扉が床と擦れる音とともに開いた。
勘に障るほどでもなく、とはいえ気づかないわけでもなく、適度な擦れ音が客の来店を知らせている。
入っていいのか戸惑いながら、恐る恐る半身を入れた状態で、若い男がホテルの内部を伺っている。
カウンターの前のアンティークチェアに深く座り、新聞を読んでいるのが店主のホギだ。新聞の端から中に入ってきた若者に視線を向ける。そしてまた新聞に目を落とす。かと言って文字を読んではいない。
造形物のようにそうしているだけで「いらっしゃいませ」という常套句を口にしないのも、新しい客が入店をためらっている要因なのだろう。
その客が前かがみになって、気分が悪そうに足もともおぼつかないでいるのは、単に酒に酔っているだけでもない。ホギはそんな客を何人も見てきており、取り立ててめずらしいくもない様子で察しをつける。
入店した男、ワカスギはカウンターの奥に目をやる。ボードに掛けられた鍵がひとつしか残ってないのは、四室しかない部屋のひとつに空きがあることを意味している。
空きがあり安堵しながらも、同時にここで満室だった場合どうするつもりだったのか。送迎してきたタクシーのドライバーの言葉を信用して、言われるがままついてきたまではよかったが、ひとりホテルに入ったとたんに心細くなっていた。
ラジオか、有線から静かな音楽が流れていた。クラシックハリウッドの映画音楽に聴こえる。そこは現世離れしていた世界観があった。そしてそれはワカスギ好みにあっていた。
その音楽はこの宿の雰囲気にマッチしており、薄っすらと靄に包まれたロビーも、西部開拓時代の安宿を映画のスクリーンから切り取った面持ちで、それが実際にそうなのか、自分の眼が霞んでいるのか定かではない。
映画のロケ地に使われても、おかしくないほどの存在感と、重厚な雰囲気がそこにあった。自分が映像関係の仕事をしていたら必ずリストに上げるはずだ。
人気映画のシーンで使われて人気のスポットにでもなれば、誰もが同じ体験を味わいたいと、あっというまに予約の取れないホテルになるだろう。
だったらまず、あの会社のプロモーターに連絡して、ワカスギは仕事の取引先関係の伝手を追っていこうとしてイヤイヤと首を振る。そういうことは今夜の一夜を無事に乗り越えてから考えればいいことだ。
ここに来た理由はただひとつ。終電に乗り遅れて、流しのタクシーに引っかかり、遠方の住家に帰るタクシー代より安く泊まれるからと紹介されたからだ。
確かに家まで帰れば1万5千円は下らないだろう。それが初乗り料金と、ホテル代の5千円で済めば社会人2年目で薄給の身には随分と助かる。街のビジネスホテルより格安だ。
素泊まりで食事は出なくても、朝食は出てからどこかで食べれば良いし、そのほうが時間を気にすることなく、好きなモノを食べれて好都合だ。
今夜は楽しくもない接待に同行し、好きでもない料理を食べて、先方の都合でこんな時間まで飲み歩くことになり、上司にも放っぽりだされ、どうやって帰ろうか途方に暮れていたところだった。
年代物の外国車がスーッと寄ってきて、何かと思えば5千円のホテルを紹介すると、控えめに下げたサイドウィンドウから声をかけられた。
いかにもといった胡散臭さがあった。クルマを見ても正規のタクシーでないのは明らかだ。それなのに自動ドアでもない後部ドアを、自分で開いて乗り込んでいた。
ドライバーが密かに漏らす笑みに吸い込まれていくように、、
受付のカウンターと、待合室兼ロビーが手狭な空間に配置されている。ロビーにはカップルが一組いた。ふたりは小さなテーブル席に座り、黙して酒を飲んでいた。
男はエールビールを、女はボトルの赤ワインを飲んでいる。自分でボトルを手にしグラスを満たす。男のわきには数本のカラになった空き缶がころがっていた。
友好的な関係には見えない。なにかを探り合っている間柄なのか、それとも関係を清算する段階に来ているのか。
彼らがどの部屋を埋めている客なのか、成り行き次第では1部屋に収まるかもしれないし、2部屋に分かれているのかもしれない。もしくは1部屋から2部屋の空きができことも考えられる。
入店してきた客のワカスギは、仕事の癖もあり様々な邪推してしまう。ついついまわりの人間を観察し、推測の範囲を広げはじめてしまう。
好ましいことでなく、自分でもイヤな性分だとわかっていても、ついつい思考が先立っていく。それが仕事に活かされるので身にはなっている。
それになにか不思議なもので、今は気分が悪いにもかかわらず、なぜかいつもより感度が高く、膨大な情報量が流入してくる。だからタクシーにも乗ってしまった経緯もあった。
そういったことは年に何度かあった。どういうタイミングでなるのか自分でもわかっていない。それがコントロールできればいいのにと何度も悔やんでいた。
ワカスギは店の雰囲気に気圧されながらもおずおずと店内へ、そして店主の元へ進んで行き、カウンターに手を付いた。そうしないとカラダを起こしていられなかった。できれば腰を下ろしたかった。
適当なスツールがあるはずもない。ホギは静かに顔を上げた。
テーブルの女はチラリとそちらに目をやり、少し微笑んでワイングラスを口にした。濃い色の口紅が飲み口に付き、それを親指でスッと拭き取る。手慣れた動作だった。
相席の男はそれを体の良いツマミとして、助平な顔で見てビールをひと飲みした。それでふたりの今の現状が見て取れた。そして画的にいいアングルだ。
関心はあるもののふたりにばかり集中しているわけにはいかない。ワカスギは一向に接客しようとしないホギに向かって話しかける。
「あのー、タクシーの運転手に勧められて、、 アカダさんと言う、、 」
言葉半ばでホギは立ち上がり、カウンターにまわりワカスギに対面する。
「コレを渡せって、、 」そう言ってワカスギは運転手から貰った名刺をホギに差し出した。
これを出せばなにか割引が利くとか、サービスがあるとか、何かを期待していた。それであるのにホギは、それをひったくるように手にして、すぐに握りつぶして捨ててしまった。ワカスギはガッカリする表情を読み取られないように堪えた。
ホギは何もなかったかのように宿泊帳を指先で押し出した。ワカスギはカウンターの上に荷物と外套を置き、従順に宿泊帳にペンを走らせはじめた。もうここに泊まるしかないのだ。
最初に入った時の不安な気持ちは消えていた。ワカスギが書いているあいだにホギはカウンターから出て、裏扉を開き外に行ってしまった。ワカスギが入ってきた扉は裏口だった。
ホテルの裏口はモールの通りと反対側にある。10時になればモールの通りは閉鎖されるので、それ以降の人の行き来はモールの外に面しているこの裏口からになる。そんな店があと数件はあった。
横付けしているタクシーのドアをノックする。サイドウィンドウが控えめに5センチほど下がり、手が伸びてきた。
ホギはポケットから取り出したクシャクシャになった千円札を2枚その手に渡す。
「5千円の客の2千円取られたら赤字だ」毎回同じセリフを言うホギに、アカダも同じ言葉を返す「ゼロより3千円のほうがいいだろ」そう言うとすぐに手を引っ込めウィンドウを上げる。
インセンティブをいただけば長居は無用とばかりに、60年式のローバー製のタクシーは、子気味良いシフトチェンジを繰り返し、その場を後にした。
静かになった通りで、ホギの耳にアメリカンロックを奏でるピアノの音が、かすかに遠く聴こえた。
無事一泊すればタクシードライバーに謝礼が入ることになっている。この雰囲気に圧されて尻込みして帰ってしまう客も中にはいた。
アカダに謝礼を払うのは気に入らなくとも、こうして定期的に客を運んでくれており、助かっているのも事実だった。
今日はこれで満室となり、ホギひとりで経営している手前、深夜の対応はしないので営業終了になる。表玄関はすでにクローズの看板がかかっていた。
ろくに掃除もしない部屋に素泊まりさせて3千円ならほぼ丸儲けだった。先ほどのテーブルの男女は別々の客で、ひと部屋づつの支払いだった。もっとも女の方はわけありで満額の支払いではない。
ただ、これからの流れによっては、使う部屋はひとつになる可能性もある。そしてそれはこれまでの経験上、高い確率でそうなる。部屋のかたずけがひとつで済んで2部屋分の上がりが入いればホギも都合がいい。
扉を閉じてカウンターの定位置に戻る。ワカスギは宿泊帳とホギを交互に見て落ち着かない様子がありありだ。初めて来た客は常にこんな感じだった。
かといってそんな客がリピーターになるわけでなく、どこからか漂ってきた宿無しが一夜の泊り先を求めてやって来るぐらいだ。
サービス精神もなく、儲けにも関心がないホギがこのホテルをいまも続ける理由は別にあった。開店当初のことをがアタマによぎる。
それは懐かしさもあり、時の流れの儚さもあり、現状の虚しさも同時に去来して、鼻の奥にツンとした油の染み込んだ木の匂いが蘇り、何とも言えない気分になる。