ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

ドナルド・キーン「正岡子規」を読む(2/2)

2024年12月18日 | 読書

(承前)

著者が書く子規の詩や思想、著者の見解について私が気になった所を抜粋してみた

  • 子規は文章にやたらと漢語を挿入して母国語の美しさを顧みない日本人を嘲笑し、やたらと英語を使いたがる明治の日本人に苛立った(第4章)、しかし、子規は日本語よりも自分の言いたいことをがよりよく表現できるときは躊躇することなくいい語を使った(第5章)
    コメント
    今に続く日本人の悪弊であろう
  • 子規はエマーソンの評価の基準である「美と崇高」によって日本文学を評価し、近松の浄瑠璃の美に感嘆しても崇高さに欠けシェイクスピアに劣ると評し、その両方を体現しているのが露伴だとした(第4章)
  • ほととぎす第1号に子規は「俳句は何のために役立つかと問うものあれば、何の役にも立たないと答えよう、しかし無用だからと言って私は俳句を捨てない、無用のものは有害なものよりましだからだ、無用の用ということがある」とユーモラスに答えている(第7章)
  • 子規は何千もの俳句を読んで分類したがそこから得た知識から大して恩恵を感じていない、もっぱら芭蕉と蕪村のみからだけ学んだ、ただ子規は芭蕉の俳句を過少評価し、蕪村の俳句の方が自分の理想に近いと評価した結果、蕪村は名声を得た(第8章)
  • 明治28年に書かれた子規の漢詩「正岡行」には自分の仕事が自分並びに正岡家に一種の永続性をもたらしてくれと願っていることが書かれている(第8章)
  • 詩歌のジャンルすべてに子規は関心を持ち続けたが、現在、主に知られているのは俳句の詩人、批評家としての子規である(第9章)
    コメント
    詩歌の批評家としての子規という一面を知らなかった
  • 万葉集以外の歴代の勅撰和歌集には西洋や中国の詩人と違って日本の詩人は一般に戦争や地位の失墜など、人間の悩みの原因となる素材を取り扱わなかった、子規はこれを君臣間の交わりが常に親和性に富んでいたからだとしている、また、欧米諸国の詩歌は人間社会の出来事について書き、日本と中国は自然を書くため短くなる、これを日本には優れた大作がないと批判する向きがあるが、高尚な観念や広々と遥かな味わいが、果たして生存競争や優勝劣敗の騒ぎから生じる人間社会のごたごたの中にあるだろうかとしている(第9章)
    コメント
    欧米との比較して日本を批判する人が多いが子規と同様に欧米のやることにこそ批判の目を常に持つべきでしょう、現在でいえば環境問題など
  • 子規は自分が読んでいる書物の評価で大体において厳しく、しぶしぶ称賛の言葉を与えることはあってもむしろ作者の無能を暴露することの方に関心があった、まれな例として樋口一葉の「たけくらべ」に対する賛辞がある(第10章)
    コメント
    私も一葉の作品を読んだが(こちら)、良い小説だと思った
  • 若い画家の芸術的才能をだめにしてしまう伝統的な日本画の教え方の例としていくつか挙げている、例えば、先生が跳ね上がる鯉と浮き草を書けば弟子も跳ね上がる鯉と浮き草を書く、この甚だしい趣向の乏しさはどうしたことか、いかに筆遣いや色彩に優れていても自分で趣向を凝らさなければ、それは芸術ではなく職人的な技術である(第10章)
    コメント
    全くその通りだと思う、芸術に限らず今の大学の研究室でも同じことが起こっているのではないか、日本近現代史について教授が日本罪悪史観の論者なら、弟子が「そんなことはない」と言えば出世できないし、その研究には予算もつかないでしょう、日本中いたるところで同じことが起こっている、多様性が大事だと言うが多様性がないのが学問の世界である
  • 子規は外国文化が日本に入ってくることの是非を問い続けた、子規は意外なことに古い慣習を保持することに賛成である(第10章)
  • 子規は1人の歌人(長塚節)を深く愛していた、それは21歳の男で、二人の間には明らかな肉体関係はなかった、それは子規が体が不自由で病床から動けなかったからだ
  • 子規は普通の愛情に欠けた冷たい理性的な人間、些細なことにも非常に腹を立て、叱り、泣いたこともある、また感情を素直に出さない冷徹な拒絶もあった、女性に対する関心の欠如もあった、母と妹に対して長年にわたって辛抱強く面倒を見てくれたことに対する十分な謝意を示さなかったと言われている(第12章)
  • 子規には欠点もあったが、こうした欠点が子規の作品に対する我々の評価を変えるわけではない、言うまでもないがいかなる時代のいかなる国にも自惚れが強く貪欲で勝手次第でありながら偉大な人物というものはいた(第12章)
    コメント
    全く同感である、品行方正で実力もある人などいない、政治家もそうでしょう、それがわからないのが新聞であり、わかっているのが多くの国民だ、最近、アメリカと日本において話題になった選挙の結果はその良い例でしょう

最後に、

  • この本は子規の生涯について著者が調べた事実を記したものであり子規をモデルにした小説ではない、そのため、わからないことはわからないと書いてある、例えば、現象と本質の違いについて述べた叔父の言葉がなぜ啓示となって子規を感動させ哲学を勉強せずにいられなくなったのか(第2章)、子規が何で愛国的になったのか(第5章)、なぜ短歌に打ち込むようになったのか(第9章)などをわからないとしている、その点で必ずしも面白い読み物ではないかもしれない
  • 本書で子規は俳句や短歌に革命をもたらしたと書いてあるが、その具体的な内容が何なのかずばりと書いてないように思う、俳句については写実を重視し、曖昧さや感情を排除し、言葉の無駄を嫌ったなどがそうなのか
  • いまNHKで司馬遼太郎の「坂の上の雲」を放送している、それを見ると子規が出てくる、まだ半分くらいまでしか見ていないが、そこで描かれている子規が本書で知り得た子規の人物像と全く異なる点に違和感を覚えた、正反対の性格なのだ、いずれが正しいのだろうか
  • 本書で子規と漱石の交わりを書いているがもっとどういう意見の交換をしたのか、どういう交わりだったのか知りたかった、また、テレビ「坂の上の雲」では秋山真之や森鴎外との交わりを描いているが、本書では全く出てこないのを不思議に感じた

勉強になりました

(完)


ドナルド・キーン「正岡子規」を読む(1/2)

2024年12月16日 | 読書

どういうきっかけか忘れたがドナルド・キーン氏の書いた「正岡子規」(新潮文庫)を読んでみた

読後の記憶を整理する意味で、赤線を引きた部分から抜粋して子規の人生の概略をまとめてみた

第1章 士族の子

子規は伊予松山の武士階級の生まれ、外遊びが苦手な子供で、よくいじめられた、家にいて貸本屋から借りた本を読むのが好きで、14才頃から書画会や詩会などをやるようになった

第2章 哲学、詩歌、ベースボール

中学校長の影響で政治集会に参加、叔父の影響で哲学に興味を抱き、西洋に目を向け英語で小説などを読む、その後松山の俳人らの影響もあり詩歌に魅了され、身体の弱さを克服するためにベースボールに熱中する

第3章 畏友漱石との交わり

突然喀血する、大学予備門で偶然に漱石と出会い友達になった、漱石は子規の作品を賞賛したが欠点も指摘した、アイディアを得るためにもっと本を読めと言った、子規は漱石の苦悩を理解しなかった、俳句を生涯の仕事とする自覚をもつ

第4章 小説「銀世界」と「月の都」を物す

小説を読むのが好きだった、馬琴・西鶴・近松・露伴・逍遥・四迷など、詩人より小説家が金になると思い、言文一致の小説に反対し文語体で書いた小説を露伴に送ったが賛辞はなく、詩人で生きていく決意をする

第5章 従軍記者として清に渡る

叔父の紹介で新聞社主の陸羯南(丸山眞男氏がこの人の小論を読めと言っていた人だ→こちら:最後の方のあとがき)が用意した根岸の住宅に引っ越し、新聞「日本」の社員となって詩や紀行文などを投稿し人気を呼ぶ、日清戦争により文化記事を主体にした新聞「小日本」の編集責任者になる、愛国主義者となり従軍するが処遇に落胆し持病を悪化させた

第6章 「写生」の発見

松山に帰り漱石と同居した、「小日本」の挿絵を描く中村不折と知り合い西洋画の写生の重要性を知り自分の俳句の原理にし、無名の俳人蕪村の写生に秀でた句を評価した、脊椎カリエスを発症、弟子の虚子との断絶が起こる、雑誌「ほととぎす」出版を決意

第7章 俳句の革新

「ほととぎす」の発行で俳句芸術の宗匠としての名声を確立し、自分の一派を作ることに熱心になる、子規は感情表現や曖昧さを教えず、自然を忠実に描くことを教えた、子規の健康は悪化し続けた、2度の手術は失敗した

第8章 新体詩と漢詩

17文字では詩人は自分自身を表現できないため、子規は自分の新体詩に詩的魅力を与えないではいられなかった、武士階級に属していた子規は武士の血筋の証として漢詩を作ったが日清戦争の勝利により漢詩は教育の中心的地位を失った

第9章 短歌の改革者となる

晩年になってから短歌に対する関心に目覚め、「歌詠みに与ふる書」で短歌の改革を世に問う、子規は紀貫之の流れを汲むものではなく、宮廷歌人に倣うものでもなく、自分の病気を歌に詠んだ

第10章 途方もない意志力で書き続けた奇跡

子規は随筆により経験と回想を語り詩人や歌人に絶大な影響力を持った、日本画の擁護者となり写生を重視し、伝統的な日本画の教え方を批判する一方、中村不折を称賛した

第11章 随筆「病床六尺」と日記「仰臥漫録」

病状は悪化し、看病をする母や妹の律に癇癪を起すなどつらく当たった、一方看病疲れの律が病気にならないか心配とも書いてある、やがて精神に変調をきたし自殺も考えるようになった

第12章 辞世の句

子規は死の三日前まで新聞「日本」に「病床六尺」を書き続けた、しかし、ついに明治35年9月19日に亡くなる、享年34才

(続く)


山本文緒「無人島のふたり」を読む

2024年11月29日 | 読書

他の方のブログを読んで山本文緒著「無人島のふたり(120日以上生きなくちゃ日記)」(新潮社、2022年10月刊)という本があることを知り読んでみた、ページ数が少ないので2時間くらいで読了できる

本の題名は著者が夫君と一緒に闘病中の自分たちがまるで無人島で暮らしている感じがしたことによるもの、また、120日は余命宣告された日数である

女性作家の山本文緒さん(2001年「プラナリア」 で直木賞受賞受賞)は2021年4月に膵臓がんと診断され、その時既にステージ4bだった、治療方法はなく、抗がん剤で進行を遅らせることしかできない状態になり、余命4か月と言われる

本書は著者がこのような状況で作家として出版を前提に5月24日から亡くなる直前の10月4日までの日々を綴った記録(小説)であり、読者に対するお別れの挨拶である

著者は2006年に軽井沢に引っ越して夫君と一緒に暮らしていた、東京で暮らしていた時と比べ健康的でストレスのない生活、酒もたばこもやらないのに「何で私が?」の思いがあるだろう、しかも母親はまだご存命中だ

病気になった方の闘病記などはあまり読む気がしてこなかった、読めば自分の体の諸症状がすべて悪い病気ではないかと心配になってくるし、暗い気持ちになるからだが、わずかに「わたし、ガンです、ある精神科医の耐病気」(頼藤和寛、文藝春秋)、「がんと闘った科学者の記録」(戸塚洋二、文藝春秋)の2冊だけ読んで良い本だと思った

今回、なぜ山本さんの本を読む気になったのかはっきり思い出せないが、自分がシニア世代になり、いつ同じ境遇になってもおかしくないという思いがあったのかもしれないし、その時の心構えも必要だと思ったのかもしれない

3冊目となる体験記であるが、いずれの本も死を前にしてきちんと記録を残すということができる凄さにただただ感銘するだけである、本だけではなくブログなどで同じようなことをしている普通の人々も少なくないだろうが本当の頭が下がる

本書を読んでわずかな救いは、著者には支えてくれる夫君がいたことだ、これは大きいと思う

山本文緒さんは2021年10月13日に軽井沢の自宅で永眠された、享年58才、安らかにお眠りください


松井今朝子「一場の夢と消え」を読む

2024年11月05日 | 読書

松井今朝子「一場の夢と消え」(文芸春秋)をKindleで読んだ、著者の小説を読むのは初めて、著者は1953年生れ、小説家、脚本家、演出家、評論家

京都祇園に生まれ、早稲田大学大学院文学研究科(演劇学)修士課程修了後、松竹に入社、歌舞伎の企画・制作に携わり、退職後フリーとなり武智鉄二に師事して、歌舞伎の脚色・演出・評論などを手がけるようになる。1997年、『東洲しゃらくさし』で小説家としてデビュー、2007年 「吉原手引草」で第137回直木賞受賞

この小説は、「曾根崎心中」、「冥途の飛脚」や「国性爺合戦」など数多の名作を生んだ近松門左衛門の創作に生涯を賭した人生を描いたもの

歌舞伎や浄瑠璃などについては入門書を読んでも面白くなく、歌舞伎役者などを主人公にした小説を読む方が好きだ、例えば、以前もこのブログで紹介した宮尾登美子の十一代目市川團十郎とその妻の人生を書いた「きのね」や、河竹黙阿弥の人生を書いた奥山景布子の「元の黙阿弥」(ブログはこちら)、歌舞伎の裏方の世界を描いた永井紗耶子の「木挽町のあだ討ち」(ブログはこちら)などだ

歌舞伎を鑑賞するとき、近松門左衛門の名前を何回も見てきたが勉強する機会はなかった、最近、この本が刊行されたのを知り読んでみたくなった、やはり日本人であれば、歌舞伎ファンであれば近松のことを知っておかなければいけないでしょう

越前の武家に生まれた杉森信盛(のちの近松門左衛門)は浪人をして、京に上っていた。京の都で魅力的な役者や女たちと出会い、いつしか芸の道を歩み出すことに。

竹本義太夫や坂田藤十郎との出会いのなかで浄瑠璃・歌舞伎に作品を提供するようになり大当たりを出すと、「近松門左衛門」の名が次第に轟きはじめる。

その頃、大坂で世間を賑わせた心中事件、事件に触発されて筆を走らせ、「曽根崎心中」という題で幕の開いた舞台は、異例の大入りを見せるのだが・・・

この本を読むと近松の浄瑠璃や歌舞伎に関する考えなどが示されているところが多く参考になった、そのいつくかを書いてみると

  • 当時、かぶき狂言は役者が書くものだった、能狂言の物まねで始まったのが歌舞伎狂言であり、見物客を笑わせるのが主眼だった、歌舞伎は浄瑠璃と異なり役者が多く、それぞれの役者は自分が目立つように自分のセリフを作者に無断で変える、それをすると筋がおかしくなってもかまわない、作者はそれぞれの役者が自分の見せ場があるようにセリフを考えなければならない
  • 浄瑠璃作者が歌舞伎狂言を簡単に書けるわけではない、両者は別物だ、浄瑠璃は話を組みたてて詞章を考えればよいが、歌舞伎は役者それぞれの得意な芸にセリフをどう当てはめるか考えなければならない
  • かぶき狂言に剽窃はつきもので、自分も能の謡やその他もろもろの和漢書から引用して作品を作った、むしろ自分の作品を他人が剽窃するのは一種の誇りと言ってもよい、この話は奥山景布子の「元の黙阿弥」でも出てきた話だ、当時は著作権などない時代、それを最初に確立したのは黙阿弥だったと書いてあった

  • 浄瑠璃は七五調にすればよいというものではない、それでは耳にセリフが引っ掛からず、さらさらと聞き流される
  • 役者は誰にでもできる芸をやっていただけでは売れないし、作者も誰もが思いつく筋ばかり書いていては長く務まらない、興行師も道具方その他誰にでも無理をさせて、その人のためならだれもが無理をする人物だからこそ務まる稼業だ
  • 役者は贅沢ができたとしても京の極寒の冬の冷たい板敷の床を裸足で踏むことを考えると他人がうらやむような稼業では決してない

  • 声量に恵まれた太夫や美声に恵まれた太夫は、自分の声を聴かせたい気持ちが強く、「歌う」ことに傾きがちで、「語り」本来の役割を忘れてしまう恐れがある、歌と語りの相克があるが「語り」の本分に徹してきた
  • 信盛が豊竹座から引き抜いた政太夫と対面したとき、政太夫が自分の声量が少ないのを卑下して自分の声がらが無いことを言うと、信盛は「自分を限るまいぞ、よいか、人は自分で自分を見限ってはならんのだ」と言う、「天性は天の定めるところ、人は確かにその定めを引き受けなければならない、しかしそこに安住し、自らを限って目の前に立ちふさがる壁からいつも逃げ出してしまえば、天から与えられたこの一生が、何やら物足りない気はせぬか」と諭す、その通りだと思った
  • 同じ劇場で披露される芸でも、操り浄瑠璃と歌舞伎芝居は演じるほうも見るほうも相当の懸隔があって、太夫と役者は気質の違いも明瞭だ、総じて太夫は物語の世界を司る孤高の身だけに、悪くするれば尊大になりやすいが、独歩の姿勢を貫く分、自制に富んだものが多く、片や歌舞伎役者は舞台を共にする仲間との絆が何より大切だから、人当たりが良くても内実が伴わないきらいがあるし、ともすれば自制が書けていて享楽に身をゆだねる人が多かった

  • 竹本義太夫は、浄瑠璃の歌を何度も繰り返して読んでいると、そこに絵が浮かんでくるので、その絵を写し取るような形で語るのだと極意を述べた、そして人形遣いもその同じ絵を見て舞台でしっかりした形にしなければならない、もちろん絵は作者の心にあるのだからそれを太夫と人形遣いに見えるようにすることが仕事である
  • 虚と実をつなぐ薄い皮膜のようなものが芸である、その芸こそが虚を実に変え、実を虚に変えて人の心を慰めるのじゃ
  • 紀州出身の吉宗公は宝永の大津波の被害にあった国を立て直した功績があるが、倹約が過ぎて庶民の生活まで細かい口出しをするようになり、舞台の演劇にも贅沢禁止の影響がでた、また、曾根崎心中などの心中ものが信盛の得意演目となったがこれにも幕府は心中するものが増えると難色を示したので、信盛は芝居ももう終わりだと思った
  • また、セリフの中に江戸のご政道を皮肉るようなものがあるのは幕府批判として周りの者が非常に神経質になった、江戸には目安箱ができて信盛の浄瑠璃の文句を批判する投書があった、もともと目安箱は役人の不正などをあぶり出す目的だが違う目的に使用され自分が批判の対象になったことに不愉快になった

この小説を読んでいると近松の作品の多くのものは現実の世界で起こっている心中や事件などに接し、すぐさまそれを題材にして物語を創作をするということが多いのがわかる、程度の差こそあれ、小説や作曲というような創作は皆同じなのかなと思った

この小説の中には信盛を取り巻くいろんな人物が出てくるが、Kindleには巻末の解説が出ていないので、どこまでが史実でどこが著者が作った架空の人物やできごとかはわからないが、信盛の人間らしさを描いた部分は興味深く読んだ、例えば、

  • 自分の二人の息子のうち次男坊が定職にもつかず、ブラブラし、金の問題も起こしたりして信盛を心配させる、信盛も仕事が忙しくきちんと子供と向き合ってこなかったことを悔いるが、最後は・・・
  • 著者は小説中で信盛に「芝居小屋では役者同士のもめごとを捌くのに苦労し、家では嫁と姑のいさかいをとりなすのが大変でありたまったものではない」と言わせている、我々凡人と同じような人間臭い悩みを抱えていたのだと親近感がわいてくる
  • 信盛は自分は武家の次男坊に生まれたが武家を継がず、世間から見ればろくでもない商売である芝居の世界に入り親の期待を裏切ったことを後ろめたく感じていた、当時の狂言作者や役者などは社会的地位がそれほど高くなかったのでしょう
  • 武家の家を出て、近松寺にこもって読書三昧の生活をして知識つける、それがその後、公通という公家の目に留まり、公通の代役で浄瑠璃を作ることになり、公通の紹介で舞台の世界に入り、狂言作者として成功のきっかけをつかんだ、努力が実を結んだと言える

どこまでが実在の人物かという点でいえば、公家の公通、友人の英宅、大阪の芝居茶屋の女将の加奈、丹六大尽(にろくだいじん)という金主などが挙げられよう、これは小説を面白くする存在であり、架空であったとしても許されると思う。偉大な人物の来し方には、これらの人たちに類した支援者がきっと周囲にいたのでしょうし、その人たちを引きつけて自分の支援者になってもらうような魅力が主人公にあったのでしょう

楽しめた小説でした


A Random Walk Down Wall Streetを読む

2024年10月27日 | 読書

A Random Walk Down Wall Street(The Best Investment Guide That Money Can Buy) (13th Edition, Bruton G. Malkiel)をKindleで読んでみた、邦訳は「ウォール街のランダムウォーカー」、2百万部を売ったというミリオンセラー

著者は、1932年生まれ、プリンストン大学経済学博士、同大学経済学部長、大統領経済諮問委員会委員、エール大学ビジネススクール学部長、アメリカン証券取引所理事などを歴任、世界的な投信会社バンガードの社外取締役としても活躍した人だ

株式投資関係ではかなり有名な本で、内容はいろんな人が紹介しているので知っていたが英語版で読んでみた、英語のレベルは初級から中級で、金融や投資、税金などの専門用語もありわかりにくいところもあったが、Kindle翻訳の助けを借りながらも、それでもわからないところは読み飛ばして、とにかく最後まで読んだ

この本は初版は1973年、50年前だが、読んだのは最新の13改訂版である、最近のデータや事象なども織り込んでいるので古い本とは思えない

ランダムウォークの意味するところは、株価の短期的な先行きはいかなる理論を駆使しても、専門家ですら、予測できない、というものだ

この本で著者が主張していることは極めて簡単で、次のことに尽きると思う

  1. 金融資産の運用をするなら個別の銘柄を選ばずに、コアな部分はS&P500などの広範囲に分散したインデックスファンドに投資する
  2. 投資はタイミングを計らず、今すぐ積み立て投資を開始し、長期間保有する

この結論が正しいことを証明するためにデータを示し、株式投資の理論を批判し、著者提言の方法以外では継続して市場に勝ち続けることは「まれ」であることを説明しているのが本書である

著者の主張に同意する、この市場平均インデックスの投信ができたおかげで運用の素人でも長期間積み立て投資したり、一括投資をして、長期間保有できればかなりの確率で良い運用成果を得られるようになった、私も実践している

若い人ほど、給与天引きのようにS&P500(あるいは全世界株式投信)を毎月定額、積み立てすべきでしょう、それが生活防衛となり、将来のリタイアライフを豊かにしてくれるでしょう

結論は簡単だが、それを証明するのに膨大な量の記述があるのが本書であり、興味がある人は読んでも良いでしょうが、現役で働く忙しい人は結論だけ知れば十分でしょう

将来、金の心配をせずに済むように、特に若い人たちが知るべき知識だと思う、また、定年退職して退職金や貯金で投資を始めようとする人が損をしないために読むべき本だと思う


高階秀爾「カラー版名画を見る眼Ⅰ(油彩画誕生からマネまで)」を読む(追記あり)

2024年10月24日 | 読書

2024/10/24 追記

本日の新聞で高階秀爾氏が92才で亡くなったことを知った、テレビにお元気な姿で出演しているところを見たばかりであるというのに残念である、ご冥福をお祈りします

新聞のニュースはこちら

2024/6/9 追記

本日のNHK「日曜美術館」で、高階秀爾氏の「カラー版名画を見る眼」を取り上げ、氏がこの本について語る番組をやっていた、氏がどういう人かテレビで見る貴重な機会となり有意義だった。来週の日曜日に再放送があるし、NHK+(プラス)でも見れるので、興味がある方はご覧ください

2024/3/15 当初投稿

高階秀爾「カラー版名画を見る眼Ⅰ(油彩画誕生からマネまで)」を読んだ。昨年、同じ本のⅡ(印象派からピカソまで)を読んでよかったのでⅠの方も読んでみたくなった(Ⅱの読書感想ブログはこちら)。著者の説明によれば、この本を2冊に分けたのは、歴史的に見てファン・アイクからマネまでの400年のあいだに、西欧絵画はその輝かしい歴史のひとつのサイクルが新しく始まって、そして終わったと言いえるように思われたからであり、マネの後、19世紀後半から、また新しい別のサイクルが始まって今日に至っているからだという。

高階氏は昭和7年生まれ、大学で美術史を研究し、パリに留学、文部技官、東大教授、国立西洋美術館館長などを経て、現在、大原美術館館長となっている。

Ⅰの時と同じように、本書で取り上げている15名の画家の名前と生国、年令、生きた期間を書いておこう。国は現在の国に置き換えているものもある。

  1. ファン・アイク(フランドル地方、1390-1441、51才)
  2. ボッティチェルリ(伊、1444-1510、66才)
  3. レオナルド・ダ・ビンチ(伊、1452-1519、67才)
  4. ラファエルロ(伊、1483-1520、37才)
  5. デューラー(独、1471-1528、57才)
  6. ベラスケス(スペイン、1599-1660、61才)
  7. レンブラント(蘭、1606-1669、63才)
  8. プーサン(仏、1594-1665、71才)
  9. フェルメール(蘭、1632-1675、43才)
  10. ワトー(仏、1684-1721、37才)
  11. ゴヤ(スペイン、1746-1828、82才)
  12. ドラクロワ(仏、1798-1863、65才)
  13. ターナー(英、1775-1851、76才)
  14. クールベ(仏、1819-1877、58才)
  15. マネ(仏、1832-1883、51才)

本書を読み終わって改めて高階氏の絵画に関する見識に感心した。本書は新書版のわずか200ページちょっとのボリュームであるけど、氏が選んだ15名の画家たちが描いた絵の専門的なポイント、歴史的背景などを簡潔にわかりやすく説明されていて非常に勉強になった。次からまた絵を観るのが楽しみになった。

難しいこともわかりやすく説明できてこそ本当の専門家だと思う。難しいことを難しくしか説明できない人は、その難しいことを本当は理解していないからだろう。そういう意味で本書での高階氏の説明に改めて感心した。

さて、今回は、氏の解説で参考になった点からいくつか取り上げて以下に書いてみた。

ラファエルロ

聖母マリアの服装は、教義上特別な意味がある場合を除き、普通は赤い上衣に青いマントを羽織ることになっている

デューラー

人間の身体の四性論、人間の身体の中には血液、胆汁、粘液、黒胆汁の四種類の液体が流れており、黒胆汁の多い人は憂鬱質になり、内向的、消極的で孤独を好むあまり歓迎されない性質とされていた。それが15世紀後半から大きく変わって、多くの優れた人間はみな憂鬱質であるとされるようになった。少なくとも知的活動や芸術的創造に向いていると考えられるようになった。ただ、社交的で活発な多血質と正反対の性格である憂鬱質の人間に世俗的な成功は望めない、人々には認められずに、ただ一人、自己の創造の道を歩むというのが創造的芸術家の運命である。ミケランジェロは「憂鬱こそはわが心の友」と言っている。

レンブラント

彼の人生は明暗ふたつの部分にはっきりと分けられる、地位も名声もあった華やかな前半と失意と貧困の後半、彼の絵もそれに応じて著しく変化した

ゴヤ

彼は1792年ころから次第に聴力を失い、遂には完全に耳が聞こえなくなってしまった。それまで外面的なものに向けられてきたゴヤの目が、人間の心の内部に向けられるようになったのは、それからのことである。

ドラクロワ

彼はロマン派絵画の代表的存在とみなされ、当時新古典派主義の理想美を追求するため先例の模倣のみをこととする形式的な「アカデミズム」から激しい非難や攻撃を受けた。彼が正式にアカデミーの会員になったのは十数年も待たされた挙句、死のわずか5年前であった、しかし歴史の歩みは個性美を主張したドラクロワの美学の勝利を語っている。

クールベ

クールベの作品は当時の市民社会を告発するような社会主義的作品であり、思想的に急進派であったが、画家としてはルネサンス以来の絵画の表現技法を集大成してそれを徹底的に応用した伝統派であった。

マネ

彼の「オランピア」はルネサンス以来の西洋絵画に真っ向から疑問を突き付けた、すなわち西洋400年の歴史に対する反逆だった、彼の絵は全く平面的な装飾性を持ったトランプの絵模様みたいで、この二次元的表現は、対象の奥行や厚み、丸みを表そうとしたルネサンス以来の写実主義的表現と正反対のものであった、それでいて絵に立体感があるのは彼の鋭い色彩感覚のため、マネ以降、近代絵画は三次元的表現の否定と平面性の強調という方向に進む

とても勉強になった。


「決定版 日中戦争」を読む(2/2)

2024年10月16日 | 読書

(承前)

第二部 戦争の広がり

第5章 第2次上海事変と国際メディア

  • 盧溝橋事件、第2次上海事変勃発直後は、国際メディアは比較的冷静で客観的であったが、その後早い時期から変化が見られ、日本に対する批判、中国に対する同情が集まり、日本の孤立を招いていった、中国は国際世論を味方につけるために、積極的に宣伝を活用した、一方日本の宣伝に対する姿勢は中国とは対照的に消極的であり、これが日本の失敗の一因でもあった、当時も、多くの識者によって、宣伝における日本の問題点を指摘されていた
    コメント
    当時のアメリカなどのメディアの日中戦争に関する報道をよく調べて紹介していることは評価できる、特にライフ誌に載った「上海駅頭の赤ん坊」で、その写真は後日、やらせではないかとの疑問が出ていることを紹介しているのも評価できる
  • 日本は満州事変以降、中国の宣伝を黙殺する傾向が強まっていったが、反論がなければ事実承認と見做されるのが国際社会の常識であった
    コメント
    その通りである、これがわかっていないのが当時、および現在の外務省である
  • 蒋介石は、国際社会の支援を得ることにより勝利することを期待して上海での戦いを積極的に推進した、期待に反して対日経済制裁や参戦など具体的な支援をえることはできず敗北したが、長期的には国際社会における中国支持と日本批判という世論の醸成に成功、第二次世界大戦という事変の「国際化」を通して日本は「プロパガンダ戦争」に敗れ、国際的孤立の道を歩むことになる
    コメント
    その通りである、このことを理解しようとしないのが現在の外務省である

第6章 「傀儡」政権とは何か、汪精衛政権を中心に

  • 第1次大戦後、世界は反戦と反植民地が国際思想の一つの主流となった、日本はこの潮流に反して武力を行使して国際問題を解決しようとし、また自らの勢力圏を拡大しようとしたために、その主流から大きく逸脱してしまった、だからと言ってに日本がそういった潮流をまったく無視したわけではなかった
    コメント
    反植民地というが、白人国家が有していた植民地をそのままにする彼らにだけ都合の良い世界秩序である、そして、白人国家で起こった世界恐慌により彼らはブロック経済圏を築き、自ら国際協調路線を放棄した、これこそが国際秩序に対する最初の挑戦ではないか
  • 満州や汪精衛政権には、中国の人々も少なからず加わっていた。彼らがいかなる経緯で政権に加わったのかということはきわめて難しい論点である、待ち望んで協力したわけではないだろう
    コメント
    対日協力者の中国における状況をよく説明しているところは評価できるが、その状況は既に識者により多く指摘されているところなので、なぜ難しい論点なのか分からない
  • 日満関係において満州国は日本の指導下にあり、到底独立国とは言いがたい状態になった
    コメント
    満州国は五属協和を掲げて建国したが、まともな国家運営の能力があるのは近代化した日本だけであったので、建国当初は日本の指導下で国家運営をするのは自然だと思う

第7章 経済財政面から見た日中戦争

  • 日中戦争が本格化した頃のわが国経済は全体として好調で、「持たざる国」などではなかったから、後発の「持たざる国」日本が戦争に至るのはやむを得なかったという指摘もあるが、その説明は少なからず無理がある
    コメント
    景気が良かったから「持たざる国」ではなかったという説明の方が無理があるでしょう、「持たざる国」かどうかは景気の良し悪しとは関係ない
  • 満州事変当時の日本は不況の真っただ中にあった、原因は1930年の金解禁強行による円高不況である
    コメント
    不況の原因は金解禁を決定した1929年11月直前に起こった米国の株価暴落による世界恐慌とそれに応じた欧米各国のブロック経済圏導入による面が大きいと思う
  • 1938年に国家総動員法が制定され、その状況を「持てる国と持たざる国」という構図で理解することによって、国民生活の窮乏化をもっぱら英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ国民は、英米への反感を強め、実はその最大の原因を作っている軍部をより一層支持するようになっていった
    コメント
    納得できない歴史観である、持てる国と持たざる国という構図をどうしても否定したいようだが、その見方に同意できないのは上に述べた通りである

第三部 戦争の収拾

第8章 日中戦争と日米交渉、事変の解決とは

  • 1937年、中国の提訴によって九か国条約会議がブリュッセルで開催されることになった、日本政府は、日本の軍事行動は「中国側の挑発に対する自衛手段」と主張し、あくまで二国間の問題として収拾しようとしていた
    コメント
    この日本の主張はほぼその通りだと思う、満州事変以前、日本軍は合法的に現地に駐留していたところ、赤化中国によりる反日政策で日本軍や日本人居留民に対する殺害・迫害を受け、現地居留民を不安に陥れた、今の彼の国による日本人駐在員やその家族に対する殺害、不当拘束などを見れば想像できるだろう、当時は今よりもっとひどい迫害を受けて大きな被害がでていた
  • 中国は日中戦争に勝利するための戦略として、国際的解決(紛争の国際化)を目指し、英米陣営との連携に解決を求めた、日本は逆に二国間による局地的解決を歩もうとし、結局、中国のアプローチが成功した、宣戦布告なき戦争の終結をめぐるこの二つの立場は、その先に何を見通していたのだろうか、どのような日中関係を想定していたのか、戦後の日中関係を考えるうえで、見過ごせない問題に思われる
    コメント
    著者らの述べる二つのアプローチの違いは参考になった、ただ、著者が指摘する当時の日本が考えていた将来の日中関係が、どういう意味で戦後の日中関係を考えるうえで見過ごせない問題なのかをもっと説明してほしかった

第9章 カイロ宣言と戦後構想

  • 1943年11月の米英中(ローズベルト、チャーチル、蒋介石)による「カイロ宣言」は重要であるが、宣言の文書自体はあくまでコミュニケとしてプレスにリリースされたものであって、首脳の署名もない、また外交文書が十分に保存されていない、日本にとっては尖閣列島の帰属問題が1951年のサンフランシスコ講和条約とカイロ宣言で不整合になっている
    コメント
    カイロ宣言、サンフランシスコ講和条約をめぐるいろんな問題について参考になる記載が多くあり有用であった

第10章 終戦と日中戦争の収拾

  • 勝者であるはずの中国(国民政府)は、連合国の中で最も甚大な被害を受けた国であったにもかかわらず、戦犯問題や賠償問題について強硬な姿勢を示すこともなく、連合国における存在感は大きくない、これは戦後も続く共産党との内戦の中で著しくその国際的地位を低下させ、戦犯や賠償問題で責任追及の先鋒にに立ち得なかったためである、日本にとっては日中戦争の責任という問題を正面から受け止める機会が失われ、中国との戦争の記憶が国民から遠ざかることを意味した
    コメント
    日本にとっての日中戦争の責任を正面から受け止める機会が失われたというが、それでは具体的にどういうことをすべきなのか述べてもらいたいし、日本の責任についてどうお考えなのか示してもらいたかった

大変勉強になる良い本だと思った(完)


「決定版 日中戦争」を読む(1/2)

2024年10月14日 | 読書

「決定版日中戦争」(新潮文庫)をKindleで読んでみた、著者は波多野澄雄、戸部良一、松本崇、庄司潤一郎、川島真の各氏、発行は2018年

読後の全体的な感想をまず述べると

  • ボリュームは新書であるため多くはないが、内容的には大変勉強になる良い本であった、それは、とかくこの時期の歴史は戦勝国側の歴史観をもとにした説明が多い中、本書では日本や中国、アメリカのそれぞれの立場からの記述が類書より多いと感じたからである、その意味で歴史を多角的な視野から研究する観点で書いてあると思えた

それでは、本書を読んで勉強になった点や、強く同意できる点、また、自分の見方とは違うなと思った点などの各論を、本書の記述を引用し、そのあとのコメントとして書いてみたい

はじめに(日中歴史共同研究から10年)

  • 著者3名(波多野澄雄、戸部良一、庄司潤一郎)は2006年の安倍首相と胡錦涛国家主席との合意に基づく「日中歴史共同研究」に日本側の研究者として「軍事衝突した日中の不幸な歴史」部分の日本側執筆者だった、また、この共同研究の目的は「相互理解の増進」を目指すものされた
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    そもそも相互理解など不可能であると首相に進言すべきであった
  • 総じて日本による侵略的意図の一貫性・計画性・責任問題に帰着する叙述方法は、多様な局面、多様な選択肢・可能性を重視する日本の叙述方法と基本的に「非対称」である、日本による「侵略」と中国人民の「抵抗」という基本的な枠組みは変わっていない、ということである
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    この枠組みに反論できず中国側に押し切られた、本来、合意できないものを合意しようとするから日本側が妥協して中国の歴史観を認める結果になった、学者はそんな妥協はすべきではないでしょう
  • こういった反省も一つのきっかけとなって、著者らは中国史の川島真氏と財政史の松元崇氏も加わり、研究をまとめた、本書はその一部である
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    著者自らそういった点を反省しているのは立派な姿勢である

第一部 戦争の発起と展開

第1章 日中戦争への道程

  • 昭和前期の日本の進路を誤らせた最初の重大事件は満州事変である
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    そういう見方もあるだろうが、私はその前に起こった張作霖爆殺事件も大きいと思う、これにより反日を強めた張学良は後に西安事件を起こし、反共産党政策を推し進めていた蒋介石を反日政策に切り替えさせた
  • 満州事変前には、陸軍少壮将校の間や陸軍中堅将校らは、排日が増大すれば軍事行動を発動させることもやむを得ないと考えた、また関東軍の石原莞爾は満州問題を解決する唯一の方法はこれを日本の領土とすることで、謀略によりその機会をつくり出し、行動を起こそうとした
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    一部の軍人が軍事行動を起こそうとした動機の記載が不十分である、中国人の反日的行動によりどれだけ現地日本人に被害が出ていたか、また、満州民族がどれだけ軍閥に搾取されており、独立したいと思っていたのかも書くべきである
  • 柳条湖事件が起きて、若槻内閣は事態不拡大方針を決めたが、朝鮮軍が独断で越境したことについて、追認した
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    若槻内閣があっさりと追認し、有耶無耶に済ませたと書いているが、若槻首相の決断さえあれば厳しく処罰できたはずであり、その点の批判が甘いと思う
  • リットン調査団の現地派遣は、公平な現地調査に基づいて連盟の最終的な判断を下そうとする試みであったが、日本はこの連盟の苦肉の試みを無視した
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    その通りであり、日本外交の稚拙さである
  • 実は、なぜ日本が連盟を脱退したのか、いまだによくわからないところがある、たとえ、連盟がリットン勧告案を可決しても、法的には日本は脱退する必要がなかったのである
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    その通りである、こういう応用問題に適切な答えが出せないのが当時の日本人の限界である、真面目ゆえ思い詰め、現実的な知恵が働かない
  • 塘沽停戦協定後、日中関係の改善が動き出したが、それに逆行する事態が華北に生まれた、それを生んだのはまたしても陸軍の突出行動であった、として梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定に至る経緯が記載されてる
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    関係改善に逆行する動きが現地日本軍から起こされたとしているが、その根拠が書いていない、塘沽停戦協定破りの殺害事件や武力挑発を繰り返したのは中国側である、なぜ正反対の説明になるのか

第2章 日中戦争の発端

  • 盧溝橋事件が発生し、停戦協定が成立した後も、現地で武力衝突が連続して発生し、事態がエスカレーションする、その過程で日本は中国を威圧するために様々な手段を用いた
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    事件発生後、現地の武力衝突はすべて中国側の停戦協定違反による攻撃から始まっている点を強調すべき、エスカレーションが日本側に多くの原因があるような書き方は疑問である
  • 第2次上海事変が起きて、陸軍の2個師団の派兵が決定された、一方、少なくとも中国は日本に抵抗するために全面戦争を戦う態勢をとった
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    中国は戦争をやる気だった、ということも書いていることは評価できる

第3章 上海戦と南京事件

  • 蒋介石は満州事変後、近い将来日本と決戦を行うことを決心し、準備を進めた、日中戦争の直前の1937年3月に制定された「1937年度国防計画」では、第2次上海事変は36年に始まるだろうから、それまでに抗戦準備を完了する旨指示がなされ、第2次上海事件で実行に移された、そしてこれを支援したのがドイツの軍事顧問団である
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    中国側のこのような好戦的な姿勢を書いていることは評価できる、また、日独防共協定を締結していたドイツの背信行為があったのに、のちにこの国と三国同盟を締結するなど日本の外交音痴、国際情勢音痴ぶりが悲しい
  • 海軍軍令部は不拡大方針が放棄されていない時期にもかかわらず、全面戦争の具体的な作戦計画を策定していた、8月9日の閣議で米内海相は、出雲の中国空軍の攻撃を受けこれまでの慎重な姿勢を一変させ、事変の不拡大主義の放棄を主張、さらに全面戦争になった以上南京を攻略するのが当然であると強硬論に転じた
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    城山三郎の小説により米内光政は実際よりずいぶん良く書かれていることがわかる、陸軍悪玉・海軍善玉というような一般的なイメージも実際には違うという指摘は一つの見方であろう、半藤一利氏も「昭和史」で同様な指摘をしていた
  • 8月13日、日中間で発砲事件や衝突があり、14日午前3時、張発奎の部隊は正式に先制攻撃を開始、以降中国軍の全面的な抗戦が展開される、14日午後、上海の海軍特別陸戦隊司令部および黄埔江に停泊していた日本海軍出雲に対して爆撃を行った、まさに、上海での作戦を担当していた張が戦後、上海では中国が先に仕掛けたと回想しているように、上海における開戦は中国側の入念な準備のもとになされたものであった
    コメント
    13日の発砲も中国側からなされたものであり、中国は日本と戦争をやる気で先に手を出してきた点をきちんと書いていることは評価できる、満州事変にせよ盧溝橋事件にせよ、上海事変にせよ、挑発して仕掛けてきて、日本側に多くの犠牲者を出し、戦争に引きずり込んだのは中国である、最近の彼の国のわが国に対する数々の挑発行為、敵対行為を見れば、今も昔もこの国のやり方は変わっていないことが理解されよう
  • 南京の事件について、日中共歴史共同研究(北岡伸一・歩兵2014)では、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、および一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も発生した、と記述されている
    コメント
    事件があったとする証拠や目撃証言は今まで何一つ出てきていない、そして反日ムードが蔓延していた当時、虐殺などがあれば、たちまちその話は広まり、海外にも日本の悪行として喧伝するのが彼の国のやり方であるが、それが無かったのが不自然である

(続く)


土方定一「日本の近代美術」を読む(2/2)

2024年09月18日 | 読書

(承前)

9、社会思想と造形

  • 大正期の後半になると、フォービズムの造形思考、プロレタリア美術協会の影響により印象派や後期印象派の運動は退場させられた、背後には大正期の思想的、政治的性格が反映している、大正デモクラシーの背後には無政府主義とマルクス主義の思想的な底流があった
  • 日本近代の美術史とアナーキズムとの直接的関係として「平民新聞」の挿絵を描いた小川芋銭、百福百穂、竹久夢二がいる

10、二十世紀の近代美術

一、日本におけるフォービズム

  • 昭和初期にはじまる日本におけるフォービズムの性格が、1920年代のエコール・ド・パリの性格を共有したものであった、その典型的な例が佐伯祐三であった
  • フォービズムの造形思考はこの時期以降、日本の美術界を大きく支配した、安井曾太郎の安井様式もフォービズムとの折衷様式
  • 藤田嗣治は誰の亜流にも、折衷派になることも軽蔑し、個性の主張だけが存在理由となる世界に飛び込んだ

二、日本におけるシュルレアリスム

  • 日本における超現実主義は、エルンストのコラージュに刺激を受けて帰国した福沢一郎によって広範な影響を与えた
  • その後、靉光、北脇昇、松本俊介、桂ユキ子などが続く
  • 松本俊介は権力を持つ文化破壊者として威嚇しつつ立ちはだかる軍部ファシズムに対して、人間と芸術の名のもとに「生きている画家」として抗議した

11、戦後

  • 戦前の遠近法、写実主義の近代美術から離れ、戦後は思想の造形的表現、パウル・クレーが言う「絵画は窓から見たようなものではなく、眼に見えないものを見えるようにする」芸術であるとする内向的な時代になった
  • 戦後の現代美術は、戦前の作家たちが成熟度を加えながら、それぞれの性格・様式を持つ作品を発表しつづけ、他方、内向的な自己の経験を多様に実験的に制作しつづけている二つの層に分裂していると言ってよい

土方氏の本書を読んで感じたことなどを記したい

  • 美術館に行って日本人画家のいろんな作品を見てきたが、それぞれの作家の日本美術史における位置づけなどがよくわかって、大変参考になった
  • 土方氏はどうも官展など官製のものあまり評価していないようだ、黒田清輝に対する批判や戦時中の戦争絵画の批判、大正期のマルクス主義やアナーキズムに対するシンパシーを感じさせる説明などにそれが表れている、私はそのような考えには賛同しないが、氏の考えも一つの見方として尊重したい
  • 美術界も人の集まりである以上、いろんなグループができては対立し、解消し、また新しいグループができる、ということを繰り返している世界だということがわかった、例えば、洋画と日本画、官展と在野展、その他いろいろんな流派
  • 本書の本筋には関係ないが、氏も「後期印象派」という用語を使っているのが気になった、英語ではPost-Impressionismであり、直訳すれば「印象派後」であり、印象派ではないのに印象派のような訳をするのはおかしいと思う、「ポスト印象派」とでも訳すべきか

明治以降の日本の美術界のことを概観したい人には良い本だと思った

(完)

 


土方定一「日本の近代美術」を読む(1/2)

2024年09月17日 | 読書

土方定一著「日本の近代美術」(岩波文庫)を読んだ、オリジナルは1966年刊、この本はその改訂版で2010年刊、画家の人名索引があるのがうれしい、280ページの本なのでそれほどのボリュームではないが、内容的には非常に充実しており、読むのが大変だった

本書の要約をまとめるのは難しいが、各章で赤線を引いた部分から一部を抜き出してみると以下の通りとなった

序章

  • 近代日本の洋画史の展開は、フランスに生起する流派の「性急な」移植の歴史である
  • 自国の伝統美術にない洋画の遠近法や写実主義の迫真性を感じた
  • 性急な移植の「浅はかさ」と格闘した多くのすぐれた画家がおり、これにより近代日本の洋画の歴史が展開された
  • 一方で、フランス美術と日本浮世絵との美術交流があった
  • 洋画は伝統的な日本画と対立、抗争する関係になった

1、伝統美術と近代美術

  • 江戸中期以降、長崎を通じてオランダの近代絵画を見て写実、遠近法などを学んだ

2、初期洋画のプリミティズム

  • 高橋由一は明治にはじまる洋画家の最初の人となった
  • イタリア人のフォンタネージは工部美術学校教授として近代風景画を教えた

3、岡倉天心と民族主義的浪漫主義

  • 美術の研究者、アマチュア画家でもあったフェノロサは東大文学部の御雇教師になり、洋画と比較して東洋画の優越を主張した
  • フェノロサの地盤を受けつぎ、近代日本画の精神的指導者になったのが岡倉天心、日本美術の伝統的性格に写実を加えることで近代化しようとした

4、黒田清輝と外光派

  • 森鴎外が嘆く我が国の洋画の「性急な交代」が黒田清輝によってなされた
  • 黒田と白馬会系の作家が洋画界の支配的、というか独裁的潮流になり、それがその後の近代日本の美術の発展を歪め停滞させることになった
  • その中で藤島武二は剛毅に自己の性格を展開し、青木繁は浪漫主義的心情の作品を描いた

5、日本画の中の近代

  • 菱田春草、横山大観は伝統の中に西洋画法を積極的に採用した

6、近代と造形

  • 若い作家が印象派を携えて次々と帰国、そして反官展、在野の二科会ができた
  • 安井曾太郎の折衷的画法、色彩家の梅原龍三郎、東洋的浪漫主義的心情の造形に託した叙情詩人の坂本繫二郎、岸田劉生、小出楢重、萬鉄五郎らが出た

7、日本画の近代の展開

  • 大正期の大観、観山たちの苦闘に共感し、触発されつつ成長した次世代の日本画家が色彩の画家今村紫紅、デッサンの安田靭彦である
  • そのほか、日本画の中の外光派の小林古径、精密な写実主義の速水御舟、伝統的なものを近代造形の中に濾過した土田麦僊、神秘的な芸術感に到達した村上華岳らがでた

8、近代日本の彫刻

  • 荻原守衛はロダンの作品に感動し、ロダンに教えを受け帰国し、「文覚」などの作品を文展に出品して若い彫刻家に革命的刺激と影響を与えた、日本の近代彫刻の最初の標識を立てた
  • 荻原守衛と並んでロダンに対する深い理解に基づいて近代彫刻を主張したのは高村光雲の長男、高村光太郎だ
  • 清水多嘉示は画家になろうとしてパリに赴き、ブールデルの彫刻作品を見て感動し、ブールデルに長くつき、ブールデルの造形骨格と思考をよく伝える作家となった

(続く)