アオイはショウとは目を合わさないままに、小さな消えゆるような声でそう言った。走行音や、社内アナウンスの中で何とか聞き取れるほどの声だ。アオイの耳元に口先を近付けて、これまた小声で返答をする。
「いえ、せっかく譲って下さったのに、こんなことになってしまい、こちらこそ申し訳ないです」
見知らぬ人とこんな会話をすることになるとは思いもしてなかった。特異な状況下で何か言わなければと口を突いた言葉だ。ショウは周りには会話を聞かれたくはなかった。
電車の中で会話をしている人をたまに見かけ、内輪話しで盛り上がったり、どうでもいい話しが耳に届くと辟易する。聞かなければいいのだが、一度気にしてしまうとそこから離れなれなくなってしまう。
たまに込み入った話しをする人もいて、知らない人が聞いているかもしれないのに、そんな話しがよくできるものだと感心してしまう。
まだ合って間もないと思われる人達の、ぎこちのない会話を聞くのは、その中でも苦になった。様々な理由の中で、行動を共にすることになった人たちの、お互いに気を使ったやり取りがもどかしい。
どんなことに興味があるのか、ないのか。何が好きで、何が嫌いなのか。当たり障りない質問を繰り返しては共通点を探し当てようとする。
どちらかが話しはじめると、無難な相づちを打ったり、必要以上に共感することもあり、一瞬盛り上がったりもする。それなのに胸の内では次に何を話そうか、多分そのことばかりを気にしているような、会話自体には何の中身もないやりとりが続いて行く。
とにかく一緒にいるあいだに、妙な間ができないようにするためだけの会話だ。奇跡的に共通の趣味や、関心事があれば幸運だ。一気に楽しいひとときに変わり、降りる駅があっという間に来たりする。聞いてる方もそんな人達からの呪縛から解き放たれる。
シュウがそういった気持ちでその人達をみているのは、自分も同じ状況に陥るからであり、そのような状況にならないようになるべく配慮してきた。突然降りかかった久しぶりの状況に気持ちが焦っていた。
実は出かけに躓いて、足を怪我してしまいましてね。と言おうかとして思い留まった。距離を詰めるために自分の失敗談を話すのは常套手段ではあっても、そこまでする必要はないし、なにより何の関係もないまわりの人たちに聞かれてしまう。
そういったことを考慮せずに口が軽くなってしまうのは、まさに不穏な関係性に耐えきれず、自己開示をしてしまう失敗例となる。自分の弱みをさらけ出し、チキンレースに負けてしまった結果だ。
「わたしは、どうも間が悪いというか、思い込みが激しいらしくて、、」そうアオイが口にする。
自分のことなのに他人事のように言う。確固たる自分形成がなされていない人が口にする言葉だ。これで主導権を握れたショウは気が楽になった。自分から話す必要がなくなり、相手に話させればいいだけだ。
「よくあるんですか?」と、肘を突く。肯くアオイは、それにつられてスルスルと話しはじめる。
道を聞かれた時に、勘違いしてしまい、一本違う道を教えてしまったこと。落とし物を拾って必死に追いかけたら、その人の物ではなかったこと。そんなエピソードをいくつか話した。
「いつも、あとから間違いに気づくんです」
見事なまでの失敗談だった。まわりにいる人も耳に入っているだろう。その中の何人かは自分にも経験があると同感し、何人かがトロいヤツだと静かに嘲笑しているはずだ。
満員の車内はカラダをまわりに預けられ、想像した以上に楽だった。この人には申し訳ないが座らなくてよかったと、あらためて自分の判断に確証を持つ。あと二駅ぐらい何とかもちそうだ。
シュウは不憫そうな顔を作ってアオイに相づちを打つ。こちらもこれでもちそうだ。
「一番最悪だったのは、、」もちろんアオイはシュウだけに話しているつもりだ。
話すことで贖罪した気にでもなるのか、まわりにも聞かれている感覚はなく、自分の失敗談を懺悔でもしているように話している。シュウは神の代理人でもないし、聞いているのは慈悲深い使徒達でもない。
「、、痴漢をしたひとを間違えてしまったんです」
シュウは目をつむった。まさかの内容だった。確かにそれは、ついうっかりでは済まされない思い込みで、ひとつ間違えば犯罪になってしまう。
どう反応していいかわからず、その人の横顔を見るともなしに覗きこむ。平穏な顔をして、車窓から見える風景を眺めていた。
平穏になれないのはショウの方だった。このタイミングでの突然の巻き込まれ事故だ。
まわりからは自分は知り合いと認識されているはずで、ショウはいたたまれなくなってくる。心なしか冷たい視線がこちらに向けられいる気がする。
せめてもの救いは、痴漢で捕まった側でないことか。そうであれば、すぐさまこの場を離れるたい心境になるだろう。満員の中で、脚を痛めている身でそがれできるのか、はなはだ疑問でしかない。
ここまで話しをして、今さら他人のフリもできず、とは言えこの場から立ち去ることもできず、願わくばこれ以上話しが膨らまないか、別の話題にすり替えたい。
ショウは先手を打つべく、当たり障りのない合いの手を入れる。
「そんなことがあったんですね。まあ、その話は、、」
「学生が困った顔をして、わたしに視線を投げかけてきたんです」
ショウが話しの途中でも、アオイは自分のペースで話し続ける。ショウは万事休すと目を伏せた。
「最初は何か分かりませんでしたが、直ぐに痴漢の被害を訴えているのだと感ずきました。でもどうしていいかわからないんです。学生は今度は視線を後方に向けて、目配せをはじめました。そこには背の高い人が後ろ向きに立っていました。その人に何かされていると、伝えようとしているのだと理解しました」
アオイはここまでハッキリとした口調で明確に話した。これまでの自信なさげな口ぶりではない。誰かに訴えかけるようにも聞こえる。
ショウは少し安堵した。この話の流れからすると、間違ったのはこの人ではなく、その学生ということになる。
緊張感があった周囲の人たちも、心なしかホッと落ち着いた雰囲気となる。何にしろ早く話しを切り上げたいショウは言葉を押し込んでいく。
「成る程、その学生が勘違いしたのですね。仕方ありませんよ、パニック状態だったでしょうし、後ろ向きなら正確にはわからないでしょうからね。最も間違えられた人にとっては、人権問題になるでしょうが、、」
これで幕引きとするつもりだった。これ以上の深掘りは不要だと、そんなシュウの思いが込められている。
それに今度はアオイはシュウの言葉に被せこなかった。それでシュウも締めてよいと、先ほどの言葉で結ぼうとした。アオイはシュウに話す機会を与えたというよりも、何かを待っているようだった。
「間違っていればですけどね、、」
その言葉は、誰かに突きつけるような言い方だった。自分から間違えたと言っておいて、そんな言い草はないとシュウは呆れてしまう。
もうすぐ駅だ。人が降りたら挨拶して間を取ればいい。いまさら言い合っても仕方がない。聞こえないふりをして時を稼ごうと両腕でつり革に捕まり、視線をアオイから切った。
「、、でも、間違いじゃなければどうなりますか?」
それでもアオイはまだ話し続ける。シュウもいい加減うんざりしてきた。もういいじゃないですかと、言おうとしたとき、シュウの後ろの方で人が動いた。
身動きが取れないほどの車内で、もう次の駅で降りる準備だろうか。次は大勢が降りる駅なので、それほど焦る必要はない。
電車に乗り慣れていない人が、やりがちな行動だと、シュウはその人が近づくと、少し通り道を作ってあげる。
その人はチャンスとばかりに、大柄なカラダをグイグイとねじ込んでくる。ヤレヤレといった面持ちで、シュウはやり過ごそうとする。アオイはまた車窓を眺めている。
電車は駅に止まり大勢の人が降りていった。先ほどのフライング気味の人も、無事降りられたようだ。
ふと見ると、アオイのとなりに学生服の子が立っていた。アオイに何か用でもあるのか、モジモジと何か言いたげに見える。まもなくドアが締まりますとアナウンスがされた時、その子はアオイにアタマを下げて急いで電車を降りていった。その姿を目で追うシュウ。
「知り合いですか?」
何か訳ありなのだろうか。聞いておいて、変にクビを突っ込んだことに後悔した。車内の人は減りはじめたとはいえ、これでまた変なエピソードでも話しはじめられたら目も当てられない。
アオイはクビを振った。なにか緊張感から解き放たれたように、フーッと息をついた。
「間違いでなくて良かった」そうボソリとつぶやいた。
「エッ!?」シュウのアタマの中で何かがつながっていった。
「もしかしてあのコ、痴漢に遭っていたんですか?」アオイは否定も肯定もしなかった。
「窓にあのコの表情が映ってました。なにか辛そうな表情でした」
それで痴漢の話しを切り出したのかと、シュウは悟った。あの時から、この人は自分の失敗談ではなく、その話題をすることでまわりに聞き耳を立たせ、痴漢に対して抑止力を働かせたのだ。
「何の確証もなく、誰かを咎めるほどの度胸はありません。かと言ってあのコを放って置くわけにもいかず、咄嗟に口に出ました。いつもは、それで失敗するんですが、、」
そう言って沈んだ表情でシュウの足を見た。
「いえいえ、これは、わたしの都合で、あなたの所為じゃありませんよ」
なんとも立場がなかった。もし自分があの人の立場だったら、そんな立ち回りができただろうか。できているイメージがわかないし、できるはずがない。
この人は何度も失敗しても、自分が目にしたことに対して正義を貫こうとしている。それがすべていい結果にならなくとも。いやエピソードを聞く限り明らかに失敗が多いのかもしれない。それでも弱気にはならなかった。
誰もが自分さえよければいいといった風潮がはびこる中で、誰かを助けたいという気概を常に持ち続けている優しさがあった。
散々この人のことを小バカにして、空気を読まない言動を迷惑がり、そもそも行為を無にしたからこんなことになっている。自分の小ささだけが浮き彫りになっている。
アオイは何度も首を振り、そして最後にアタマを下げてその場を去っていた。残されたのはシュウの方だった。電車が揺れてアオイは少しよろけていた。シュウはその姿にアタマを下げた。