私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

女詐欺師たちに思う

2009-11-06 | 5考える
先週あたりから、女詐欺師の事件報道が盛んになされている。
今日は、山陰でも女詐欺師の関連するかも知れぬ不審な死が報じられていた。

一体、詐欺師という特異な犯罪者は、年間にどれくらい摘発されているのだろうか。

犯罪が詐欺に終わらず、最後には命さえも奪ってしまうということが事実であるならば、悪行の一言で片づけてしまうほかないとは思うのだが。

被害にあわれたのは皆、男性諸氏であるから、そこに男女の微妙な感情のやりとりがあってこその犯罪なのだろうが、同じ女からしてみると、相手が女であるというだけで、いくらか安心し、警戒レベルを知らず知らず下げているようなところがあるので、この頃のように「悪人であることに男女の別はない」という現実を突き付けられると、早急に考えを改めねばならない必要を感じる。

昨年の今頃のこと。
親しくやりとりするようになって間もないある女性から、唐突に金銭の相談を受けた。

直接的な要求ではなかったのだが、身の回りに起こった不幸の連鎖を語ってのち、どう考えても個人的に金銭を都合してくれることを期待しているとしか思えない文面のメールが届く。

しばし考えこみ、そうしたアプローチを受けるのは初めてのことだったので、返答しかねているうちにも、矢継ぎ早にメールは届いた。

ついには返信のないことに関して「私の変な相談に対応しかねていらっしゃるのでしょう…もう、連絡しないので安心してください」という実に的を射たメールが届き、事態は収束した。

個性的な人間性の人物に興味ひかれることが多く、彼女もそうした個性を放っている人物として今後友達づきあいするのかな…と思っていたところだったので、ちょっとボタンをかけ違えたようなその反応に、呆気にとられてしまった。

人生の先輩たる年長者達にいわせれば、そんな人物は論外で、きっと色々な人に同じような申し出をしているに違いなく、そんなことを言わせてしまうあなた(私)自身の在り様にも大いに問題がある(隙がある)…という指摘までされてしまった。

事実とは全く異なるのだが、よほど余裕がある風情でいるのではないかと。
どこかのほほんとしているだけで、不幸な人に大いに奉仕するだけの余裕ある人間ではないのだが。

以来、私の見知らぬ人々に対する垣根が、以前よりずっと高くなってしまっているような気がする。
必要なことだったのかもしれないが、大いに不幸なことだったかもしれないとも思う。
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ひとの心は複雑なもの

2009-11-03 | 3老いる
4~5日に一度、父の様子を見に行くことが、自分に課してきた務めだった。

老健から特養にお引っ越しがかない「大体夕刻、週一のペースで娘が様子を見に来る」という点も、引き継ぎ事項の一つとして伝えられ、それは今後も継続しなくてはならない…と肝に銘じているところだった。

施設の場所が郊外から市街地の山懐に移り、訪問自体は格段にしやすくなっている。

しかし、ここのところ二度に渡って、私の訪問は空振りに終わった。


ある平日の夕刻、訪問してみると、ちょうど夕食時で本人の姿は居室にはない。

老健では食事時、一人ぽつんと居室のベッドに横たわって、注入食を胃に流し込まれていた。
淋しげな様子の本人に、誰もいない居室で、私から一方的に話しかけて帰るのが常だったのだ。

特養では、皆さんのいる食堂で、皆さんと共にテーブルにつき、注入食の流れる様子を見てもらえている。

極力職員の手がかからないように、利用者がより大人しく、扱いやすい存在となるよう段取りされていた老健と比べ、特養では、職員の方々が労を惜しむことなく、手間暇かかるのを厭わずに、利用者の生活の質向上を第一義に対応されているのがわかる。

「そうか、これからは夕食時に訪れても、皆さんと一緒に過ごさせてもらえているから様子を見ることはできないのだな」と納得して身の回りの物をベッドサイドに置いて引き揚げた。


それではと祝日の昼下がり、食事時を避けて訪問してみると、やはり居室は空っぽだった。

おやつタイムかと思いきや、食堂も空っぽ。

廊下をうろうろしていると、食堂とは反対のフロアから祭囃子が聞こえてきた。

そっと覗いてみると、集会室のようなところで皆さん集まって、賑やかな笛太鼓を楽しんでいらっしゃる。
ボランティアの慰問公演がなされているところらしい。

車椅子の皆さんが部屋いっぱいに整然と並び、数十名の背中が見えている。

廊下を忙しく行き来するスタッフのお一人が「お呼びしましょうか?」と声かけて下さったが「大丈夫です」とご遠慮する。

またもや、上に羽織るベスト二枚をクローゼットに納めて引き揚げることになった。


手をかけ、心をかけて、手厚い対応をして下さっているのがわかる。
どんどんベッドの上にいる時間が長くなり、夜眠れなくなっていた父の生活も、きっと改善してきているに違いない。

しかし、何だかうっすらと哀しい気分に包まれるのだ。

「大丈夫、お父さんの生活はうちでしっかり見ますからね」と胸張って言ってもらえてホッとしながら、何だか心もとなく、喪失感にとらわれる。
ここ何年も待ち望んできた環境であるはずなのに、気がつけばハラハラと涙が溢れてくる。

ひとの心は複雑で、ままならない。
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