強い罪悪感。
強い後悔。
強い憤怒。
言わずもがな、いずれも人の一生に強く劇的な変化をもたらす。
しかし、時間とともにその経験、記憶が薄れることもある。それを保持するのは意志の為せる業なのだが。
とにもかくにも、一生を左右するほどの経験はそれ相応に強烈な印象を帯びているものだ。百の見聞よりも一の経験が勝り、フィクションがノンフィクションに勝るのも然り。
喜怒哀楽。ベクトルこそ違うものの、強ければ強いほどそれらは人生を劇的なものにしてくれる。
しかし怒と哀しみの二つに限っては、この扱いを誤ると豊かな人生を脅かす可能性が高い。
人の脳というのは、情報を記録するよりも削除(意識の奥底に沈ませる)するほうに実は特化しているという説がある。
少し考えてみれば納得するのは簡単だ。
先ほどの怒りと哀しみという感情にいつまでも苛まれていては日常に支障を来してばかりになってしまう。
そこで脳の忘却機能だ。こいつは記憶に伴う感情の種類に関係なくこれを働かせる。
ベクトルがどこを向いていようと、どんなに強かろうと、時間とともに記憶を薄れさせてゆく。
出来事そのものを忘れはしなくとも、伴う印象と当時の感情は薄れてゆく。
ゆえに、人は交通事故を起こしてしまうし、調理の際に怪我や火傷を被る。
危険だと頭でわかっていても警戒意識が弱まるのは、怪我や事故の印象後悔罪悪感が常に自身を苛まないことの代償とも言える。
じゃあどうすればいいのか。
皆さんご存じ『意志』の力である。
悔しさや怒りや後悔をバネとして活かすためには、何かに取り組む際にその感情を随時呼び起こすことだ。
交通事故の恐ろしさを改めて実感したいのなら、YouTubeでクラッシュ映像でも見ておいて運転の際にはそれを思い出すか想像すればいい。R18映画の内容と同じ事態が、まさか自分の周りでは起こらないだろうなんて馬鹿げた考え方は今すぐやめたほうがいい。
いつでも意識することだ。そして想像することだ。
時間単位の未来の後悔も、年単位の未来の後悔も、人間なら想像するのは容易いことだ。
『後悔』とかいうきっとこの世の何よりも不味いものを一度でも味わったことがあるなら…。
しかし、人の心や気まぐれというのはいつの時代もどの年代でも厄介なもので口で言うほど簡単ではない。
腹が立つ時、嬉しい時、楽しい時、哀しい時、思考よりも感情が先立って理性を支配する。
後悔の味を知っている筈なのに、同じ過ちを繰り返してしまう。何度も何度も同じ苦渋を味わうはめになる。
それが嫌だから、無数の選択肢の中から1つを選んでいるはずなのに。
しかし、後悔の味も時間とともに忘れるから救われることもある。
任意でこの回路のオンとオフを切り替えられたらと、思わずにはいられない。