private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(コンビニにて 3)

2024-09-15 20:18:34 | 連続小説

 会計を終えた老婆は、そちらに目を配ることもなく、ようやく精算できた荷物を持って出口に向かいだした。エコバック2袋分だ。店員はたどたどしいニホン語で「ありあとごらいまひたあ」と言って見送る。
 あれだけ迷惑をかけておいて、老婆は店員にも、フードの女性にも、お礼の言葉ひとつ述べず老婆は去っていった。それが当然のことだという認識なのか、別に迷惑をかけている認識がないのか。
 当のふたりも、そんなことは気にしていないようで、フードの女性と店員は顔見知りといった然で、何やら一言、二言会話をすると、店員は肩を上げて、おどけた風で困った顔をして見せた。
 彼女達の様子を見ていると、よくある日常のひとコマであるように見え、対照的にその後ろに座り込んでいる男は、レジ前のフロアで大きなカタマリと化している。茫然として目がうつろのままで違和感しかない。
 誰も座り込んでいる男には、声をかけようとしないし、かけられない。すると何人かが手にしていた端末で、その男を撮影しようとした。すかさず振り向いた女性は、フードの奥から冷徹な眼を光らせる。
 何かを言ったわけでもないのに、誰もがかざしていた端末を下ろして、その目を見ないようにした。彼女の先程の行動、物言わせぬ眼光に、誰もが圧倒されていた。
 会計を終えた彼女は膝を折って、へたり込んでいる男の耳元に口元を近づける。何か言葉をかけているのだろうがまわりには聞こえない。
 何事か言い終えた彼女は立ち上がって店から出ていった。ドアの開閉時に流れるメロディがこれほど不似合いに聴こえるのもめずらしい。そんな殺伐とした店内が残されていた。
 なんだか出来すぎた一幕であり、テレビカメラがどこからか出てきて、番組の企画であることをネタバラしするのではないかと言う声も聞こえた。そんな笑いでこの場を取り成しすことを望んでいるのだ。
 男はユラユラと、魂が抜けたようにユラユラと立ち上がり、何も買わずに店を出て行った。その手には何も持っておらず、レジ横商品か、タバコでも買うつもりだったのか。
 後ろ姿の男は、グレーのスウェットの股間にシミが見えた。それで座り込んでいた床に目を移すと、薄っすらと水が滲んでいた。それは水ではなく失禁の痕だった。
 彼女のシャドウで肝を冷やし、そんな事態になっていれば、恥ずかしくて反撃するどころか立ち上がりもできない。さっきの耳打ちはそれを言い含められたのだろう。これでは捨て台詞も吐けず、そそくさと退散するしかない。二度とこのコンビニでお目にかかることはないはずだ。
 レジの店員が商品を補充していた店員に共通言語で声をかけた。コミュニケーションが取れるなら、どうして混雑しているときに声をかけなかったのかと誰もが思ったはずだ。
 呼ばれた店員は、言葉ではなく、何故そうするのか理由がわからないらしく、何度も訊きなおしている。バーコードリーダーで商品をスキャンしながら、時折その店員の方に目をやって急がせているレジの店員の声が段々と荒っぽく、大きくなっていく。彼は彼女をなだめるような口ぶりで、指示にしたがう返事をしたようだ。
 一旦、バックヤードに入った店員はモップを手に戻ってきた。レジの店員は、腰に手を当てて、男の店員にひととおり言葉を浴びせたあと濡れた床を指さした。
 男の店員は大げさに両手をうえに上げ、なにやら言い返している。どうしてこんなところが突然濡れているのかを問いただしているのだ。自分がそうでも訊いただろう。ただその答えは聞かないほうがいいとユウヘイは気の毒がった。
 男の店員は、今頃になって店内の異変を察したようで、レジの店員とやり取りをかわす。なんてことだとばかりに片手を上げるが顔は笑っていた。レジの店員もこの時ばかりは薄ら笑いをした。なにか気の利いたことでも言ったのだろう。
 彼らの共通言語が理解できず列に並ぶしかできない人々は、なにがおかしかったのか全くわからない。おかしなもので人数はコチラの方が多く、この国の原住人であるのに、なにか疎外感がありバカにされているような気持になる。
 言語が通じないのは、なにか暗号でやり取りしているのと同じで、解読できない文章は人々に不安をあたえるし、それが元で諍いが起きる。
 同じ言語でも意味が通じ合わなかったり、通じても対応しなければ同じことで、先ほどの老婆とのトラブルを見ていれば争いの火種はどこにでもある。
 レジの店員は再び無表情になり、レジ打ちを続けながらアゴ先で隣のレジを差す。カウンターを開いて男もレジ打ちに参加した。
 その後の店内は、先程の騒ぎなどなかったかのように、いつもの風景に戻っていった。列は順調に流れていく。先程の騒ぎを知らない新しい客も入ってきた。彼らには日常の光景でしかない。
 新鮮な空気が入って来なかったから、列が滞っていたのではないかとさえ思える。それほど先程までの店内は息が詰るほどの圧迫感の中にいた。彼女がそれらをすべて解き放っていった。流れが止まって血が濁っていた動脈が、再び滞りなく流れ出したのだ。
 それと同期するようにユウヘイは、じわりじわりと血が沸き立っているのを抑えられなかった。楽しみにしていたボクシング中継が、自分でも不思議なくらい、どうにでもよくなっていた。
 目の前でおこなわれたノーヒット・ノックアウト劇は、それほど印象的で圧巻だった。当たってもいないことがそれをさらに増幅させていた。では当たったらどうなるのか。その想像を掻き立てられた。そして、それ以上の興奮をテレビから得られるとは思えなかった。
 今にして思えば列に留まっていてよかったと、自分の判断を珍しく評価した。プロテインバーの男に見習って、離脱していれば、あの場に立ち会えなかったのだ。
 あのまま家に帰っていれば、ビールを飲めなかったことを悔やみながらも、テレビ中継で疑似体験から得られる脳内分泌物に興奮感情を操作されて、気分の高揚の中にあったはずだ。
 それとともに楽しみが終わってしまったことへの虚しさも同居する。それは過去の悦楽体験の追随であり、経験のうえで得た精神浄化を呼び覚ますための儀式でしかなかった。過去の事例の繰り返しの域を超えることはない。
 彼女が何者なのか知りたかった。店員とも顔見知りのようだった。この近くに住んでいる常連の客であるはずだ。ユウヘイも仕事帰りによくこのコンビニを利用していても、これまでは時間帯が合わなかったのだろう。
 どこかのボクシングジムに所属しているのか、それともボクサー崩れか、単なる喧嘩で鳴らしてきたツワモノか。
 ユウヘイは、自分の目利きを確かめたかった。女子のボクシングはこれまでは観たこともなく、所詮パワーもスピードも男は比較にならないと見ていた。
 それなのに、間近で見た名も知れぬ彼女の得も知れぬ能力はどうだ。こうして自分の心を鷲掴みにしている。男より強いとか、男に比べてどうだという比較論ではなく、ユウヘイの中では、彼女という存在自体が重要になっていた。
 ユウヘイもようやくビールを買うことができ、会計を済まし店を出た。店を出てみたら少し気持ちが落ち着いてきた。熱狂の渦の中で少し気持ちが昂ぶり過ぎていたようだ。
 冷静に考えればおかしな事ばかりだった。別世界にでも引き込まれていたような錯覚に陥りそうだ。
 最初は誰もがお年寄りに迷惑してれいた。レジ打ちにも、もうひとりの店員にも不満があった。店のオペレーションにも問題がある。
 どうしても嫌なら列に並ばず買わないという選択もできる。多くの損得勘定の中で、自分の選択肢を正当化するために、誰かの不備を詰ったり、とにかく人のせいにしていた。
 そこで人々の不満を代表するかのように立ち上がった者が、そのやり方のマズさもあり、周囲の同意を得られずにスケープゴートとされた。
 あのとき列の誰もが事態が収束するとは思うどころか、余計に拗れると悲観した。男が手を出したためにそれが決定的になるはずだった。
 それが一瞬にして事態は解決してしまった。やり方はどうであれ、彼女の一撃ですべては無しになっていた。それが皆が畏敬を持って彼女を見送った要因なのだ。
 決して正しい行いではなかったはずなのに。混迷化しようとしていた事態を収めただけで、その価値は高められ、暴力は無しになった。
 その激情に飲み込まれたのはユウヘイも同じだった。物事の真偽は正論ではかたれない。悪貨は良貨を駆逐することもあれば、異物が悪巣を浄化することもあるらしい。行いの良し悪しを超えた異景を目にしたとき、人はこうも従順になってしまうのか。
 何時だってそんな机上の理論をぶち壊して行くのは、凡人が妄想してひとり悦に浸ることを、実際にやってのける常人離れした行動だけなのだ。
 夜風にも当たり、さらに気持ちが整理されていくと、ひとつの疑念が深まっていく。当たってないとしても、あの状況は彼女に取って不利なのではないかという心配だ。
 画像の撮影は止めさせたが、削除したかはわからない。コンビニなので防犯カメラの画像もある。誰かが面白がって投稿し、拡散されて話題になったりすれば、防犯カメラを確認することに発展して、あの男の出方次第で過剰防衛として訴えられることも否めない。
 そこで彼女がプロのボクサーであれば深刻な状態になる。そうでなくても今の時代は、たったひとつの汚点で、それがいくら過去のことであっても、責任は、いま取らなければならず、それが元で表舞台から降ろされることもある。
 なぜかしら負のイメージが進んで行く。自分が見つけた原石が、こんなことで消し去られるのではないかという、期待値の損失を怖れている。まだ何者でもない彼女にここまで肩入れしてしまうことに苦笑いして肩の力を抜いた。
 専門性の高い人間が、自説を説いていくうちに、暴走してしまい着地点から離れてしまうこともある。彼女が巻き起こしていった劇場に飲み込まれているのだ。
 そうしてユウヘイは、ビールを家まで持ち帰ることはせず、プルトップを開け、ビールを煽るとブラリとモールの通りを進んで行った。
 一台の古い外国車がユウヘイの横を駆け抜けていった。普段なら舌打ちをするか、悪態をついていたところだ。ユウヘイは何か自分の存在意義を見つけた気になり、いつしか足取りも軽くなっていった。