コンビニを出たカズは、すぐ目の前の道路を横断しようとしている。右を向けば3区画先に、左を向けば2区画先に信号がある。そこに行こうとしないのは、目指す先が真っ直ぐ行ったところにあり、すこしでも遠回りをしたくないからだろう。
一塁ランナーが盗塁しようとピッチャーに揺さぶりをかけるように、ジリジリと身を進め、クルマが来るとサッと翻す動きを何度か繰り返している。
そう表現するほどカズの動きが素早いはずもなく、端から見ればクルマが来るたびにカラダを揺らして転げそうで、運転手にとっては危険このうえないであろう。なんどかクラクションを鳴らされている。
これがさっきカズが言っていた、誰かの便利は、命を縮めるんだということなのかと、スミレは感心する。クルマを使えば便利だがクルマを避けて通るには死を覚悟しなければならないのか。いやいや、感心している場合ではない。いつまで待とうと渡れるはずはない。
「カズさん。あぶないよ。信号のところまで行ったほうがいいよ」
まさかコンビニに来た時も、ここを横切ってきたのだろうか。だとすれば、それは海が避けて渡ることができた十戒のように、奇跡が起きただけだ。
「機械と、人間様とどっちが偉いと思っとるんだ」
偉いとかという問題ではないのではないか。クルマを運転しているのも人間なんだし。そういう所のすみわけをするために信号があり、横断歩道があるはずだ。
「そうじゃなくて、ルールが決まってるんだから、ルールを守らないと」
クルマは一定の間隔をおいて右から左から通過していく。横断歩道もない場所で、先の信号が青になって走り出したクルマが、お年寄りを通すために止まるはずもない。カズは憤懣やるかたない顔つきになっていく。
「じゃあ聞くが、歩道を渡れば人は安全なのか。必ずクルマは止まってくれるのか」
カズがなにを主張したいのか、人が歩道を歩けば自動的にクルマが止まるとか、絶対に人にぶつからないようになっているわけではない。人間の常識を前提とした決まり事でしかない。
「そこに公平があれば、わたしも文句を言うつもりはないよ。機械に比べてひとはどうしたって弱い立場なんだ。その前提を放棄して、こんな意味のないルールばっかりつくって。あんなモノがこんなスピードで走る必要があるのかい? 渡りたい人がいれば止まって譲ればいいじゃないの。大回りして人を歩かせて奪われた時間の損失をなんだと思ってるだ。それこそアイツらのほうが止まったって、自分で取り戻すことができるだろ。人は走らなきゃ時間を取り戻せないんだよ。こんな年寄りに走れって言うのかい?」
スピードを出す必要はないと言っておきながら、止まった時間はスピードを出して取り戻せ、自分は走れないからと、言っていることが自分中心であるとわかっているのだろうか。
先日、母親に歩道橋を渡るように言われ階段を上りはじめると、母親はクルマの隙間を見つけて、往復二車線の道路を走って横切っていった。スミレは階段を上りながら、歩道橋を渡りながらクルマの流れが気になってしかたがなかった。
階段を下りて待ち構えている母親に、どうして一緒に歩道橋を渡らないのか問いただすと、私は大人だから大丈夫よと、何事もなかったかのように言われた。大人は大丈夫かもしれないが、もっと大人は大丈夫じゃなくなるサンプルが目の前にある。
自分は階段を渡らず時間を短縮したのに、自分を待っていることでその時間は無に帰して、道路を横切った行為は、せいぜい階段を上り下りする労力を使わなかったくらいで、それも日頃の運動不足からすれば行った方がよかったのではないだろうか。
スミレはあらためて目のまえを直視した。たしかに信号まで大回りして、あの先に戻って来るまでに多くの時間が消費される。まっすぐいけばそれがすべて自分の時間として戻ってくる。
朝の集団登校でも、危険だからといって、信号のある歩道まで大回りしているし、大通りでは信号があっても、歩道橋のあるところまで行って渡っている。
学校の行き帰りや、普段の生活の中でそんな時間をすべて足し合わせれば、10分ぐらいは日々そんな時間を費やしているはずだ。それがクルマの便利さを保つためのしわ寄せとなっているならば、なんだか理不尽だとスミレも感化されてきた。
さすがにカズもこの時間帯の交通量の多さでは、ムリだと悟ったのか近い方の信号に向かってトボトボと歩きはじめた。これが本当にトボトボなのでスミレでも簡単に追いつけてしまう。
「まったく、こんな老人が渡ろうとしてるんだから、止まってくれてもバチはあたらないだろうに」
まだあきらめずに、そうぼやくカズ。そういう時は老人を認めるんだと、スミレはさっきおばあちゃんと呼んで反発されていた。
スミレは想像した、例え親切なひとが一台止まってくれたとしても、反対車線のクルマも止まらないとどのみち渡ることはできない。二重の幸運がカズに舞い降りて、両方のクルマが止まってくれたとしても、そのあとに続くクルマは本意ではないだろうし、高い確率でクラクションを鳴らされるだろう。
その怒りが止まったクルマに向けられればいいが(よくはないが)、カズに向けられることだってある。いや、クラクションで済めば勿怪の幸いで、そんななか悠々と歩いていけば、直接罵倒をあびても不思議ではない。
自分がその当事者であれば、そんな事態をまねく当事者にはなりたくないし、自分に怒りが降りかかれば目も当てられない。
「 …だから、やめたほうがいいとおもうんだけど」
と、スミレが持論を展開すると、カズは歩を止めて振り返った。スミレはもどかし気にカズの後を歩いていたので、止まったカズのわきをそのまま通り過ぎる。いるべき場所にスミレがおらずカズはあたりを見回して振り返る。スミレはカズの挙動を首をかしげて見ていた。
「どうしたの? つかれた?」
カズは腰に手を当てて天をあおいだ。耳には通り過ぎるクルマの走行音が重なる。
「つかれたのは、カラダじゃない。気持ちだ」
なにやら急に詩的な発言をされ戸惑うスミレ。たぶん、休憩するための言い訳だ。
「まったく、世知辛い世の中だ。なんにせよ、誰かを憎んだり、誰かを貶めたり、誰かを不幸にすることを自分の生きる術としている。怒りや憎しみは大きな力をもたらすが、それは薬物と同じだ。危険な物質を自分自身で作り出して、苦しみをマヒさせて、快楽に変換しとるだけなのに」
最初のセチガライの部分で意味不明に陥ったスミレは、その先もぼんやりと難しい言葉の羅列だけが行進していく。
なんとなく、理解できたのはムカついて誰かにやり返そうと、その策を練っていると、どんどん自分が狂暴になり、そんな自分に歯止めができず、それで苦しむ誰かの顔を想像して喜んでいる。それがいかに危険で、無意味で、誰も幸せにならないとカズは言いたいのだろうか。
「でもさ、やられっぱなしじゃクヤしいじゃん。やられたら、やりかえせ。目には目を、ハニワ縄文時代でしょ?」
なにか違うような気がするがカズもよくわからないから突っ込めない。休憩を終了したのかカズはまたトボトボ歩き出す。スミレは今度は少し前を進む。
「だからだ。相手を恨んでやり返せば、また自分に返ってくる。それも、やり返したという実感が優越感となればなおさらで、屈辱を味わった向こうもその倍のチカラでやり返してくる。そうすれば、争いは永遠に終わらん。どこかで水に流す寛容さがなけりゃな」
倍返しすれば、またその倍返しされるということなのか。クラスのリョウスケ君は、同級生に嫌がらせを受けていた。最初は面白半分で鉛筆や消しゴム、ノートを隠してからかっていたのが、一向に文句も言ってこないので、それがエスカレートして上履きや、体操服、果てはカバンや、机が教室の外に捨てられるまでになった。
さすがにそれでは先生の目に留まり、同級生をたしなめながらも、どうしてお前も言い返さないんだと、呆れたように言った。リョウスケ君は次の日から学校に来なくなった。
争いは終わったけど、それは争いにもならず一方的な攻撃を受けただけで、カズの言うところの寛容だったのかわからず、みんなはそれで幸せになれたのだろうか。
スミレはそのことを思い出すと胸が痛い。直接的なかかわりあいがなくても身近に起きた事件に対して、無力な自分がそこにいるだけで、自分が役立たずでダメな人間である烙印を押されてしまった。それを友達に相談すれば、その友達も役立たずだと言っているのに等しいわけで、おたがいになかったことにしている。
「それじゃあ訊くが、もし、リョウスケ君がやり返して、こんどはその同級生が学校にこなくなっても同じことだろ。争うということはそう言うことで、一度起きた闘いは永遠に続いていく、しかも憎しみを倍増しながらな。やり返したからってスミレの心が癒されるわけじゃない。もしくは、あのおとなしかったリョウスケ君があんなふうになるなんてと、もっと衝撃をうけたかもしれん」
渡るべき信号は赤だった。カズはその赤く灯る信号を見つめていた。今日は曇りなので信号が見やすい。そこまで言えば話はどこまでもふくらむわけで、もしもの話しになんの正当性はない。
「そうだけど… 」
信号が青に変わり、カズとスミレは左右を順番に見て渡りはじめた。カズは相変わらずと歩みが鈍いので、青のうちに渡りきれるか心配になる。さっき、道路を横切ろうとしたときに見せた、ダッシュの構えは何だったんだろう。本当にダッシュする気があったのだろうかと疑問でしかない。
青が点滅しはじめるとき、カズはまだ中間地点だった。スミレは手を引いてカズを急がせる。
「だいじょうぶだ。老人が歩いとるのに走り出すヤツはおらせんて」
走り出すヤツはいなくても、怒り狂うヤツはいる。自分の時間を理由もなく奪う者は、老人だろうがなんだろうが誰も許すはずはない。さっき自分でも怒っていたではないか。
信号が赤になってもあと1メートルぐらい残っていた。――はずだった。――
信号が赤になったときに手を引いていたカズに導かれるように、遅れ出したスミレが引っ張られ、あわててジャンプして舗道に飛び乗った。振り返ると通り過ぎるクルマの運転手が舌打ちをしているのが見えた。その行為にやっぱりと思いつつも、なんだか普段より大きくジャンプできた自分に驚いていた。