初めて勤めた仕事で、こんなにいろんな経験や、体験ができたのも、おれはつくづく運がいいのか、悪いのか、、、 悪いだろな、ふつうは、、、
簡単な理屈にさえ気づかなかったおれがドンクサいのか、実は気づいてないことにしておきたかったのか。小さな問題に目を背けていたら、いつのまにか大きく成長して、自分では抱えきれなくなり、逃げる場所さえもなくなっていたなんてよく聞く話だ。
自分から率先して逃げ回っていた結果だとしたら、もとに戻ってやり直したくなるのがおれの浅はかな考えで、じゃあやり直したからってうまくいくとは限らず、もっと悪い結果になることだってあるし、どちらにせよ、まわりからは悪い評価をいただくだけだったりする、、、 ネガティブ思考全開、、、
しょせんそんなもんだと、日々起こりえる小さな問題は、数えているうちに片手が埋ってしまうし、それに対する新たな手立てや、打開策がそうそうに浮かんでくるはずもないし、絡め取るように、この先にいくつも待ち構えたりするから不安なまま、よけいに不幸を呼び込んでいく。
おれを含めて才能もなく、機転も利かない平凡な人間が、世の中に組み込まれて生きていこうとする限り、逃れられない決まりごとだって認めるしかないじゃないか。そうじゃないひとたちにはこんな考えさえ浮かんでこないってわけだ。
おれがこれからのスタンドの成り行きや、そこで働く人たちの人間描写、および自己分析にあたまを巡らせているのは、朝比奈の来店を待ちわびて、心ここにあらずの状況だったからで、、、 心がここになくても、大きな世話や、保身はできる、、、 ただ、その精度がどれほどのものかは、さだかじゃない。
オーナーへのあいさつもすんだくせに、いつまでも帰らないのは不自然さ丸出しで、やっぱりマサトが、帰んないのか、と無粋なこと聞いてくるから、おれはバイト中はほとんど事務室で休憩することなかったから、せめていまぐらい楽しませてくれと、それらしいことを言っておいた。
オチアイさんは曖昧に笑って、まあいろいろとあるんだろ。って含んだように言ってくる。このひと、見てないようで、結構見てるからあなどれない。おれも、ええまあ、とあたりさわりのない返事して、話がふくらまないようにしてしまう。
「しかし、残念だったな。ホシノには、おれのあとを継いで、クラウンの洗車まかせるつもりだったのに。永島のことがあってから、もう洗車の予約も入らなくなっちまった。風評被害と言ってもいいぐらいだが、オーナーがああいう性格だからな」
恨み節を語るオチアイさんが言いたかったことは、傾きかけた船をムリヤリ元に戻すのは、もう無理なところまで来ているって意味が含まれているように思え、教えられた技を一度しか披露できなかったのは、よかったのか、悪かったのかと問えば、一度の成功で、その先が約束されるわけじゃなく、大きな失敗をしなかったと思えば穏便に済んでよかったと言えるわけで、こうして日本の伝統は継承されずに過去の遺物となっていく、、、 おれが継いだ時点で、技も伝統も途切れているな、、、
客が来ないからって、いつまでも事務所の中にいるわけにはいかない、、、 らしい、、、 グズグズ言ってるマサトの首根っこをつかまえて、オチアイさんが引っ張っていく。おれはその様子を苦笑い、、、 のフリ、、、 で、手をあげて見送る。
朝比奈がスタンドにやってきたのは、正午に近い午前の時間帯だった。今回は宣告を受けていたので、驚くことはなかったけど、それゆえ変に意識が強くなってしまい、朝比奈を見とめてから、彼女がスクーターを止めて、ライダータイプのヘルメットを外すまで、どんふうに待っていればいいのか決め切れずに、目はほうぼうに泳ぎまくるし、意味もなく給油機の状態を確認したりしても挙動不審を見透かされる。
ヘルメットを外すとあたまを振って髪の毛を自然にまかせ、そして前髪をかきあげる。そんな一連のしぐさって、本人にとっては日常の行為なんだけろうけど、やっぱりカタにはまってるし絵になってるしで、おれの不審な行動とは雲泥の差だった、、、 比べるも無意味、、、
「どうした? どっか調子悪い?」
調子悪いのはいつものことで、アタマがうまくまわってないってのに、クリッ、クリの瞳でのぞきこまれたら、ますます心臓が跳ね上がった。
昨日だってこれぐらいの距離で話しをしてたのに、それが屋外で、ひとめがあるかと思うとまた格別なのは、おれがただ周囲の目にさらされている感じかたが一方的で、イイ格好しようとする下心のせいで心拍数の上昇が抑えきれないからだ。
行き交う人はもちろん、バイトの仲間、、、 元仲間、、、 もみんな、おれに注目しているように思えるから、ますます朝比奈をセイシできなくなるし、自分の欲望もセイシできなく、、、 セイシは活発なんだけど、、、 そういうオゲレツな韻をふむ余裕はある。
「ああ、そうなの」いえ、そんなことありません!
朝比奈は、何もわかっていなさそうで、その実、おれの心の揺れを楽しみながら、スクーターのキーを指先に引っ掛けて、おれがキーを受け取って、ガソリンを入れはじめるのを待っている、、、 こないだキョーコさんに同じことされた、、、 イヌにエサやるみたいなもんかな。
おれはもうバイトではないから本当は給油しちゃいけないんだけど、みんな黙認してくれるらしく、おれのひと夏の美しい思い出作りに力添えしてくれるのか、消えゆくスタンドでは規則もないってことか。
オチアイさんが、なにやらわめいているマサトを羽交い絞めにしている、、、 単に楽しんでるだけなんだろうな。
おれはキーを受け取り、ちょっとホースがからまっちゃってさあ、なんて絡まりそうもない給油ホースを指差してしまった、、、 からまっているのはむしろおれの脳内神経とか、股間あたりとかで、、、 からまるほどデカクないけどな、、、
「そう。それは大変だったね」えっ、ええ、まあ。
朝比奈はなんの感情もこめずに同情してくれて、そんなおれは自分の任意の心拍数で脈打つこともままならず、浮足立ったまま、ぎこちない動きで手順も段取りもむちゃくちゃな、この夏、バイトしてたとは思えないほど、不器用丸出しで給油をして、自分以上を出そうと無理すればこうなる典型的な見本になっていた。
「スゴイね。それだけ難しくやる方が大変そうなんだけど?」
いやあ、それほどでも、、、 ほめてないって。
「ほめてないけどね」
朝比奈は乾いたカリフォルニアの空のような笑いかたをして、、、 カリフォルニアの空って乾いてるのか、、、 その場にしゃがみ込むと、ニョッキリとはみ出した健康的な、、、 おれにとっては不健康極まりない、、、 両の太ももをかかえこんでいる。
「おかあさん… 何か言ってた?」
最初はなんの話なのかよくわからなかった。朝比奈の言うところのおかあさんがいったい誰を指しているのかさえ。
馬鹿みたいに口を開いているおれを見て、しょうがないなーという表情が、、、 それがまたかわいいいんだけど、、、 ありありの朝比奈が、「昨日、玄関でいいですからって言ったら、ずいぶん恐縮してたでしょ。あとで何か言ってたんじゃないのかなあって思ってね」と言ってはじめて、ようやくおれの母親のことを話していると理解した。
照れ隠しもあって、おれは早口で、だけど余計なことを言わないように気をつけつつ、朝比奈がちょくちょく家に顔出してくれるからうれしいんだってさ、と自分に都合の悪いことははしょって話していた。実際、おとこばかりの家で、女の子が欲しかったなんて話も聞いたことがあるし、でも一人っ子のおれとしては妹なんかいたらめんどくさいなぐらいにしか考えてなかった。
「えっ、ホント? そんなこと言ってくれたの。よかった。私ね、なんだかホシノのおかあさんとは波長が合いそうだと思ってたの」
そりゃそうだろ、波長があうどころか、同種だからなと、思わず口を滑らせそうになりながらも、あいかわらずの持論を引っ張って、朝比奈がおれの母親を『おかあさん』と呼ぶたびに、皮膚の下で質のいい快感が流れていくのを感じてた。
なんだかその言葉を受けるたびに、二人の距離が縮まっていく気がするだなんて、勝手に思い込んでいたい。あんなに口の悪い、自己中心的な母親を『おかあさん』と呼びたいのならいくらでもどうぞ、、、 もれなく不詳このわたくしが付いてきますけど、いかかがすか。
「なにバカ言ってんの。ハナシが飛躍しすぎでしょ」
そう言いながらも朝比奈の顔は満足そうに見えた。おれもようやく落ち着いてきて、スクーターの給油を終えた。この絵柄だけを切り取れば、ある夏の青春のひとコマ、もしくはポストカードの写真、もっと言えば映画のワンシーンのようだと、自分でも悦に入ってしまった。
朝比奈が主人公で、おれは単なるスタンドの店員役であったとしても、同じ絵柄に入れただけで嬉しいもんなんだって。もしこの先おれの人生がパッとしないモノだとしても、、、 きっとしないだろうけど、、、 このシーンを思い出すたび、ああおれにもいい時代があったんだなって懐かしみ、もしおれの人生が成功に満ち溢れて、、、 いや、ありもしない未来を語るのは止めとこう、、、
今がよけりゃあ、それはそれで幸せなんだって思っておいた方がいいんだから。
「あのさ、ホシノ。ちょっとつきあってくれない? これから」
おれの脳が、夏の暑さと、朝比奈との接近で沸点に達するほど熱を帯びているから、勝手に『つきあってくれない』が、いまからどこかに連れ出そうって意味じゃなく、『おつきあいしてくれますか』に変換されて、脳みそがとろけ出した、、、