「ちょっと、あんた」
知らないお年寄りに呼び止められた。何を言われるのか気が気でなく、固唾を飲み込むスミレだった。アンタなんて呼ばれたのは初めてだし、スミレはまだ9才だ。
「ちょっと、これ写したいんだけど。どうすりゃいいんだね」
コンビニの中でコピー機の前で、そのお年寄りは訊いて当然と言う風情でスミレに協力を求めてきた。訊いて当然の相手は店員であるはずなのに、たまたまそばにいたからなのか、子どもということで話しかけやすかったのか。
小学生であるスミレはこんな大きなコピー機を使ったことはない。家にはPCにつながっているプリンターはあるけれど、いつも父親がプリントしてくれているので、自分で扱ったことはない。
そもそも、近ごろでは必要であればスマホで写真を撮るなり、検索した情報をブックマークだの、スクショすれば十分事足りるので、コピーをする機会も少なくなっていた。紙をムダに使えば母親から小言をもらう。
スミレは大型の複写機を覗き込んでみた。画面の文字を読もうとすると両手をついて少し背伸びをする必要があった。そのお年寄りも同じように少し背伸びをして、スミレの目線の先に目をやるが文字が小さくて読めないことを知り元に直る。
一通り目を通せば、どのような設定でコピーが何枚必要かを打ち込めば必要な金額が明示され、その金額を投入するとコピーがはじまるようであった。
お年寄りはA4の紙を2枚、スミレに押し付けてくる。達筆な文字で縦書きされていた。何が書いてあるのかよくわからないし、まじまじと読むのも失礼かとそのまま受け取り、挿入口に上向きにしてセットした。
「あの、なんまいひつようなんですか?」
スミレにそう訊かれてお年寄りは思案しはじめてしまった。
店員のひとりはレジで並んでいる客をさばいている。もうひとりは入荷された多くのパンを陳列棚に並べるのに集中している。店員に声を掛けたいところだが何か時期を逸してしまっている。
お年寄りは天井を見上げ、指を折りはじめた。途中で首を振ってはもう一度はじめから指を折る。これは時間がかかりそうだとスミレは、本来の目的である雑誌コーナーに目をやった。今日発売の月刊誌が置いてあるか確認する。角度的に見づらかったがお目当ての雑誌はあるようだ。
時間がかかりそうだったので、その雑誌をキープしようと複写機の前を離れると、スミレは腕をがっしりとつかまれてしまった。細く固い指は乾燥してシワだらけで枯れ木に腕をひっかけたような感触だ。
「31だか、32なんだが、32にして1枚余ったらもったいないし、31にして1枚足りないのも都合が悪い。ちょっと確認してくるから待ってってくれ」
1枚余分にコピーしても10円しか変わらないのだから、訊きに帰ってまた来る労力を考えれば、どちらを選ぶか比べるまでもないはずなのに、お年寄りはスミレに用紙を持たせたままコンビニを出ようとする。
これではスミレはこのお年寄りが戻ってくるまでここで待っていなければいけない。雑誌を買ったらすぐに友達のアキちゃんの家に行ってふたりで読む予定をしている。
確認するならここからスマホで連絡とって訊けばいいのではないか。いったいどこまで訊きに戻るのかも定かでない。
「あのー、おばあちゃん。スマホは?」
お年寄りは、怪訝な表情で振り返った。スミレはなにかいけないことでも言ったのかと後ずさった。
お年寄りだからっておばあちゃんと呼んではいけなかったのか。もしかしたらジェンダーレスで、決めつけて呼ばれることに抵抗をもっているのか。誰かが権利を得れば、それに大勢が従属する必要があり、それはお年寄りも子どもも巻き込んでいく。
「あんたに、おばあちゃんと呼ばれる筋合いはないよ。あたしゃねえ、カズっていうんだ」
そう来たか。スジアイの意味はわからないけど、おばあちゃんて言葉に抵抗を感じているのは伝わる。アタシだってアンタって呼ばれているけれど、それがスジアイがないのかはわからない。
「あっ、すいませんカズさんっていうんですね。あの、アタシはスミレって言います」
カズっていう名前が男女のどちら側の名前なのかピンと来なかった。それはそれでちょうどいいかもしれない、性別を気にする必要はないのだから。
そう言えば、なんだかサッカー選手に同じような名前がいたような気がする。キングだったか、プリンスだったか。それは今日買う雑誌の表紙になっているアイドルグループと、こんがらがっていた。
「はあ、すみれ? ”すまこ”じゃなかったのか?」
「”すまこ”? ああ、スマホは名前じゃありません。持ってませんか?」
「簀巻きなら家にあるが、そんなもの持って出歩く者はおらんだろ。近ごろのコは、持って歩くのか?」
すまきと言われても何のことかわからず、どうやら持ち歩くモノではないという知識を得たが、それが今後なんの役に立つのかもわからない。
「スマホは電話とかメールとかする機械ですけど」
スミレもスマホを持っていれば見せて説明できるのだが、あいにく親の許可がもらえていない。スマホを持っていると時間が早く過ぎて早く年を取ってしまうと言われた。先生に訊いたら、それはスマホをいじっているとあっという間に時間が過ぎてしまう物の例えだと言われた。
クラスのコはほとんどスマホを持っているので、そうするとみんな自分より早く年を取ってしまい、みんなが中学、高校と進学していくのに自分だけ小学校のまま取り残されることになり、だったら早く時間が過ぎようとみんなと一緒に年を取った方がいい。
それを友達に訊くことはできない。
「電話ぁあ、いまどき電話に出るヤツぁおらんわ。要件あれば留守電に入れて、返事も留守電。外からじゃ返事が受け取れんだろ」
どうやらそれは固定電話のことを言っているらしい。スマホでも留守電に入れればいいはずなのに、そこは範疇に入っていないのは、すなわち持っていないからなのだろう。
カズはそう言ってスタスタとコンビニを出ようとする。用紙を手に戻したスミレもしかたなくあとについて行く。雑誌は諦めて、アキちゃんには明日あやまろう。このままあの老人を放置しておくわけにはいかなくなってきた。
どうするか判断しなければならない時、スミレは待つより進むことを優先している。それは意識ているというよりもカラダに沁み込んでいて考えるよりカラダが動いていく。
公園で空いているブランコに乗ろうか躊躇していると、後から来た子に取られた。アイスクリーム屋さんでどっちの列に並ぼうか迷っているうちに、どんどん行列が増えて買うのをあきらめた。
決まって母親がすぐに決めないからそうなるんでしょと、たしなめてくる。次第に悩む前に行動するようになった。だからと言ってすべての選択が良い結果をもたらすわけでもなく、あとからなぜこちらを選んだのかと肩を落とすこともある。
それでも、やらずに後悔するより、やって後悔するほうがいいに決まっている。アキちゃんには文句を言われることは決まっており、それはもう考えないようにした。
カズがドアを出ようとするのを遮るように、ひとりの若者が入店してきた。身体を引くカズを邪魔者あつかいで横切っていき、手にしたペットボトルをゴミ箱に投入した。中にはまだ飲み物が残っていた。
カズの顔が歪むのがわかる。行く手を阻まれたからか、邪魔者扱いされたからか、飲みかけのボトルを捨てたことか、そのすべてか。スミレはカズがその若者に何か言い出すのではないか気をもんだ。
カズは食べ物を平気で捨てる行為にイラ立っていた。そしてそれは何も食べるものがなかった時代を生きていなければ、どんなに口を酸っぱくして問いただしても伝わらないこともわかっていた。
食べ物を粗末にするな。目がつぶれるぞと、さんざん言い聞かされたものだ。それなのに、生産過剰になったミカンを値崩れ防止のために廃棄している。
あの農家の人たちの目はつぶれたのだろうかと訊けば、よそ様のすることに文句つけないの。ウチはウチ、ヨソはヨソでしょと、都合が悪く説明できない時の常套句を持ち出すのだ。ウチがヨソと関りがないうちはそれで通る話も、関わらざるを得なくなれば、そうは言ってもいられなくなる。
ヨソはヨソだ。カズはそう自分に言い聞かせた。正義のミカタ気取りでこの若者に注意してどうなるのか。今の行為がこの先の自分に返ってくることを彼は知らない。ハラが減ろうが、のどが渇こうが何も飲むものもなく、飲み込む唾も出ないなかで、あの時捨てた飲み物を思い起こして後悔することはないだろう。
簡単に飲み物が買える前提は、消費者の必要量に関わらず、一定の分量を提供することであり、それが多かろうが、少なかろうが、供給者には知ったことではない。個々人にあわせた商品をラインナップすれば、どこまでもコストがかさんでいく。本質はミカンを廃棄した農家となにも変わらない。
スミレは捨てられたペットボトルを見てカズとは別の不満を覚えていた。家でペットボトルを捨てるとき、キャップをはずして、プラゴミに捨てる。ラベルを取って、中身を軽く洗浄して、潰してから捨てないと、母親に怒られた。
それなのに、外で飲んだ時は、誰もがそのままゴミ箱へ捨てている。同じゴミ捨て場に行くのにその差がどうなっているのか理解できない。
きっと世の中で出るペットボトルの廃棄は、家庭で捨てられるモノより、外で捨てられるモノの方が多いはずだ。路上に捨てられているモノだってある。誰かが自分の代わりにそれらの面倒な処理を行っているのか、そもそもしなくても廃棄できるのか。そんなことを母親に訊いても余計に怒られるだけだ。
「便利さがもたらすものはな、すべて自分たちの首をしめることとして還ってくるんだ。それは将来のことじゃない。いますぐにだ。それを知らずに誰だって便利を享受して、同時に命を縮めておる。哀れなもんだ」
カズはスミレにそう言ったのか、独り言としてつぶやいたのか。スミレはペットボトルをそのまま捨てると、命を縮めてしまうのか、そうすると、自分はまわりより時が経つのが遅く、長生きできるということになりますます困ったことになる。
竜宮城から還ってきて玉手箱を開けた浦島太郎をスミレは思い浮かべる。自分にとって玉手箱を開けるという行為はなんなのか。開けた途端、幼いはずの自分が、自分より大人になった友達と一気に同じ年になってしまうう。そうすれば過ごすべき時間を飛び越えて失くしてしまったことになる。そんなものを手にしたくはなかった。