private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

A day in the life 1

2016-11-12 13:47:38 | 非定期連続小説

 地面に貼り巡らされたレンガがそこだけ隆起している。まるでそこだけが、そのように造形されていると思えるほど、自然に盛り上がっていた。
 想像するに、それは近くの街路樹の根が成長し、レンガを持ち上げていったか、なんらかの他の植物がその下で繁殖し芽を出し、太陽を求めレンガを押しのけようとしていると言ったところか。
 夏の暑さもさめやらぬまま、赤茶けたレンガの照り返しやら、吸収された熱が発散し膨張した空気に身体が重くのしかかってくる。
 レンガの隙間からは茶色い物体が見えかかっていた。
 商店街の蕎麦屋の前にそれはあった。夏まつりがおこなわれ、そこで転ぶお年寄りや子供が多数あったとかで、市に通報があり整備することになった。
 さびれていたはずの商店街が、今年の夏まつりはえらく盛況だったらしく、市の補助金も出ない中で、自前で整備費を都合付けたと市の担当者が驚きながらも、予算が浮いたと喜んで話してくれたのを耳にして、それであれば事前見積もりで提出した工費の値切りに応じなければよかったと、タケシタは毒づいた。
 個人で外構業を営むタケシタがなんだか厭な流れを感じていたのは、ここに来るまでに通りかかった公園で、似合いのカップルが真っ昼間からベンチに座ってビールを飲んでいたのを目にした時からだ。
 藤の木の蔓をつたわせようと鉄骨で作られた建造物に、自らのDNAに背くことなく蔓を伸ばし、柱に巻きついて、天井を覆っている。5月にはきっと紫の花を下げて行きかう人の目を楽しませるのだろう。今はベンチの二人に良い感じで日影ができており、それはそれでまた気に食わない。
 カップルなんてものは、イイ女に野暮いオトコと不釣り合いであれば、なんでこんなヤツがいいんだとアタマにきたり、不細工オンナとイケメンならばやってろよと舌を出したりと感情が動くもので、それが美女に男前だと、テレビでも見ている気分になり、自分はフレームの外に追い出されてしまった気持ちをタケシタはいつも持ってしまう。
 仲むつましいふたりの生活風景を想像力の乏しいあたまで思い浮かべ、大きなため息とともに虚脱感につつまれる。そして人生のこれまでの道のりと、これからの道筋を照らし合わせれば、いままでまともに女と付き合うこともなく、これから素敵な女性と巡り合う予定もありそうにもない自分に悲観し、仕事へ向かう気持ちもいっそう萎えていた。
 映画のワンシーンを演じるようなふたりを横目に、なんともやるせない気分を引きずりながらここまでやって来た。サッサと仕事を片付けようと軽トラからトラ柵を取り出していると、いつのまにか明らかに敵対心を目に灯した団体に囲まれていた。
 人は逆境に立ち向かう姿に感情移入しやすい。弱い立場の人間ならば余計にそうなりやすいのは、自らの境遇と重ね合わせるといったところか。体制側が造って管理している道路や歩道が、そんな自然の小植物の抗いを受けていれば応援したくなるのはわからないでもない。
 一生懸命に生を得ようとしているそんな健気な植物を撤去しようとしているタケシタは、あきらかに体制側の人間であり、網にかかった獲物のごとく反体制グループの毒牙にかかり、大きな反発を一身にあびている。
 自分の家の庭先に繁っている雑草ならば、親の敵のようにして容赦なく引き抜くはずなのに、歩道のレンガの隙間に芽生えた植物に優しくなれるのは、どんな心の棲み分けをしているのだろうか。世の中にはそんな偽善があふれている。メディアが取り上げれば数をタテにして、ますます盛り上がっていく。数は正義になる。それがどれだけ恐ろしいものか知っている年代の人であっても、こういった心温まる話にはコロッと、こころを持って行かれる。
 タケシタはそんな大勢の正義の味方を向こうにまわし、絶望的状況にあった。誰だって面倒な仕事はご免こうむりたい。できれば自分だってそちら側にまわり、芽吹かせようとしている小さな命を守ってやりたいと腰も引ける。
 役所から仕事を貰うために使い勝手のいい便利屋のように立ち回り、次の声がかかるように愛想と、季節の贈り物をかかさない。そんな立場の自分がこんなことで寝返るわけにいかないと思いつつ、そういえばこのごろやたらと面倒な仕事が増えてきたと思い起こされる。キリギリスが眼鏡をかけたような担当の上から見くだす顔が、さらに憎らしく思い出された。した手にでるほど自分の立場を危うくしているのではいかと、いらぬ心配が現実化してしまった。
――あのヤロウ、こうなるって知ってたんじゃないだろうな?
 口ではどんな小さな仕事でも、面倒な仕事でもやるので仕事を回してくださいと懇願するがそれも程度問題で、トラブル処理も兼務なら工賃に上乗せしてもらわなければ割が合わない。
 これからタケシタは対抗する声を制し、植物を守ろうとする正義の味方たちを蹴散らし、レンガを外して、土を掘り、植物を取り除き、市指定のゴミ袋に放り込んで、あと地に除草剤をこれでもかと撒いて根絶やしにして、土を戻し、きれいにレンガをはめ込み、なにごともなかった平常の歩道に戻さなければならない。
 普段ならなんの造作も他愛もない作業だ。それなのになんの因果か多勢に無勢は見ての通り、たったひとりで徒党を組んだNPOだか、市民団体だかに立ち向かわなければならい。自分こそがレンガの下敷きになっている、か弱き命ではないかと哀願し、同情を買いたくなってくる。
 暴言を浴び続けているタケシタは、廃棄せずに他の場所に移すだけだと、簡単にばれるようなウソをついぐらいしか回避手段を思いつかいない。気が弱いタケシタが大勢を相手に、腹芸を見せられるはずもなく、乾いた口や、詰まる喉で、しどろもどろになりながら説得しても信頼性はゼロである。
 移植と言っても簡単にできるわけもなく、そこの管理者と交渉して必要であれば費用が発生するし、運送料も余分にかかる。ただでさえギリギリの利益で請け負っているのにそんなことをしていればアシがでる。希少植物であれば受け入れ先もあるがそんなうまい話があるわけもまなく、この場が丸く収まりさえすればサッサと手離れして廃棄するつもりだ。
 
人だかりが目を引き、関係のない通りかかりの者まで面白半分で一緒になって騒ぎはじめたから始末に負えない。その中には退去する代わりに何か貰えるのではと期待する物乞いまがいなヤツらもいて、タケシタを囲む人たちはそれ自体がまわりの迷惑になっていることなどお構いなしに、正義・正論をゴリ押しして勝手な振る舞いをしていることに正気でなくなっている。
 世の中には多くの仕事があり、こういう仕事も必要なのだと寛容にはなれない人は多い。自分がしてきた仕事がどれほど高貴で、誉れ高いものだったと信じて疑うことなく、自分たちが仕事をするうえで、一切自然に害を加えなかったなどありえず、小さな生命の芽生えと引き換えに、自分たちの必要以上の快適な生活を支えてきたはずだ。それともその自覚があるからこそ、償いのためにこんなことをしているとでも言うのか。たとえそうであってもひとりでは何も言いださず、同じ意見を持つ賛同者が増え、ようやく行動を起こせるぐらいのやわなムーブメントなのに。ついでに野次馬まで加勢して。
 誰もひとりでは世界の貧困をなんとかしようとも思わない。自分ひとりの範疇に収まらないとき人は無関心になれる。それがたったひとりの不幸な人間がフューチャーされると、こぞって人々は手をつなぎ支援をもとめ、そのひとりのみを不幸から救うことに満足し、それ以外は見えない世界だと割り切る。ひとりだけが幸せになり、そのために隣の不幸な人がもっと不幸になっても、誰の手も差し伸べられずに、誰に知られることもなく、この先も生きていようとも、ひとりを幸せにした達成感だけで手を取り合った人たちは満足感を得ることができる。
 とどのつまり正義なんてものは自己都合で自己完結でき、できれば世間の注目をあび、目に見えるものだけを救うことが望まれている。それはある意味、体制側の思うツボなのではないか。彼らは只、自分より不幸な何かを助けたいという欺瞞に従って行動し、快感を得て、少しの良心と引き換えに、多くの悪行を正当化してしまっているだけなのだ。
 それでは見えているもの以外は見えていないに等しいはずなのに。
『自己は結果であって要因ではない。誰もがそうであり、多くの人々が自分の人生を悲観している。結果だけを見て、うまくやれていないと自分を責めている。その要因がどこにあるのかとは考えない。アナタの話しを聞いてくれる人がいる。アナタを勇気づける人がいる。アナタを必要としてくれる人がいる。アナタと一緒にいたいと思う人がいる。それだけで充分なはずなのに、もっと大きな報酬を得る結果を望んでいる。言葉の重みも深みもそれぞれの神がのたまう言葉と同じだったなら、その浸透力も変わっていたはずだ。計算がなく、温かみがあり。利益が伴はなくとも、思いやりがある』
 タケシタも薄々、感づいていた。ヤツらはひとりでは何もできない、ましてやひとりで大勢に立ち向かうことなど絶対にしない。そう思うと自分の置かれた境遇が少し異質に感じられてきた。こんなときはケツ捲くって逃げるが勝ちだと小さい頃から思ってきたし、それでここまでなんとか凌いできたという自負もある。逃げるのは決して恥ずかしいことではない。それで最後にしてしまうより、いつかやりかえせるチャンスが残り、自分の目で確かめることができる。ただ今回は、あえて一歩踏み出してみようと、妙な勇気がわいてきた。
――うーん、トイレだって一歩前に。人生だって一歩前にでれば、これまでと違った景色が見れるってことだろ…
 そうすれば、ひとつの経験値となり、うまくいこうが、ダメであろうが今後の経験則にはなるだろう。
 なにやら気持ちも落ち着いてきて一歩前に足を踏み込んだ。いつだって常識はずれな一手が世界を動かす。思いもよらない行動が多くの人々の意識を変える。
 予想もしなかった相手の行動に大勢の力も分散した。後ずさる先頭につられて全員が一歩後ろに下がり、何人かは足を引っ掛け将棋倒しとなった。これだけの多人数を相手に挑んでくるとは思わず高をくくっていたものだから、リーダー然の男も想定外の行動にすぐに対応できず、まわりの反応をうかがうのみだ。
 一方、時を得たりと思ったタケシタは、これを逃せば二度と好機は訪れないと、一気呵成にくびきを入れてレンガをはがしはじめた。
 悲鳴だか、雄たけびだかがあがるも、誰もがタケシタの行動に釘づけになっていた。反対していながら、いったい何が出てくるのか気にはなっていたのだ。多くの目が、レンガがはがされたあと地を覗き込んでいた。大きな茶色い表層が現れ、やはり街路樹の木の根が伸びてきたのかと、少々当たり前の結果になんとなく落胆の色がうかがえる。あーあっ、という声は掘り起こされてしまったことを憂うより、出てきた植物がそれほどたいしたもの、つまりは声を上げてまで、みんななで守ってあげるにふさわしい風体ではないことの方が大きいようにも思われた。
――なんだよ、しょせん単なる烏合の衆かよ。ひとの不幸は蜜の味とか、怖いもの見たさとか、せいぜいその程度の好奇心なんだろ。出てきたモノがなんの変哲もない、ありがちなモノだからガッカリするってえ、誰だって歴史の証言者になることを望んでも、そううまいこといくわけねえんだよ。
 人々の甘い夢を粉砕するつもりで、タケシタは茶色い物体を根こそぎ掘り起こそうと、クワを力いっぱい土の中に放り込む。テコの応用で、力を入れると、茶色の物体がその容姿を白日の下にさらした。
「なんなのよ、アレ!?」
 顔をしかめた女性が、いかにも汚らしいもの見たようにして声を上げた。
 夢を見るのは誰にでも平等に与えられた権利だ。かわいい植物が健気に生きている姿を見たかった。そうしてみんなで心が温まり、そんな植物を排除しようとする作業員を非難しようと手ぐすね引いていたはずなのに、残念ながら現実はそれほど予定通りに進まない。でてきた植物は、たぶん植物だと思われる物体は、見るも気色の悪い『キノコ』? そう、キノコ的な菌糸類の、そしてそれは異様に大きな、どうみても可愛らしいとはかけ離れた、いってしまえば吐き気をもよおすぐらいのグロテスクな物体が人目に晒されていた。
 ひとの心は移ろいやすく、冷めやすい。昨日までの親友が一瞬のうちに敵になるのは珍しくはない。熱愛して添い遂げた結婚相手であってさえも細かい日常の差異が、いつのまにか価値観の違いとなり、離婚の大義名分となっていく。そもそも初めは自分と異なる価値観に魅力を感じていたはずなのに、同じ理由が別れる理由に成りえるは言葉は使いようというやつか。それならば予定調和で迎え入れ、当人同士が納得できていれば、まわりがとやかく言ってもはじまらない。
 なんにしろ、さっきまでお菓子の家がこの世界に存在していると信じて疑わなかった人々は、手のひらを返すように眉間にシワを寄せ、一刻も早くその奇妙な物体を視界から取り除いて欲しいと訴えかける目に変わっていた。
 ウサギを見れば、やはりウサギであって、ウサギという言葉には、すでに可愛らしいというイメージが付いてまわる。ゴキブリは、どうしたったゴキブリであり、口にするだけで顔が歪んでくる。ウサギという動物がもともとゴキブリという名前であったとして、人々の印象にゴキブリという言葉自体に可愛さを感じてしまうのなら、これほど滑稽な事実はないだろう。
 イルカの数だって、クジラの数だって、それを利用したいひとたちが都合よくでっちあげた数字にすぎない。事をうまく運ぼうと考えた故に導かれた数字が、良識も愛情もましてや正義があるわけでもない。あるのは権利を守ろうとする私利私欲だけだ。
 相対的な愛情も、数による守護も、これまでの常識の中で人が種族を保持していくために刷り込まれていたことが、自らの安泰が確保されれば、それを他に求めている欲求のはけ口と変化していることに気付けない人々の暴走なのだ。
 ウエッと、吐き捨てる言葉とともに、まずは野次馬的に集まっていた通りがかりの人々が遠巻きに去っていった。高まった熱は容易にまわりに感染し、しばしそれは人から冷静な判断を奪い取ってしまう。そうであれば冷静な判断の所存こそが不確かでもある。
 最初からいた団体は、目にしたものが毒キノコのような得体の知れないモノで、自分たちが意を決して守ろうとしていたものがこんなとんでもない植物と知っても、振り上げた手を下ろすところも見つからずに、ただお互いに目をくばせ、だれの責任にするべきかと腹の探り合いをしている。
 自分からはなにも行動を起こさず、波に乗り、風に身を任せる。信念のない者は先導者の熱に侵されて正義を大義として、それが弱者だろうとなんだろうと、敵として叩きのめし、踏みつけ、ひざまつかせなければ気が収まらないところまで突っ走ってしまう。突っ走ったあげく、天と地がひっくり返れば、自己保全に走ることしか考えられない。波が止まり、逆風が吹けば関係者外として安全地帯に身を置く。自らを守る手だてをなくした者は、大勢の中のひとりとして秘匿性を発揮する。
 掘り出されて天日にさらされた物体は、あと数時間もすれば乾燥して半分ぐらいの大きさになってしまうだろう。ただ、空気に触れたことでなにやら悪臭を放ち始めたものだからたまらない。このタイミングを逃すまじと思った連中は鼻をつまんだり、せき込みながら口を押さえて、その場を離れていった。
 その場にひとり取り残されたかたちとなったタケシタは、それは本来の自分の作業に戻っただけで、ひとときテレビのニュースで取り上げられる世界に放り込まれていた感覚にとらわれ、まさか自分にそんなことが起こるなんて思いもしていなかったのに、潮が引けばなんだかものたりないような気分にもなった。
 ますます悪臭を放つキノコ的な物体を古新聞でくるみ、市指定のゴミ袋を2枚重ねにして突っ込んだ。大きく開いた穴にこれでもかと除草剤を撒いていると、どちらかといえばこの行為の方が非難されてしかるべしではないだろうかと苦笑いする。レンガをはめ直して水平を出し、養生をほどこして作業は終わった。
 軽トラの荷台にトラ柵や工具とともに、いまや粗大ゴミ以外の何物でもないヤツらの夢を積み込んでいると、焦った様子のクルマが後ろからクラクションを鳴らすものだから、手を挙げて軽トラを移動させる意思表示をする。
 人が必死になって守ろうとしているものなんて、実体を見ればしょせんそんなものなのだ。そもそも人間が自然の何かを守ろうなんておこがましい話だ。生きてく上だけではなく、より快適な生活を求めていく中で、現在の環境が成り立っているわけで、被害の一部分だけを切り取って、それをさも自分が救わなければならないとする錯覚か、もしくはせめてもの懺悔なのか、どちらにしろ身分不相応な話しだ。
 タケシタは移動した車内でタバコを一服ついた。特別な一日であり、しばらくは話のネタになるような出来事で、数少ない友人にしばし感嘆を浴び、悦に浸ることもあったがそれだけで終わった。学習することのない人々の、それも単なる人生の一日。
 今日もまた人生の一日。
 これもまた人生の一日。