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東京・春・音楽祭「蝶々夫人」(演奏会形式)を観劇

2025年04月13日 | オペラ・バレエ

東京春音楽祭の季節がやってきた、今年もいくつかの公演に行くつもりでチケットを購入済みであるが、この日のプッチーニ「蝶々夫人」(演奏会形式、全3幕、1904年初演)が最初だ、場所は東京文化会館大ホール、4階のD席、9,500円、15時開演、時終演17時45分

この日の大ホールの座席は半分くらいしか埋まっていなかった、なんでこんなに不人気なのだろうか、インフレによる支出削減、指揮者・演目・演奏会形式・歌手のいずれかあるいはその複数の要因が重なったものか

この演目を観るのは初めてだがCDは宇野功芳先生推薦のカラヤン指揮、ウィーンフィル1974年版を買って時々聴いている、そんなに好きなオペラでもないので音楽を隅から隅まで知っているわけではない

出演

蝶々夫人(ソプラノ):ラナ・コス(Lana Kos、1984、クロアチア)
ピンカートン(テノール):ピエロ・プレッティ(ジョシュア・ゲレーロの代役)
シャープレス(バリトン、領事):甲斐栄次郎
スズキ(メゾ・ソプラノ、小間使い):清水華澄
ゴロー(テノール、結婚仲介人):糸賀修平
ボンゾ(バス・バリトン、伯父・僧侶):三戸大久
ヤマドリ(バス・バリトン、金持ち):畠山 茂
ケート(ソプラノ):田崎美香

指揮:オクサーナ・リーニフ
管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:仲田淳也

指揮者のオクサーナ・リーニフについて

ウクライナ出身、グスタフ・マーラー国際指揮者コンクール3位入賞、その時に優勝したのがデュダメル、2022年よりボローニャ市立劇場初の女性音楽監督を務める、バイロイト音楽祭においても史上初の女性指揮者として2021年から2024年まで連続して出演、その他世界の冠たる劇場で活躍している、NHKのクラシック音楽番組に出ていたのを観たことがある

昨日の新聞では彼女を取り上げていたものも見られた(こちら、冒頭のみ)

観劇した感想などを書いてみたい

演奏であるが、この演目を細かいところまで十分に理解して聴きこんでいるわけではないので、その適否を言う能力は無いが、指揮者、読響の演奏、蝶々夫人のラナ・コス、ピンカートンのピエロ・プレッティ、シャープレスの甲斐栄次郎、スズキの清水華澄などみんなよかったと思った、4階の左手でかなり舞台に近い位置でしっかり観たが、チケットの売れ行きにめげることなく、むしろ来なかった人を後悔させてやるくらいの意気込みで演じていたように感じた、それぞれの人が手抜きをすることなく、精一杯指揮して演奏して、歌っていたように見えた、カーテンコール時の拍手が盛大であることもそれを物語っていると思った

ただ、字幕の翻訳に一か所だけ、蝶々夫人とピンカートンが婚礼の後、寝床に入る前の会話に露骨な表現があり、如何なものかと感じたところがあった

演奏会形式についてだが、私が最近よく読む辛口ブロガーC氏の見解によれば、肯定派の根拠は「演出を気にせず、音楽に没頭できる」と言うものだが、それは本音ではないという、そもそもオペラを演奏だけ聴いてもよく分からないことが多く、感動度合いは低い、総合芸術であるオペラは演出付きが原則である、ヨーロッパでもごく一部に演奏会形式はあるが、これはアーティストの時間や予算の制限がある場合のみである、としているのは興味深い

私は必ずしもC氏の考えに全面的に賛成ではない、それは自宅でオペラを聴くときはテレビ番組を録画して観るよりも、CDをBGMで一日中流しっぱなしにして聴いていることが多いが、「魔笛」や「フィガロ」、「セビリアの理髪師」など好きなオペラは何度で聴いても感動するものだ、また、一人で車を運転するときにこれらのお気に入りのオペラを聴きながら運転していると「やっぱりこのオペラはいいなー」と思う、演奏会形式はその延長線であり、良いものは良いと感じられる

演奏会形式は通常のオペラに比べて難しいところも少なくないことを以前のブログで紹介した(こちら)、歌手と指揮者の立ち位置も通常とは逆になるので両者の連携も工夫を強いられるむずかしさもあるでしょう

原作であるがジョン・ルーサー・ロング(1861-1927)による同名の小説である、彼は大の日本びいきで、来日したことはないが、姉が日本で生活した経験があった、そして「蝶々夫人」は姉が出入りの商人から聞いた実話に基づいて書かれたそうだ

話の内容が日本女性が犠牲になるものなので好きになれず今まであまり見る気にならなかったが、実は日本人男性が海外でピンカートンと同じようなことをやって現地の女性を泣かせたのが森鴎外の「舞姫」だ、「舞姫」の主人公太田豊太郎は鴎外自身の分身であり、フィクションもあるが現地でできた恋人を自分の出世のために捨てたところに共通点があるのでピンカートンばかり責められない

東京春音楽祭のwebページで出演者のプロフィールをかなり詳細に紹介しているのは評価できるが、文章が全然なっていないと感じる、だらだらと時系列で出演した劇場や演目を延々と書いているだけで要領が悪く読む気になれない、もっとまともな文書が書ける人が分かりやすく書くべきでしょう

楽しめました


ロイヤル・オペラ「ホフマン物語」を映画で観る

2025年04月05日 | オペラ・バレエ

英国ロイヤル・オペラ「ホフマン物語」を映画で観た、ロイヤル・オペラ・ハウスは昨年旅行で訪問したばかりなので(その時のブログはこちら)愛着がある

(出演)

【ホフマン】ファン・ディエゴ・フローレス(1973、ペルー)
【ニクラウス(親友)】ジュリー・ブリアンヌ
【ステッラ/妻/ナース】マリア・レオン
【オランピア】オルガ・プドヴァ
【スパランツァーニ(人形の開発)】ヴァンサン・オルドノー
【アントニア】エルモネラ・ヤオ
【クレスペル審問官、アントニア父】アラスター・マイルス
【リンドルフ(議員)/コッペリウス/ミラクル医師/ダペルトゥット魔術師】アレックス・エスポージト
【ジュリエッタ】マリーナ・コスタ=ジャクソン

【詩の女神/アントニアの母の霊】クリスティーネ・ライス
【アンドレ/コシュニーユ/フランツ/ピティキナッチョ】クリストフ・モルターニュ
【ルーテル】ジェレミー・ホワイト
【ヘルマン/シュレーミル(恋敵)】グリシャ・マルティロシアン
【ナタナエル】ライアン・ヴォーン・デイヴィス

【音楽】ジャック・オッフェンバック
【指揮】アントネッロ・マナコルダ
【管弦楽】ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団(コンサートマスター:セルゲイ・レヴィティン)
【演出】ダミアーノ・ミキエレット(1975、伊、 DAMIANO MICHIELETTO)

観劇した感想などを述べよう

(作品、物語について)

  • オペラより気軽なジャンルの「オペレッタ」で名を成したオッフェンバックが最後に残した唯一のオペラ作品の「ホフマン物語」、ストーリーは、ドイツの作家E.T.A.ホフマン(1776-1822)の小説『砂男』『顧問官クレスペル』『失われた鏡像の物語』を基にしている
  • 1881年2月10日にパリのオペラ・コミック座で初演された後、上演した劇場の火災などで楽譜や資料が散逸し、現在まで決定版がないまま複数のバージョンの楽譜が存在している、そして、オッフェンバックが作品完成前に死亡したたことも複数のバージョンがある理由になっている
  • どのバージョンも詩人ホフマンが3つの失われた恋を振り返るという基本ストーリーは変わらないが、オッフェンバック自身が命名した「幻想オペラ」(Opera fantastique)という要素が演出家の想像力を掻き立てるのか、物語の順番や音楽が異なるさまざまな「ホフマン物語」が上演されているという、今回はそのどのバージョンかは明らかでない

(演出について)

  • ダミアーノ・ミキエレットによるポップで奇抜な演出だったが、色彩豊かでカラフルな舞台や衣装で、退屈することなく観れた
  • 物語りの時代設定なども独特で、オランピアとの出会いは“学校における初恋と失恋”として描き、アントニアの幕はオペラ歌手ではなく踊れなくなってしまったバレエ・ダンサーへの真剣な愛、そして、ジュリエッタとの恋はゴージャスなクラブを舞台に金銭のからむ愛の多面性を描いたもの、面白いと思った

  • そして、オランピアへの恋はパリの少年時代、アントニアとの恋はミュンヘンの青年時代、ジュリエッタとの恋は大人になった時代というように、ホフマンの成長に従い恋した時代を旅するものとなっていたところに工夫が見られた
  • なかなか良い演出、衣装だと思った

(歌手について)

  • タイトルロールのファン・ディエゴ・フローレスは久しぶりに観たが、けっこう頑張っていたと思う、張りのあるいい声を出していたと思った
  • その他の歌手は初めて聴く人ばかりだったが、その中で良かったと思ったのはアントニアのエルモネラ・ヤオ(1974)だ、美人であり歌唱力や声量も豊かだった、演技力もまずまずだった、彼女は2023年パレルモ・マッシモ劇場来日公演「椿姫」のヴィオレッタを務めたアルバニア出身のソプラノ、もうベテランだろうが主役級の役を何回も務めているようだ、最後のカーテンコールでは一番拍手が大きかった

  • もう一人良かったと思ったのは悪役4役を務めたイタリアの人気バスバリトンのアレックス・エスポージトだ、モーツァルトの役、特にドン・ジョヴァンニのレポレッロ役で最もよく知られているそうだが風貌が仏映画俳優のジャン・レノにそっくりだと思った
  • さらに、オランピア役でROHデビューを飾ったロシアの新進ソプラノ、オルガ・プドヴァもまあまあだと思った
  • ジュリエッタ役はマイタリア系アメリカ人ソプラノのマリーナ・コスタ=ジャクソン、9月の「フィガロの結婚」のケルビーノのジンジャー・コスタ-ジャクソンとは姉妹で、もう一人の姉妹もオペラ歌手だそうだ、さらに今年10月に新国立劇場2025/26シーズン開幕公演「ラ・ボエーム」でミミを歌うそうだが自分の好みではなかった

(指揮、管弦楽について)

  • 指揮者は、故クラウディオ・アバドの片腕としてマーラー・チェンバー・オーケストラやルツェルン祝祭管弦楽団のコンサートマスターを務めた後、指揮者に転向したイタリア出身のアントネッロ・マナコルダだった、彼が指揮する演奏は素晴らしかった、メリハリ効いた演奏だった

昨年、ロンドン旅行に行ったとき、まさにその週に「ホフマン物語」のプレミエ公演がスタートした、ロンドン旅行時は嫁さんが退屈するのではないかと思い、この演目を敬遠してバレエを観てしまったけど、今日映画を観てその判断が間違っていたのが分かった、オペラにあまり慣れていない人でも十分楽しめる舞台だった、観ておくべきだったと後悔した


楽劇「神々の黄昏」をテレビで観る

2025年03月27日 | オペラ・バレエ

ワーグナーの楽劇「神々の黄昏」をテレビ(NHK)で観た、2022年8月5日のバイロイト祝祭劇場時間でのプレミエ公演、4時間30分、ワーグナーの作品は今まであまり観劇してこなかったが、今年から少しずつ挑戦していきたいと思っている

「神々の黄昏」はご存知「指輪」の最後の作品、それ以前の3つの作品をまだ観たことが無いのでいきなり最終作品というのは順番が逆だが、テレビの放送の関係でこれが「指輪」鑑賞の最初の演目になった

【出演】

ジークフリート:クレイ・ヒリー [Clay Hilley]、急遽決まった代役、バイロイトデビュー
ブリュンヒルデ:イレーネ・テオリン [Iréne Theorin]
グンター:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー [Michael Kupfer-Radecky]
グートルーネ:エリザベス・タイゲ [Elisabeth Teige]
ハーゲン:アルベルト・ドーメン [Albert Dohmen]
アルベリヒ:オウラヴル・シーグルザルソン [Olafur Sigurdarson]
ノルン:オッカ・フォン・デア・ダメラウ、ステファニー・ミュター、ケリー・ゴッド
ラインの乙女:リー・アン・ダンバー、ステファニー・ハウツィール、ケイティ・スティーブンソン

【合唱】バイロイト祝祭合唱団
【管弦楽】バイロイト祝祭管弦楽団
【指揮】コルネリウス・マイスター [Cornelius Meister]バイロイトデビュー、代役
【演出】ヴァレンティン・シュヴァルツ [Valentin Schwarz]

新制作プレミエなのに指揮者と主役が直前にコロナで交代という大ピンチに見舞われた作品、シュヴァルツによる現代の問題へ置き換え新演出でこの楽劇の内容を理解するのは簡単ではない、事前にこの舞台を現地や録画で観た人のブログなどを読んで演出のキーとなるところを書き出してみた(順不同)が、これで理解できているわけでもはないが少しはヒントになる

  • スクリーンに投映される双子の胎児に始まり双子の胎児で終わる
  • ジークフリートとブリュンヒルデの娘らしき少女(黙役)が指環の役割を担っているため本当の指輪は出てこない
  • 子供はジークフリートとブリュンヒルデの男女の双子で男児は3幕になって出てくる、この(指輪)少女は運命に翻弄される、しかも台詞も歌も何もない
  • 愛馬グラーネは老人でジークフリートの従者の設定、ショッキングなのは1幕でギービヒ兄弟に惨殺されてしまう、その生首をグンターがビニール袋に入れてずっと持ち歩く、3幕ではブリュンヒルデがグラーネを呼び、グンターの放り出したビニール袋からグラーネの生首をを出して愛撫する
  • 1幕の幕切れでジークフリートは隠れ兜をかぶって、グンターになって登場するが、この演出ではなんとグンター自身が登場する
  • グートルーネはドラッグ中毒、グンターはアル中で虐待壁のある性的異常者である、グンターは執事を裸にして鞭打ちしたり、グンターの姿に変身したジークフリートを演じ子供を椅子に縛り付けブリュンヒルデを強姦する、後に執事の首をはね、挙句の果て男児も殺してる
  • ジークフリートとグンターの男同士のキスシーンがあってジェンダー問題も定義している様だ、そして三人のノルンが精霊の異様さ
  • ブリュンヒルデも凄いフィナーレを強いられる、グンターが投げ捨てた執事の首を拾い上げ頬ずりするシーンはまるでサロメである、それを抱いたままジークフリート遺体に寄り添って自死する、そこには火もなければ水もなく、双子の胎児が投映されて幕となる
  • 第3幕幕切れの、胎内で抱き合う双生児の映像が流れる、じつは「ラインの黄金」でも同様の映像で幕を開けた、指環がライン川へと戻るように、この演出でも円環が閉じることで物語の幕が下りる、ただし「ラインの黄金」では双生児のひとりがもう一方の片目を潰す様子の映像だった、彼らについては眼の傷からヴォータン、また境遇は違えどその権力欲によって彼と表裏一体であるアルベリヒだと推測できる、すると「黄昏」最後の映像は、敵対していた両者(ないしその子孫)の和解と読めるが、いつ・なぜ和解したのかははっきりしない
  • 見終わって幕が降りたとたん、盛大なブラボーではなく、ブーイング、新演出のお決まりみたいなもの、最大のブーイングはヴァレンティン・シュヴァルツの演出だろう

物語のあらすじなどについて、テレビの説明を引用すると

  • 権勢を誇った神々に没落の時が迫っている、神々の長ウォータンが懸念しているのはかつて自分がニーベルング族のアルベリヒから奪った世界支配の能力を授ける指輪の行方
  • ウォータンは今、指輪をラインの乙女に返すことを望んでいるが現物は英雄ジークフリートの元にある
  • 指輪をひそかに狙っているのは元々の製作者アルベリヒとその息子ハーゲン

  • 新鋭演出家のヴァレンティン・シュヴァルツは指輪の神秘の力を男女の愛の結晶である子供の無垢に象徴させた
  • 演出家は北欧神話を現代の病理として読み解いていく、ジークフリートとブリュンヒルデの不和が暗示され、ギービヒ家は退廃した富裕層として描かれる

各幕の説明についてもテレビの説明を一部引用すると

プロローグ

世界の運命をつかさどる3人のノルンが出現する、彼女たちが縄をなうことで運命が動き始める、世界を守護するトネリコの木がウォータンによって傷つけられたことをきっかけに危機が起きたのだと彼女たちは言う

ジークフリートは新たな冒険に出るにあたり2人は互いの思い出の品を交換する、ジークフリートハニーベルングの指輪をブリュンヒルデは愛馬グラーネを

第1幕

ギービヒ家の館、未婚の当主グンターと妹のグートルーネに対し彼らの異父弟ハーゲンは結婚を勧める、グンターにはブリュンヒルデ、グートルーネにはジークフリートを

ブリュンヒルデを訪ねた妹のワルトラウテ、彼女は父ウォータンの苦悩を語り、指輪(子供)をラインの乙女へ返せば世界は救われるという、ブリュンヒルデの返事は・・・

第2幕

ハーゲンの元には父アルベリヒが現れ指輪奪回に向け改めて発破をかける

一夜明け、一足先にジークフリートが戻ってくる、彼がグンターに化けブリュンヒルデと一夜を共にしたと聞きグードルーネは不安を覚えるが彼女とは「離れていた」とジークフリートは弁明する

戻ってきたグンターとブリュンヒルデはグンターに奪われたと思っていた指輪(子供)をジークフリートが持っていたことから自分が彼に騙されていたことに気づく

第3幕

ラインの川底に住む乙女たち、今は指輪に作り替えられた黄金が早く川に戻ってきてほしいと嘆いている、そこへ折よく現在の指輪(子供)の持ち主ジークフリートが泡われると・・・

ギービヒ家の一行がやってくる、かつて記憶を消す薬をジークフリートに与えたハーゲンだが今度は逆に記憶を戻す薬を与えようとしている

観劇した感想

  • 時間が4時間以上の長丁場であり、途中で何回も眠りそうになり集中力を維持するのが一苦労だった、実際に劇場で鑑賞したら確実に寝ていたでしょう、あらすじや演出の内容を事前によく理解し、音楽の聴きどころもわきまえていないと退屈に感じるのではないか、小林秀雄でさえバイロイトに実際に観劇に行って鑑賞がけっこう苦痛だったようなことを述べている
  • そもそも伝統的な演出の舞台さえ観てないのにいきなり新演出で話題となるような作品を観ることに無理があるが、一回でも観れば、後でまた別の演出家のものを見ても比較対象があるので理解しやすくなると思った
  • 現地の事情に詳しい人によれば、こういった時代設定や問題設定の置き換え演出は欧州ではむしろ主流のようだ、そして最初の年はカーテンコールで激しいブーイングが飛ぶのも恒例のようだ、今回のカーテンコールでも演出家のシュヴァルツ以下の人たちが出てきたときのブーイングの激しさはすごかった、シュヴァルツ以下一人も笑顔がなく引きつった顔をしていた、しかし、その後、シュヴァルツの演出は継続しているようだ、2025年もシュヴァルツ版のリングが観れるみたいだ

  • 欧州で奇抜ともいえる新演出が好まれるのは進歩的な人が多いこともあろうが、同じ舞台を観るのが飽きたという点もあるようだ、しかし「変えない」というもの伝統芸能や芸術では十分あり得るものだと思う、変えない良さこそ伝統である、例えば歌舞伎がそうだ、あらすじは観ている人はみんな分かっている、それでもお気に入りのここぞという場面で感動したり主人公に感情移入できる、両論あるのでどちらが絶対ということはないでしょう
  • ストーリーや奇抜な設定、グロテスクな演出などがあったりしたが、舞台設定はそれほどおかしくないと思った、ジークフリートとブリュンヒルデの家、ギービヒ家の館やラインの川底と思われる場所の風景はおかしいとは思わなかった
  • 歌手たちの姿が恰幅のいい方が多く、いかがなものかと思った
  • 黙役というめずらしい出演者(子供)がいたが、これはつい最近観たリヒャルト・シュトラウス「影のない女」でもあった(こちら参照)、しかも両方ともけっこう重要な役割である、欧州ではめずらしくないのかもしれないし、あるいは流行なのかもしれない

楽しめました


新国立劇場「カルメン」を観劇する

2025年03月03日 | オペラ・バレエ

新国立劇場でカルメン(全3幕)を鑑賞した、4階席7,700円、最上階の後ろから2列目だが、舞台は欠けるところがなく全体が良く見えた、ただオーケストラピットは見えなかった、見える範囲では9割以上の座席が埋まっていた、この日はS席だけ当日販売があったようだ、2時開演、5時10分終演

劇場の宣伝では、「新国立劇場で2021年に新制作したアレックス・オリエ版『カルメン』は、オリエらしいスペクタクル性と、観客を唸らせる斬新な解釈が詰まった舞台。現代的で知的、勇気と反骨心を持って自由に生きる女性カルメンと、独占欲が強くて嫉妬深く、拒絶を受け入れられない男ホセの恋物語、そして今日どこにでも起こり得る悲劇となって、特に若い世代の共感を呼びました」とあるが、ホセを偏狭な悪い人物なように描き、カルメンを持ち上げる説明に違和感を持った、今度一度原作を読んでみよう

【指 揮】ガエタノ・デスピノーサ(Gaetano D'ESPINOSA、伊)
【演 出】アレックス・オリエ(Àlex OLLÉ、スペイン)
【台本】ルドヴィック・アレヴィ、アンリ・メイヤック(フランス語)
【原作】プロスペル・メリメの小説『カルメン』
【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
【児童合唱】TOKYO FM 少年合唱団
【管弦楽】東京交響楽団

出演

【カルメン】サマンサ・ハンキー(メゾソプラノ、Samantha HANKEY)
【ドン・ホセ】アタラ・アヤン(テノール、ブラジル、Atalla AYAN)
【エスカミーリョ】ルーカス・ゴリンスキー(Lukasz GOLINSKI、バス・バリトン、ポーランド)
【ミカエラ】伊藤 晴(ソプラノ)
【スニガ】田中大揮
【モラレス】森口賢二
【ダンカイロ】成田博之
【レメンダード】糸賀修平
【フラスキータ】冨平安希子
【メルセデス】十合翔子

観劇した感想などを述べてみよう

演出について

  • 演出のオリエは、バルセロナ生まれ、カルルス・パドリッサと共同演出したバルセロナ・オリンピック開会式をはじめとする大規模イベントや、演劇、映画と多くの分野で活動している
  • 今回の演出は2021年7月、新型コロナで制約のあった演出を練り直したとのこと
  • 新国立劇場のwebページにはオリエの演出方針の解説や大野芸術監督との対談など多くの情報がアップされており、事前の勉強で大変参考になった
  • オリエは「私は、カルメンの自由を求める人物像が一番の魅力ではないかと考えています。カルメンは自由の象徴です。問題が起これば抵抗する女性です、そんな女性でも、間違った相手に恋をしてしまうことがある、ドン・ホセのような独占欲が強く嫉妬深く、拒絶を受け入れられないマチスタ(男性優位主義者)に」と述べているが、これには抵抗を感じた、逆の見方もできるのではないか、すなわち、純情で真面目なホセが誤って自由奔放なカルメンのような女に目がくらんで人生を狂わした、自由が一番大事だと思っている女性とはそもそも結婚など成立しないのが当たり前だろう、そういうわけで私はオリエと違ってカルメンの自由を求める人物像に魅力を感じない、純情なミカエラの方が好きだ
  • また、オリエは「舞台は東京です、スペイン・フェスティバルがあり、スペインから色々なアーティストが来る。カルメンはバンドを持っているミュージシャン、そしてコンサートの警備にあたる警察官のホセと出会う。コンサートの後には酒場に行く。裏では麻薬の密売の仕事にも関わる」と説明している、この演出の現代版や身近な例への置き換えはそんなに変だとは感じなかった、基本的な筋がきちんと原作と合っており違和感はなかった
  • オリエは「面白かったなと思って帰るだけでなく、色々な物語を感じ取ったなと思わせるくらいにやりたい。若い人たちに、物事には多様な見方、多様な考え方があるということを感じて欲しいと思っているのです」と述べているこれは同意できる、多様性が大事だとの認識が世の中で浸透してきている中で、多様性がなくイデオロギーに凝り固まっているのが日本の左派新聞だろうなと思った
  • 大野監督とオリエの対談ビデオで大野は「メリメの原作が台本になっているが、実はもう一人の原作者がいた、それはプーシキンだ、彼の詩「ロマ、さすらい人の詩」を読んで「恋は鳥のようなもの決して捕まらない、私があなたを好きになったら気をつけなさい」とハバネラにした、また、プーシキンの小説からロマンティズムを台本にたくさん入れ込んだ、原作にはないミカエラを入れたのもそうで、カルメンの魔性、野獣性、自由に対し、ミカエラの素朴さ、優しさ、家庭的、ホセと二人の純情さを対比した、と説明していたのが印象に残った、私はプーシキンの小説は大好きだ

歌手について

  • タイトル・ロールのサマンサ・ハンキーだが、オリエはカルメンのイメージは歌手はエイミー・ワインハウスだ、人生に覚悟があり、成功と没落の人生を歩んだ女性だと説明している、私はオペラを観る前まではこの設定に拒否感があったが、今日実際に観劇してサマンサ・ハンキーはけっこうこの設定を楽しんでいるなと思った
  • サマンサ・ハンキーは新国立劇場初登場、自分のブログで調べると2023年5月のMETライブ・ビューイングの「ばらの騎士」にオクタヴィアン役で出演していたのを観ていた(こちら)、けっこう美人でスタイルも良いなと感じた、今回のタイトル・ロールは彼女にとってもけっこう大事なことであったのではないか


(新国立劇場のwebサイトから引用)

  • ハンキーの歌は最初のハバネラの際は声量があまりないなと感じたが、その後、声が細いなりに頑張って歌っているなと感じた、実際、これだけ出ずっぱりの主役を演じるのは大変なことなのでしょう
  • 同じようなことはエスカミーリョのルーカス・ゴリンスキーにも感じた、彼が出てきて闘牛士の歌を歌ったときなどは声が演奏に負けて聞こえにくかったが、後の方になると2人だけの場面などになり、低音の魅力を発揮していた、ハバネラや闘牛士の歌など大勢の中で騒ぎながら歌う歌はドスの利いた図太い声でないと演奏に負けてしまうのでしょうから細身の人にはきついのかもしれない、と思った
  • その点で素晴らしかったのはホセのアタラ・アヤンとミカエラの伊藤晴だ、二人とも声量豊かでしっかりと観客席に届く声で歌ってくれた

指揮と演奏について

  • ガエタノ・デスピノーサ指揮の東京交響楽団の演奏は良かったが、ところどころパンチの効かせどころでそのパンチが強すぎてびっくりして喧しいと感じた、大きな音を出せばいいというものでもない、一番最初の序曲の出だしなどがいい例だ、しかし、私はこれを好意的にとらえた、一生懸命演奏している感じがした

その他

  • 新国立劇場はいまだにカーテンコール時の写真撮影が禁止だ、解禁してもらいたい
  • このオペラの宣伝用のポスターの写真、サマンサ・ハンキーがマイクに向かって手を広げて歌っているシーン、があまり好きになれなかった、舞台を実際に観たらもっと良いシーンはいっぱいあったのに何故この写真を宣伝用に選ぶのか、エイミー・ワインハウスを意識したのか、もっと彼女が素敵に映っている写真にしてほしかった

楽しめました


歌劇「シモン・ボッカネグラ」をテレビ観劇

2025年02月26日 | オペラ・バレエ

テレビで昨年1月に放送された新国立劇場/歌劇「シモン・ボッカネグラ」(プレミエ)を鑑賞した

ヴェルディ作曲、プロローグ付き全3幕、2時間20分、1857年フェニーチェ劇場で初演、24年後にヴェルディ自身が改訂を加えスカラ座で初演された、改訂版の台本はアッリーゴ・ボーイトによる、ヴェルディ中期の作品だが改訂はヴェルディ68才の晩年となった

演出:ピエール・オーディ(1957、レバノン)
美術:アニッシュ・カプーア(現代美術を牽引するアーティスト、巨大な舞台美術)

<出演>

シモン・ボッカネグラ(海賊、後にジェノバ総督):ロベルト・フロンターリ(1958、伊、バリトン)
アメーリア(シモン娘):イリーナ・ルング(1980、モルドバ)
フィエスコ(アンドレーア/貴族、シモンの政敵):リッカルド・ザネッラート
ガブリエーレ・アドルノ(ジェノヴァ貴族、アメーリア恋人):ルチアーノ・ガンチ
パオロ(平民派、後にシモン忠臣):シモーネ・アルベルギーニ
ピエトロ(平民派、後にシモン部下):須藤 慎吾

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:大野和士 
収録:2023年11月15日 新国立劇場 オペラパレス 

この演目は1度テレビで鑑賞したことがあったが、あまり印象に残っていなかった、ただ、そういう場合でも繰り返し見ているとその良さがわかるかもしれないので、1年前の放送だが録画してあったので鑑賞してみた

今回の鑑賞の感想など

物語について

  • 悲劇である、けっこう内容が複雑で、全体像を理解するのに時間がかかる(まだ、全部理解してないかもしれない)、例えば、なぜアメーリアが孤児になってグリマルディ家に養育されているのか、そのアメーリアを養育していたのがアンドレーアと名を変えたフィエスコであったが、なぜ探していた自分の娘の子供と気付かなかったのか
  • シモン・ボッカネグラは、ジェノヴァ共和国の1339年の選挙で初代総督に就任した歴史上実在の人物
  • 物語のベースにあるのは貴族と平民との対立である、シモンは平民、恋人は政敵の貴族の娘、二人の子供(娘)は孤児になり貴族の家で養育されており、その恋人は貴族の若者、ただ、最後にシモンとフェイスコは和解する

演出・美術について

  • シンプルな舞台設定であった、背景はほとんどなく、天井から大きな雲というか石のようなものが下に飛び出している、そして最後は丸い大きな太陽のようなものが天井から出てくる、これが何を意味しているのか、分からなかった
  • 最初から最後までほとんど舞台は暗く、沈鬱なムードが漂った演出であった、物語が暗い悲劇なので仕方ないが観ていてあまり楽しく思えなかった
  • 第3幕でアメーリアを誘拐した罪で捕らえられたパオロが出てくる場面があるが、その姿があまりにもグロテスクだと思った

歌手について

  • 主要な歌手は初めて見る歌手ばかりだったが、いずれも歌唱力、声量とも十分だと思った、ただ、ガブリエーレ(アメーリア恋人)のルチアーノ・ガンチはちょっと太目なこともあり、ダメ男のように見え美人のロベルト・フロンターリと釣り合っていないように感じた

音楽、指揮者、演奏について

  • 音楽は悲劇でもあり、暗い感じのメロディが主体であったが、ところどころヴェルディらしい劇的な大音響の演奏があり楽しめた
  • このオペラ自体にまだ精通していなので、大野和士の指揮と東京フィルの演奏は評価する能力がないが、「これはどうかな」と感じたところはなかった

今後も観ていきたい

あらすじ

プロローグ

時は14世紀半ば、舞台はイタリアの港町ジェノヴァ、海賊のシモンと貴族フィエスコの娘マリア(オペラには出てこない)は愛し合う仲で子供もいたが、マリアの父は2人の仲を許さず娘を幽閉、マリアは病死したためフェイスコはシモンを憎む、子供は行方不明、平民派のパオロの画策でシモンは選挙で総督になる

第1幕

25年後、総督シモンは忠臣パオロをグリマルディ家の娘アメーリアと結婚させようとするが、彼女には貴族のガブリエーレという恋人がいた、シモンはアメーリアが自分の娘であることに気づき、パオロとの結婚を帳消しにするとパオロは逆恨みしアメーリアを誘拐、ガブリエーレはシモンの仕業と勘違いし誘拐の実行犯を殺害し、アンドレーア(実はフィエスコ)と共に議会に引き立てられると、シモンこそ首謀者と糾弾し切り掛かるがアメーリアが制する、シモンは二人を捕え、パオロに真犯人を呪うよう命じるとパオロは恐れおののきながら自らを呪う

第2幕

パオロはシモンを恨んで彼の水に毒を盛り、アンドレーアにシモン殺害をけしかけ拒絶される。次いでガブリエーレにアメーリアが総督に弄ばれていると吹き込みシモン殺害を唆す。アメーリアは激高するガブリエーレを隠し、シモンに恋人の赦免を懇願する。水を飲んだシモンの意識が薄らぐ。ガブリエーレが襲いかかるが、シモンにアメーリアは実の娘だと明かされ謝罪し、蜂起した貴族派の平定に向かう

第3幕

ジェノヴァに平和が戻り、反乱に加わったパオロは捕えられる。瀕死のシモンはフィエスコが訪れると、ついに和解の日が来たと喜び、アメーリアこそフィエスコの孫娘であることを伝える。シモンはガブリエーレを後継者と言い残し息絶える


東京二期会オペラ「カルメン」を鑑賞

2025年02月24日 | オペラ・バレエ

東京二期会のオペラ「カルメン」を鑑賞した、場所は東京文化会館大ホール、この日は4階、C席、10,000円、8割くらいの座席が埋まっていた、14時開演、16時50分終演

ビゼー:オペラ「カルメン」全4幕<ワールドプレミエ>
指揮/沖澤のどか
演出・衣装/イリーナ・ブルック
管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:二期会合唱団

演出のイリーナは、演劇界の巨星ピーター・ブルックを父に持ち、フランスのレジオン・ドヌール勲章をはじめ数多の栄誉に輝いている、日本では新国立劇場「ガラスの動物園」やSPAC「House of Us」などの演出を手掛けてきたが、オペラの国内での演出は初となる、ただ、今までスカラ座やウィーン国立歌劇場などの主要歌劇場でオペラを手がけてきている、実は「ガラスの動物園」はあの映画「ピアニスト」のイザベル・ユペール主演というので観に行った演劇である

沖澤のどかはテレビでは何回か観たが、コンサートで観るのは初めてなので期待したい

出演

カルメン:和田朝妃⇒加藤のぞみ(交替)
ドン・ホセ:古橋郷平
ミカエラ:七澤結
エスカミーリョ:与那城敬
スニガ(上官):斉木健詞
モラレス(士官):宮下嘉彦
ダンカイロ(密輸団):大川 博
レメンダード(密輸団):大川信之
フラスキータ(ジプシー仲間):清野友香莉
メルセデス(ジプシー仲間):藤井麻美

開演前、舞台に公演監督の永井和子氏が登壇し、本日のカルメン役の和田朝妃が数日前から体調を崩し、まだ完全に回復していないため降板し、ダブルキャストの加藤のぞみが代役を務めると説明し、お詫びの言葉があった、タイトルロールの交替とはよほどのことでしょう、本人が一番ショックを受けているのではないか

観劇した感想を述べたい

ビゼーについて

  • 私にとってビゼーと言えば「アルルの女」であった、これは宮城谷昌光著「クラシック千夜一曲」(集英社新書)で氏が推薦する10曲に入っていたからだ、氏の本ではビゼーは当時の音楽界で鳴かず飛ばずだったが、「アルルの女」で成功して自信をつけた、2年後に「カルメン」を作曲したが、その翌年(1875年)の初演から3か月後に死亡したとある、まさか没後150年目たっても日本で多く演奏されるなんて想像できなかったでしょう、感慨深いものである
  • 「アルルの女」の作風からは同じビゼーが「カルメン」を作曲したとは信じられないが、第3楽章のイントロなどを聞くと、「アルルの女」っぽいビゼーらしさが出ているな、と思った

物語について

舞台はセビヴィリア、当時の大都会、ホセの故郷から700キロも離れている、小宮正安著「オペラ 楽園紀行」(集英社新書)ではカルメンについて以下のような観察が示されている

  • カルメンにはスペインらしい要素がぎっしり詰まっている
  • 当時、産業革命の成功と資本主義の発達により欧州各国は発展していたが、市民は将来に漠然とした不安を抱いていた
  • このため異国へ寄せる熱烈な思いが生まれた、ビゼーの故郷フランスをはじめ北ヨーロッパに国にとってはスペインはあまりに魅力的だった
  • こうした渦中にあって「カルメン」もスペインに寄せる憧れを踏まえた楽園オペラだった
  • ホセにとっての楽園は生き馬の目を抜くような大都会セヴィリアではなく、のどかな故郷であった
  • こうした状況でカルメンと出会うと、カルメンはホセに大都会の軍隊にはない自由を強調したが、カルメンの自由は定住社会とは正反対であった、彼女は危険を承知の上で恋愛だけでなく、人生そのものに自由を求め、大都会に代表される定住社会を嫌悪した
  • ビゼーも当時主流であったグランドオペラに一石を投じてカルメンを作曲した、ビゼーとカルメンの両者には既存の社会に定住しない潔さである
  • カルメンのような自由な生活を送るにはそれなりの力が必要だということをホセは気づいていなかった、カルメンのような徹底した自由を獲得できないホセは奔放なカルメンとの生活に疲れを覚えた
  • しかし、一度非日常の魅力を知ってしまうと元の世界に復帰するのはあまりに困難だ、ホセがその典型だった、ホセは自由奔放なカルメンに惹かれながらも、彼女が忌み嫌う定住社会への思いを捨てきれないために悲劇は起こった

時代背景がよくわかった、新聞などは人々に自由が何よりも大事だと思い込ませているが、カルメンの生き様の通り自由に生きるには力がいるし、責任が伴う大変なものだ、戦前の反動であろうが自由の礼賛は人々をミスリードしていると思う、自由と規律・責任は常にセットだ、などとも感じた

演出について

  • この日は、第1幕と2幕は同じ舞台、ホセのいる駐屯地(たばこ工場かもしれないが)とそこに隣接するロマのジプシーのテントのようなものが並んでいる配置、第3幕はがらりと変わり時間も現代になり、空港かホテルのロビーと思しき場所、密輸団の集団が密輸品の税関のチェックを心配している、第4幕は闘牛場の赤いテントの前という設定だった
  • 今回の演出についてイリーナは、「オペラを演出するときはストーリーを歌で伝えることを一番大切にしているので、物語を伝えるのに妨げになる要素を省きました」と述べ、「公演ビジュアルや、カルメンの衣裳はスペインに寄せてもらいましたが、本番ではスペインの民族性が濃い要素を除いています」と述べている
  • そして、「カルメン」にはロマの人々が登場しますが、このプロダクションでは、現代では東欧に多い彼らに焦点を当てるのではなく、想像上の世界を作り上げますとし、「今から20、30年後の近未来を舞台に、“ノーマンズランド”(誰にも支配されない中間地帯)で旅をしながら生きる人々を描きますと説明し、「第1幕の舞台美術のイメージは、“美しいガレキ”です」と述べている
  • 実際に鑑賞してみて、闘牛士のエスカミーリョと第4幕の闘牛場の場面だけはスペインを感じたが他の場面や衣装はスペイン色が確かになかったように思った、こうした演出は小宮正安氏の所論からするとおかしいということになるが、このような演出がむしろ最近の欧州では主流なのでしょう
  • また、本プロダクションの特徴として、「長くなりがちなレチタティーヴォをすべてカットしました」と明かす、イリーナは「どんなに歌手が素晴らしくても、音楽のないしゃべりが多くなると、歌う時のエネルギーと同等のものにはなりません」と述べているがセリフに相当する部分はある程度は残していたと思う、演奏時間も通常のものとあまり変わっていない
  • 総じて、スペイン色を出さない点と特に第3幕の時代設定に違和感があるが、全体としては奇抜なところはなく、許容範囲だと思った

歌手について

  • タイトルロールのピンチヒッターとなった加藤のぞみであるが、声量、歌唱力共に素晴らしかった、見た目もカルメンにふさわしい単なる美人タイプではないところがよいし、へそ出しまでしてジプシー女をよく演じていた、本日のMVPでしょう
  • ホセの古橋郷平はスリムな体形で口元にひげを少し生やし精悍な感じがして、田舎出身の母と恋人を愛する真面目な軍人という感じがしなかった、容貌がライバルのエスカミーリョの与那城敬と同じような感じがして違和感があった、また、歌については特に第1幕で声量不足を感じたが、2幕以降は調子が出てきたようだった
  • エスカミーリョの与那城敬だが、調子が悪かったのだろうか、声が細くオーケストラの演奏に負けて4階席の私のところにはよく響いてこなかった、ただ、ピンク色の衣装は非常に似合って闘牛士のイメージにピッタリだった
  • ミカエラの七澤結は、歌は素晴らしいと思ったが化粧がイマイチだ、目の周りが黒くなりすぎて、とても田舎の純情な娘と言う感じには見えなかった

指揮、演奏について

  • 沖澤のどか指揮の読響の演奏は素晴らしかった、メリハリがあってよかった

 

楽しめました、この日は「カーテンコール時の写真撮影が可能」との張り紙がホワイエに何か所か出ていたし、幕間には放送でその旨伝えていたのは評価できる、どんどん写真を撮ってもらい、SNSなどで拡散してもらうのが知名度向上、ファン増加に大きな効果があると思うので是非今後も続けてもらいたい、この点は先日の藤原歌劇団より素晴らしいと思った


歌劇「影のない女」をテレビ観劇する

2025年02月09日 | オペラ・バレエ

バーデン・バーデン復活祭音楽祭2023、リヒャルト・シュトラウス「影のない女」(全3幕)をテレビで観た、2023年4月5日・9日バーデン・バーデン祝祭劇場イースター・フェスティバル、あまり上演される演目ではなく、日本でも新国立で1回上演されただけのようだ

演出/リディア・シュタイアー
指揮/キリル・ペトレンコ
管弦楽/ベルリンフィル

出演

皇帝:クレイ・ヒリー
皇后:エルザ・ファン・デン・ヘーヴァー(Elza van den Heever、1979、南ア)
乳母:ミヒャエラ・シュスター
パラック:ヴォルフガング・コッホ
パラックの妻:ミナ・リザ・ヴァレラ

観劇した感想を述べたい

演出について

  • リディア・シュタイアー(女性)による演出だが、最初の場面では10個くらいのベッドが壁に向かって並べられている霊界である女子修道院の室内、そこにこのオペラのキーとなる女子修道女が寝ている、そのセットの裏側は染め物師のバラック夫婦の作業場、これも壁に小部屋がいくつも並び中でパートの女性だろうか染め物の作業をしている、この2つが場面転換しながら物語が展開される演出であった
  • 演出のリディア・シュタイアーは、テレビで「この演目はわかりやすく楽しめると同時に感動する、感性にあふれた素晴らしい作品なので、楽しめると同時に、考えさせる演出にしたい、上演時間が長く内容が複雑なので舞台上はかなり抑えた演出にした、ストーリーをわかりやすく示し、さらに「人間として生きることへの問い」にも焦点を当てた」と述べ、舞台を女子修道院の寄宿学校に置き換え若くして妊娠した女子生徒が見た悪夢として全体を構成している、と説明されていた

  • ストーリーをわかりやすくということだったが、修道院の妊娠した女子生徒が最初から最後まで何回も登場するが、その役割がさっぱり分からなかった、妊娠していると言ってもお腹は膨らんでいない、この女子生徒はセリフは全くない、演技だけだ、そして最後には舞台に一人残り、舞台上にこんもりと積み上げされた砂山を両手で崩してめちゃくちゃにして終演となる、これが何を意味しているのかとても1回観ただけでは理解不能だった
  • このような時代背景の置き換えははやりなのだろうがその意図がよく理解できない演出が多いのは不満である、「観客がそれを考えろ」と言うことなのかもしれないが私はそのような姿勢は自分勝手だと思うがどうだろうか、「あの演出は何だろう?」と議論を巻き起こすためにわざとわかりにくくしてるとしか思えない

歌手について

  • 一番注目したのは、皇后役のエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーだ、初めて見る歌手だが、容姿も皇后らしく、色っぽいし、美貌だし、歌唱力もあると思った、彼女はMETにも出演しているし、他の劇場でもタイトルロールを務めるほどの歌手のようだ

  • 一方、皇帝や染め物師夫婦は3人とも超太目の俳優、染め物師夫妻はこのオペラでは重要な役割をするがそれにふさわしい愛らしさが二人ともあって微笑ましかった、特にバラックの奥さん役のミナ・リザ・ヴァレラが強烈な個性を発揮して演技に歌に活躍していたのが良かった

指揮者について

  • ドイツでの公演なのでペトレンコは拍手喝さいを浴びていた、人気なんでしょう、演奏は初めて聴くオペラなので評価できないが、悪くはなかったと思う

音楽について

  • この演目はリヒャルト・シュトラウスによる作曲で1918年に初演された、サロメ、エレクトラ、ばらの騎士、ナクソス島のアリアドネのあとの作品である、昨年、岡田暁生氏の「リヒャルト・シュトラウス(作曲家、人と作品)」を読んだが(その時のブログ)、同書で岡田氏は「影のない女」について辛辣な論評を述べていた

  • 曰く「この作品にはシュトラウスの創作力の相当に深刻な衰えが刻印されている、評論家のベッカーは安手のワンパターンの旋律、わざとらしい情熱の高揚、力ずくの盛り上げるパターン、心理学的で描写的な作曲技法などの使い尽くされた決まり文句しかそこからは聞き取ることができないと評した」とし、シュトラウス自身も作品の出来栄えについて必ずしも満足していないと紹介していた
  • 私ははじめて聞くオペラなので論評はできないが、そんなひどいとも感じなかった、第2幕など良いと思った

楽しめました

あらすじ

第1幕

舞台は架空の神話世界、皇帝はカゼルに化身した美女を皇后とした、彼女の正体は霊界の王カイコバートの娘、王の使者が皇后の乳母にメッセージを伝えに来る、「3日以内に皇后が影を手に入れないと皇帝は石にされ、彼女は霊界に戻される」、この世界は「影」がないと人の子を宿せない、皇后は影を求めて人間界へ向かう、

皇后と乳母が向かった先は貧しい染め物師夫婦の家、夫の兄弟たちが我が物顔で居候している、ふがいない夫に内心失望する妻、そんな彼女に乳母がアプローチしていく

第2幕

皇后の乳母はバラックの留守中に魔法で魅力的な男を呼び出し妻を誘惑する、皇帝は探していた鷹に出会ったことを喜ぶが「小屋にいます」と置手紙を残したはずの妻がひそかに人間と会ってことに気づく、乳母は薬でバラックを眠らせ再び魔術で男を呼び出す、またも幻惑された妻は男の手に・・・

皇后は自分のせいで人間たちが苦しんでいると罪の意識にさいなまれるようになる

第3幕

とらわれの身になったバラックと妻はお互いの存在に気づかないまま相手を思いやる、皇后と乳母は霊界の入口にたどり着く、念願だった人間の影を前に皇后は影はいらないという、そして父の裁きを待つ皇后、そこで下される審判は・・・


藤原歌劇団創立90周年記念公演「ファルスタッフ」を観劇

2025年02月05日 | オペラ・バレエ

ヴェルディの オペラ「ファルスタッフ」全3幕を観劇した、場所は東京文化会館 大ホール、3階D席6,000円、8割がた座席は埋まっていた、2時開演、5時終演

「ファルスタッフ」はヴェルディの最後の作品で喜劇、1893年ミラノスカラ座初演、初演の時にヴェルディは79才になっていた

歌劇団の宣伝文句は、太鼓腹の老騎士に学ぶ "人生哲学"「ウインザーの陽気な女房たち」が男性社会に物申す!?オペラの巨匠ヴェルディの終着点は、シェイクスピア原作の極上喜劇だった、とある

原作:シェイクスピア『ウィンザーの陽気な女房たち』
台本:アリーゴ・ボーイト
総監督:折江忠道
演出:岩田達宗

出演:
ファルスタッフ:上江隼人
フォード:岡昭宏
アリーチェ(フォード夫人):山口佳子
ナンネッタ(アリーチェ娘):光岡暁恵
フェントン(ナンネッタ恋人):中井亮一
メグ・ページ:古澤真紀子
クイックリー夫人:松原広美
カイウス(医師):所谷直生
バルドルフォ(使用人):井出司
ピスト―ラ(使用人):伊藤貴之

指揮:時任康文
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:藤原歌劇団合唱部

この日の公演について

  • この公演は藤原歌劇団創立90周年記念公演で、ラストを飾る演目
  • 開演45分前に到着して座席に座ると、これから劇団総監督折江忠道による作品解説がありますとアナウンスがあり驚いた、事前にそのような案内が公表になっていただろうに見逃していた、早めに来てよかった
  • 体形がファルスタッフそっくりな総監督が舞台のカーテン前に手話通訳の女性と一緒に現れ、大きな生声で自己紹介と来場の挨拶をされた、その後マイクを使い作品解説をしてくれたのは良かった
  • あらすじや登場人物の紹介を除いてポイントとなるところを簡単に記すと、この作品はエリザベス女王がシェークスピアの「ヘンリー4世」を見て感動して、そこに登場するファルスタッフが恋する物語を観たいと述べたのにシェイクスピアが応えて「ウィンザー城の陽気な女房たち」を作り、ベルディがオペラにしたもの、登場人物が10人と多く3幕6場の早い展開である、この作品で言いたいことは「人生自分の信ずる道をどんなことがあっても歩め、そうすればうまくいく、人生は冗談のように生きよ」ということだ、このオペラは歌の旋律で聴かせることに加え10人の歌声が縦横に重なりあって得も言われぬ構築力が見られることに特徴があり、それは1幕2場の9重唱や3幕2場の大フーガがそうだ、などの説明があった
  • 最後に次期総監督は角田和弘氏だとしてご本人が登壇して挨拶された

観劇した感想を記したい

  • 「ファルスタッフ」はあまり聴きこんだ作品ではないので論評は全体的な印象しか書けないが、今日の歌手、オーケストラ、演出はいずれもよかったと思った、ファルスタッフの上江隼人は最初こそ声量がイマイチだと思ったが段々調子が上がってきた
  • 舞台の場面転換は舞台上の円形の床に乗った舞台セットを人力で押して回転させ、裏表で別の場面を見せるやり方で、演劇でこのような舞台転換は観たことがあったが、オペラでこのようなやり方を観たのは初めてだった、機械のみで回転させることもできるのであろうが、手作り感を出すためにあえて人力も使って回転させる方式を採用してるのだろうと思った
  • いずれの舞台セットもオーソドックスな感じで良かったが、一番最初の「宿屋ガーター亭」のセッティングが何となく自分の抱いていたイメージと違っていた、階段状の室内になっていて宿屋と言う感じがしなかった
  • 劇の盛り上がりからすると3幕2場の「月明りが照らす公園。大きなオークの木の下」が一番盛り上がってよかった、歌手たちの演技・衣装・照明や歌も、演出もいずれも最後の大団円の盛り上がりを見せて楽しかった
  • 女性陣の4人だが、アリーチェ、メグ、クイックリーの3人は友達だし年齢も同じくらいの母親世代だが、ナンネッタはアリーチェの子供だから1世代若いはずである、ところが衣装や髪形などの外見上は世代の違いは感じなかったのでちょっと奇異に思った
  • セリフについては現代でよく使用される用語に置き換えて適宜使用(翻訳)されていたのはわかりやすかった、例えばファルスタッフの肥満をメタボと言ったり
  • 総監督も説明していた「人生を自分の信ずるところに従い歩め、冗談のように生きろ」とか、劇団宣伝文句の「太鼓腹の老騎士に学ぶ "人生哲学"」だが、自分は冗談云々についてのファルスタッフの人生哲学には感情移入はできなかった、ファルスタッフは反面教師でしかないと思ったがそれは人それぞれで良いのでしょう
  • この日の管弦楽は時任康文指揮の東京フィルであったが素晴らしい演奏だと思った、メリハリが効いた良い演奏だったと思う、この日の東京フィルは先日の阪田知樹リストピアノ協奏曲公演の際に見られた楽団員の元気無さそうな印象は感じられたかった、カーテンコール時にオーケストラピットも照明が当てられたのでオペラグラスで覗いてみると皆さん立ち上がって舞台の歌手たちに拍手を送っていたし、笑顔で隣どうしの同僚と感想を述べあっているような感じがして安心した

楽しめました


ウィーン国立歌劇場「フィデリオ」のストリーミング鑑賞

2025年02月03日 | オペラ・バレエ

オットー・シェンク演出の「フィデリオ」をウィーン国立歌劇場のオットー・シェンク追悼無料ストリーミングで鑑賞した、2016年1月14日の公演、日本語字幕あり、約2時間30分

無料ストリーミングと言ってもコストはかかるので映像の中でOMV(オーストリアの企業)とLEXUSのCM映像が流れていた、OMVはメイン・スポンサー、LEXUSはジェネラル・スポンサーとエンドロールに出ていた

指揮者/ピーター・シュナイダー(Peter Schneider、1939、墺)
演出/オットー・シェンク

出演
フロレスタン/クラウス・フロリアン・フォークト(Klaus Florian Vogt、1970、独)
オノーレ/アンジャ・カンペ(Anja Kampe、1968、伊)
ドン・フェルナンド(大臣)/ボアズ・ダニエル(Boaz Daniel)
ドン・ピサロ(刑務所所長)/エフゲニー・ニキーチン(Evgeny Nikitin、1973、露)
ロッコ(看守 )/スティーブン・ミリング(Stephen Milling、1965、デンマーク)
マルツェリン(ロッコ娘)/ヴァレンティーナ・ナフォルニタ(Valentina Nafornita、1987、モルドバ)
ジャキーノ(門番)/ヨルグ・シュナイダー(Jörg Schneider)

鑑賞した感想を述べたい

  • シェンクの演出であるが、この演目については少し不満が残った、フィデリオの第1幕と2幕の大部分は刑務所内、フロレンスタンが閉じ込められている独房が舞台なので暗い、特に独房の場面が暗すぎたのではないかと感じた、これでは観客席からはほとんど歌手が見えないと思われる、今まで観た他の演出家のフィデリオではどうだったか覚えていないが、歌手だけはほのかな明かりでしっかりとわかるように照らしていたのではないか
  • 第2幕ののフィナーレは、大臣が人民と共に刑務所に入ってきてフロレンスタインの解放を喜ぶ場面、外から青い空の明かりが存分に入り込んで明るい将来を示すような開放的な場面となるので、その正義が勝つ明るい雰囲気をことさら強調するために前場の独房内の場面は必要以上に暗くしたのかなと思った

  • 歌手陣は知らない歌手ばかり、主要な登場人物はみんなよかったが、ロッコの娘のマルツェリンを演じたヴァレンティーナ・ナフォルニタだけはあまり声量が豊かではなく、この日の調子はイマイチだったのかなと思った
  • フロレンスタンについてだが、独房に2年も閉じ込められろくに食事も与えられていないにもかかわらず、フィデリオが身を張って救出すると突然、声量豊かに歌い出すというのはどうなのかなと思った、そこは演劇だから良いのでしょうが、何か工夫が必要だなと感じた

  • ベートーヴェンの音楽とオペラの内容は最後の大臣が来るまでの全体の3分の2くらいは退屈で変化の乏しい感じがしたが、フィデリオが自分はフロレンスタンの妻であることを名乗って以降が劇的な展開となり、音楽的にも非常に良い感じになるのが対照的だなと思った

楽しめました

さて、昨日は節分、もう小さい子供もいないので豆まきはしなかったが、恵方巻とイワシを買ってそれぞれ昼食と夕食に食べた

 


「アンドレア・シェニエ」ウィーン国立歌劇場ストリーミングで鑑賞する

2025年01月31日 | オペラ・バレエ

ウィーン国立歌劇場が先日亡くなった演出家オットー・シェンクを追悼して彼の7作品を無料で配信していたので、その中から「アンドレア・シェニエ」を選んで鑑賞してみた、日本語字幕付きが有難い、収録日は April, 29, 2018

作曲:ウンベルト・ジョルダーノ(Umberto Giordano、1867年-1948年)
指揮者: マルコ・アルミリアート(Marco Armiliato)
演出: Otto Schenk

出演:

マッダレーナ・ディ・コワニー/アンニャ・ハルテロス(Anja Harteros、1972、独)
アンドレア・シェニエ/ヨナス・カウフマン(Jonas Kaufmann、1969、独)
カルロ・ジェラール/ロベルト・フロンターリ(Roberto Frontali、1958、伊)

ベルシ(召使) /イルセヤル・ハイルロワ(Ilseyar Khayrullova)
グレフィン・ディ・コワニー(伯爵夫人) /ドナ・エレン(Donna Ellen)
マデロン(老女) /ゾリヤナ・クシュプラー(Zoryana Kushpler)
ルーシェ(シェニエの友人) /ボアズ・ダニエル(Boaz Daniel)

あらすじ

フランス革命の頃のフランス。革命志向の詩人アンドレア・シェニエはロベスピエールの恐怖政治の魔の手中に陥り、反革命の容疑をかけられる。彼の運命は、若い貴族の娘マダレーナ・コワニーと元侍従ジェラールの運命と密接に絡み合っている。二人ともマダレーナを愛し、マダレーナはシェニエを愛している。しかし最後には死が待ち受けており、アンドレア・シェニエとマダレーナ・コワニーは共に断頭台に向かう

感想

  • やはりオットー・シェンクによる演出は良かった、奇をてらったところが全くなく、実にオーソドックスな演出で楽しめた、こういった演出がシェンクらしいのでしょう、フランス革命時の話なので舞台上で3色のフランス国旗がさりげなく使用されている場面が何回かありにくい演出だと思った、そして最後でシェニエとマッダレーナが2人そろって人力車のようなものにのせられて処刑場に連れていかれるところで幕となるが、露骨でない演出で品があってよかった、最近の意識高い系演出家にやらせたらとんでもない場面にするのではないか
  • このオペラは普段あまり見ないので論評するだけのものは持っていないが、ストーリーがわかりやすく、かつ、悲劇のロマンスというだけでなく、終わり方が劇的なので悲劇があまり好きでない私でも楽しめた、こういう終わり方は「トスカ」と共通するところで、最後で盛り上がるところが良い

  • そして、何と言ってもこの作品の主役の二人、タイトルロールのカウフマンとマッダレーナのハルテロスが素晴らしかった、美男・美女の組み合わせで歌も二人ともすごかった、うまかった、最高の組み合わせだ、この舞台を観た人は最高の思い出になったのではないか、というのも、実はこの二人は公演をキャンセルするので有名な歌手だからだ、キャンセル男・キャンセル女と揶揄されているらしい、そういう意味でウィーン国立歌劇場は良くもこの二人の大物をアサインしたものだと感心した、劇場側は開幕までと開幕後も毎日ハラハラしていたのではないか
  • 第3幕目にマッダレーナが革命軍で出世した元召使のジェラールのところにシェニエの命乞いに行く場面で、ジェラールが「自分はあなたが欲しい」とマッダレーナに迫る場面のいつくかの二人のセリフが露骨すぎると思った、曰く、あなたのブロンドの髪の海にこの手を沈めたい、私の体であの人が救われるなら奪いなさい、私は瀕死の体どうぞ奪いなさい私はもう死んでいる、など

存分に楽しめました