所在地:菊池市龍門雪野
長さ:29.0m
幅:4.3m
径間:8.6m
高さ:7.0m
迫間川の支流、雪野川の犬滝に架かる単一アーチの石橋である。
菊池―鯛生道路に並行して架かる明治後期に架橋の大型橋である。
工事請負人は西迫間の松本喜太郎で、
犬滝川の上樫山より良質の石材がでてためこれを切り出し、
また雪野八幡宮の裏山を買い入用の木材を伐りだしている。
石工は城北(現菊鹿町)の菊川金八である。
アーチ型の橋
子供にレゴブロックでピラミッドを作ってね!
といえば、瞬く間に出来上がるでしょう
しかし、拾ってきた石でアーチ型の橋を作れと言ったら
100年かかっても完成しません
エジプトのピラミッド、さらに当時の中東の家は
石造りでした
イエスは大工と伝えられますが
日本の大工ではなく、石積みの技術者だったのですね
この、エジプト発祥の石工は
既得権益=子孫まで食い上げ無いように
仲間だけに石積みの秘密を守る結社を作ったのです
それが
フリーメーソン
メーソンって・・
masonとは 石工、れんが職人、フリーメーソン団の組合員 weblioより
真のメーソンは日本の石工です!
だから、フリーメーソンの技術では
日御碕灯台はおろか日本の城の石垣なんて作れっこないのでした(笑)
言っちゃあ悪いが日本の真もメーソンに比べれば
フリーメーソンっって
子供程度(笑)
これも日本の石工の作品です
長崎眼鏡橋
これも
皇居二重橋
そして
続く・・
出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)と大物主命は同体とされ素戔男尊の子とも 六世孫とも伝わります。
もともと奈良の大和三輪の先住民の王であった大物主命が、大和朝廷に敗北し国譲りして出雲に流され、後に出雲大社として祀られたとする説があります。
果たして、出雲族は、元々いまの出雲に暮らしていたのか ・・・?
僕の別ブログです
8年前から書いています
自分で言うのもなんですが
出版はしていませんが
少なくともNET世界において
古代出雲研究の第一人者です
毎日
島根県教育委員会所属の
島根県立古代出雲歴史博物館
古代文化センター
の学芸員4人と意見交換しています
(どちらかというと情報提供)
かつて日本海文化圏
朝鮮半島〜出雲〜越志にかけて
大の国(古代出雲王国と同一?)が存在
その国の王様ということで
「大国主命」
です
世襲でしたので
一人ではありません
古事記において
大国主命=オオナムチ=大物主とされますが
事実ではありません
古事記は全てではありませんが作文ですので
あまり参考にされない方がよろしいかと
出雲大社の祭神は
江戸時代の終わりまで
スサノオでした
また
明治になるまで
杵築大社その前が杵築社
神紋は
本来
二重亀甲に「有」
今ちょうど
出雲だけ神在月
それ以外は神無月
(旧歴の10月)
十月=十+月=有
この
二重亀甲に有という神紋は
神魂神社、八重垣神社も使っています
以下はまだブログ記事にしていませんが
出雲大社に使われている
二重亀甲に剣花菱の神紋は
千家の紋と言いますが
実際は
三刀屋神社の三屋神社のものです
つまり
簡単に言うと
三屋神社は元出雲大社です
今は三刀屋ですが
かつては
御門=みと
だったのを
中央に遠慮して
神亀三(七二六)
御門〜三屋 みと
と年字を改む
と出雲風土記に記載してあります
ですので
御門をミカド
さらには
イスラエルのガド族などと
ほざいている説は
全くの的外れという他ありません
御門というのは
天皇ではなく
平田中心とした銅から
三屋地区に居を移して鉄を仕切った
スサノオのことです
このことについて
出雲風土記研究の第一人者である
島根県立古代出雲歴史博物館の
専門学芸員の方と話しましたが
ご存知ありませんでした
これ以外の詳しいことについては
古代出雲王国スサノオの光と影
引き続き
スサノオ超考古学をごらんください