新三河物語(上)
平成23年7月7日~20日
著者 宮城谷 昌光
新潮社
【内容】永禄3年(1560年)、織田信長の急襲に遭って、今川義元は桶狭間に斃れた。義元に頤使されていた松平元康(家康)は父祖の地、西三河は岡崎城に戻り、悲願の独立を果たす。だが息継ぐ間もなく、一向一揆が勃発。血縁者が敵味方に分かれ、相争う国力消耗の未曾有の事態から家康を救ったのは大久保忠俊(常源)だった。忠俊率いる大久保一党の決死の進退が深く胸を打つ戦国歴史小説の巨編。
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これは、徳川十六神将の一人(一族)の物語。あの「大久保彦左衛門」がこの「三河物語」を書き残した。大久保家が、どれだけ徳川に尽くしたかを客観的に捉えたものと思われる。当初は、岡崎、岩津、上野(城)、寺部、広瀬といった、この近くの地名が出てくるので、余計に親しみも湧いてくるというものだ。
●三河物語(みかわものがたり)は、大久保忠教(彦左衛門)によって書かれた、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書である。
元和8年(1622年)成立。3巻からなり、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、下巻では太平の世となってからの忠教の経験談や考え方などが記されている。
本来門外不出とされ、公開するつもりもなく子孫だけに向けて記されたため、忠教の不満や意見などがそのまま残されている。しかし忠教の思惑とは裏腹に写本として出回り、人気になったと伝えられている。もっとも、下巻の巻末には読み手に対して、「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓(えこひいき)を目的として書いたものだとは思わないで欲しい」といった趣旨の言葉が記されており、門外不出と言いながらも読み手を意識しているという忠教の人間臭さがうかがえる。同時代の一次資料と合致する部分も多く、多くの学術書の出典となっており、良質な資料として評価されていると言える。また、当時は珍しい仮名混じりの独特の表記・文体で記されており、近世初期の口語体を現代に伝える貴重な言語資料としての側面もある。