いつものように朝10時頃、郵便受けを開けた。
葉書が一枚、はらりと落ちた。
拾って差出人を見る。
瑠璃子だ
メールで済むものをなぜ葉書なんか・・
文面を見た
「暑中お見舞い申し上げます。光さん、お元気でしょうか。
私は今、苦しいです。何もやる気がなくなって、死にたいと思うようになりました。
お医者さんを訪ねたら、鬱と診断されました。
安定剤を貰い、夜眠れるように眠剤を処方されました。
それでも苦しいのです。光さん、助けてください」
僕はびっくりした。鬱だと自殺の可能性もある。
急いで携帯にかけてみた。
「パケット通信中か、電源が入っていません」
固定電話にかけてみる。長い呼び出し音の末、留守電が流れた。
どうしよう、僕は彼女の住まいを知らない。
葉書をよく見ると住所が書いてある。
僕は車に飛び乗った。地図を頼りに彼女の住まいを目指す。
着いてみるとそこは、15階建てのマンションだった。
見上げると誰かが最上階から身を乗り出している。
瑠璃子だった。
僕は叫んだ
「やめろ、瑠璃子!」
僕に気付いて瑠璃子は体を引っ込めた。
「今行くから」
エレベーターは点検中だった。
僕は15階まで駆け上がった。
はあはあいいながら瑠璃子の部屋1511のチャイムを鳴らした。
なんの反応もない。
「瑠璃子、僕だ、光だ!ここを開けてくれ!」
中から声がした。
「今は誰とも会いたくないの。帰って」
「だめだ、僕が帰るとまた自殺しようとするんだろう。話を聞いてやるからここを開けて」
「開けろ」「帰って」こんなやりとりを30分も繰り返したあげく、瑠璃子は扉を開けた。
その左手に白いものがあった。包帯だ。
「もしかして、自分で切ったの?」
瑠璃子はうなずく。リストカットだ。
「いつ切ったんだ?」
「昨日よ、光さんに葉書を出してすぐ。
僕は瑠璃子を抱きしめた。
「大丈夫だよ、僕がいるから」
瑠璃子の表情は暗い。と言うより無表情に近い。
僕は瑠璃子の話を聞いた。
新しい仕事に就いて、一週間で不眠になったらしい。
「あのね、いじわるな先輩がちくちく言うの。キーボード打つのが遅い、
のろまで給料泥棒」
このあと延々と続く瑠璃子のグチを、僕は黙って聞いていた。
そして言った。
「そのお医者さん、もう一度今日尋ねて見ようよ。
僕は話は聞いてあげることは出来るけど、それ以上は専門家じゃないと」
瑠璃子は素直に従った。
着替えをして僕の車の助手席におさまった。
クリニックには多くの患者がいて、2時間も待たされた。
瑠璃子の番が来て、僕も一緒に診察室に入っていった。
瑠璃子は何も言わない。僕は瑠璃子がリストカットしたこと、15階から飛び降りようとしたことを医者に告げた。
そしてその答えは、
「自殺を考えている間はまだいいが、それを実行するようになっては、私の手には負えません。入院して貰わなくては」
「どのくらいですか?」
「1ヶ月から3ヶ月。確かなことは言えません」
僕は瑠璃子に聞いた。
「入院する?」
瑠璃子は黙って頷いた。
医者は病院と連絡を取った。
「幸いベッドが開いているそうです。今日から入院しましょう。いいですね」
「はい」
瑠璃子ははじめて口を開いた。
車に戻り、瑠璃子のマンションに行き、
入院に必要な衣類やその他のものを用意した。
用意を手伝いながら、僕は泣きたい気分だった。
そして車に荷物を積み込み、指定された病院に向かった。
病院で手続きをし、瑠璃子が閉鎖病棟に消えていった。
僕は虚無感に包まれた。
自分の無力感にさいなまれた。
こんなふうになるまで、何もしてあげられなかったのか?
そう言えば先輩に虐められてると、瑠璃子が告げたとき、
「職場なんだから色んな人がいるよ。気にしてたらきりがない」
その程度のことしか言ってやれなかった
もっと話を聞いてやっていたら・・
今更後悔しても遅かった。
瑠璃子が入院して一週間が過ぎた。
その間、瑠璃子からの連絡はなかった。
家族以外は電話も取り次いでくれないので、瑠璃子からの連絡を待つより仕方ない。
郵便受けを期待しないで見ると一枚の葉書が落ちてきた。
「光さん、今私は何もする気がしません。
新聞や雑誌も読む気が起こらないし、人と話する気にもなりません。
かろうじてこの葉書を書いています。
死にたい気持は相変わらずですが、
私が死んだら光さんが悲しむと思って耐えています。
鉄格子越しに銀杏の木が見えます。
葉がいっぱい繁ってますが、やがてその葉も散っていくんですよね」
僕は暗澹たる気持になった。
瑠璃子が苦しんでいる。その苦しみを一緒に味わってあげることが出来ない。
僕はなんてちっぽけな存在なんだろう。
瑠璃子だけでなく、僕まで鬱という病に負けそうになっている。
僕は葉書を取りだした
「瑠璃子、ごめんね。瑠璃子の苦しみを十分分かってあげられなくて。
これからは一人で抱え込まなくてもいいように、僕が寄り添ってあげるからね。
病院は退屈なところだけれど、しっかり治しておいで。
待ってるよ」
返事はなかった。
それどころか、それからぷっつりと瑠璃子からの連絡は途絶えた。
僕は毎日郵便受けを開いた。
空しさが募っていった。
瑠璃子が入院して3ヶ月が過ぎた。
彼女のことを思わぬ日はなかった。
そんなある日、携帯にメールが送られてきた。
瑠璃子だった。
「長く連絡できずにごめんなさい。
私の暗さをあなたに伝えるのが辛かったのです。
今日やっと退院しました。でも完全に治ったわけではありません。
一度鬱になると、癖になると主治医は言います。
光さん、明日、会えませんか?
大事なお話しがあるのです」
僕はメールを返した。
「いいよ。もちろん。退院おめでとう。地下鉄G駅で11時でどう?」
「それで構いません。色々とごめんなさいね。では明日」
僕は考えた。大事な話ってなんだろう。
翌日11時前に僕はG駅に着いた。瑠璃子はもう既に到着してて僕に手を振った。
G駅から徒歩十分で大きな水族館がある。僕と瑠璃子は入場券を買った。
大きな水槽の中、ジンベイザメやまんたなどが泳いでいる。
水族館の中はとっても涼しかった。
水槽を見つめながら、僕は瑠璃子に聞いた。
「大切な事ってなんだい?」
「それは・・私を捨ててほしいの。鬱はまた再発するって言うし、これ以上あなたに迷惑かけれない。
独りでひっそりと生きていきます」
僕は驚いた。
「何を言ってるんだ。今度鬱になりそうだったら、僕が支える。
その為には出来るだけ一緒にいた方がいい。
瑠璃子、結婚しよう。瑠璃子の病は僕の病だ」
瑠璃子の頬を涙がつたった。
「本当にいいの、こんな私で。迷惑ばっかりかけるわよ」
「いいんだ、瑠璃子、愛してる。結婚しよう、いいね?」
瑠璃子はこくん、と頷いた。
もう一度水槽を覗いた。多くの魚が泳ぐ様を見て、瑠璃子は言った。
「まるで入院中の私みたい。閉じこめられて、可愛そう。」
「もう自由だよ。でも僕からは自由になれない。結婚するからね」
「はい」
そのときジンベイザメが、僕たちのすぐそばを通り過ぎた。
瑠璃子はまだ泣いていた。そのまま泣き続けた。
いつまでも・・