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演劇「五辨の椿」を観劇

2025年02月20日 | 演劇

演劇「五辨の椿」を日本橋三越本館6階にある三越劇場で観劇した、三越劇場は初訪問、1階5列目で10,000円、ほぼ満席だった、お客さんは9割がたお金に余裕がありそうなご婦人だった、13時開演、途中休憩1回、15時45分終演

【原作】山本周五郎
【脚本】有賀沙織
【演出】大谷朗
【出演】
おしの…栗原沙也加
おその…荒木真有美
喜兵衛…岡森諦
徳次郎…キムセイル
まさ…新澤泉
佐吉…前田一世
島村東蔵…齊藤尊史
中村菊太郎…緒形敦
岸沢蝶太夫…佐野圭亮
六助…稲岡良純
海野得石…坂本三成
青木千之助…中野亮輔
はな/ほか…いまむら小穂
米八/ほか…青木隼
香屋清一…石井英明
小幾/ほか…上倉悠奈
おかね/ほか…大川婦久美
丸梅源次郎…丹羽貞仁

原作は山本周五郎の同名の小説、今まで演劇だけでなく、映画やテレビドラマで何回も取り上げられたことのある物語、山本周五郎は好きな作家だ、日本婦道記、赤ひげ診療譚、青べか物語などいくつかの小説を読んだがこの演劇の原作は読んでなかった

物語は、

天保五年正月、亀戸天神近くの薬種商「むさし屋」の寮の火事で主人の喜兵衛(45)、妻のおその(35)、娘のおしの(18)と一家3人が亡くなった、遺体は損傷がはげしく男女の区別さえつかなかった

その後しばらくして、椿の花びらが現場に残される連続殺人が起こる、踏躇う様子もなく平簪(かんざし)で突かれ、死に至らしめられた男たち・・・いったい何の目的で?

それは、

むさし屋の婿養子の父親は懸命に働き、店の身代を大きくしたが淫蕩な母親は陰で不貞を繰り返した、労咳に侵された父親の最期の日々、娘おしのの懸命の願いも聞かず母親は若い役者と遊び惚けた、父親が死んだ夜、母親は娘に出生の秘密を明かす、そして娘は羅刹と化した・・・父の仇はきっとうちます、娘はそっと平簪(かんざし)を忍ばせた、父を蔑ろにした母を許せないが、母と不貞を働いた男たちも許すことはできない

観劇した感想

劇場について

  • 三越劇場は初めてだったが素晴らしい劇場だった、1927年(昭和2年)完成、約500人収容、設計は横河工務所(現・横河建築設計事務所)、意匠を凝らした石膏彫刻や大理石に包まれた周壁、ステンドグラスやステンシルにより色調あざやかに彩られた天井など、華麗なロココ調の装飾
  • 閉幕中の照明は電球で、劇場内は薄暗い感じがするが、かえって18世紀ころの欧州の劇場はかくのごときかと思わせる雰囲気がある、劇場全体が一つの芸術作品だ、なお2016年に日本橋三越本店本館が国の重要文化財に指定されている
  • 劇場内は写真撮影禁止だった、残念だ

物語について

  • 演劇のストーリーはわかりやすく、さすがは山本周五郎だと思った、途中、飽きることもダレることもなく、ずっと演劇に集中できた
  • 最初に「むさし屋」の寮の火事で一家三人が亡くなるが、おしのと思われた焼け残った骨はおしのではなかった、では誰だったのかがわからなかった
  • 4人の情夫を殺害の後、最後の一人となった実の父丸梅源次郎に対するおしのの復讐が素晴らしかった、他の4人の不貞男を一突きで殺したのと同じやり方はせず、もっと苦しめるやり方を選んだのだ、女だから男を拷問して苦しめることはできないが、それよりももっと苦しんで死んでいくその方法とは・・・これは観てのお楽しみとしよう(と言っても今日が千秋楽だが)
  • 不貞は罰せられるような罪ではないかもしれないが、「世の中には定めで罰することができない罪もある」というおしのの決め台詞がかっこよく決まっていたのは山本周五郎のうまさだろう

キャストについて

  • キャストではやはり主役のおしの役の栗原沙也加が素晴らしかった、可愛らしい父想いの孝行娘を上手に演じていた、そして可愛い小娘だが怒らせたら怖い、亡き父親から莫大な遺産をもらい受け、そのお金をうまく利用し、名前を変えて、母と不貞を働いた男たちに次々と近づいて、気がありそうな素振りをしつつ焦らし、ついには男に体を許すふりをして男が無警戒に抱きついてきたその時に蜂の一突きが突き刺さる・・・そんな役を実にうまく演じていた、「頑張れ、おしの」と応援したくなるような良い演技だった
  • 他の役者も全員良かったが、特に男性陣では最後にキツーイ復讐をされる実の父の丸梅源次郎役の丹羽貞仁が熱演だった、真に迫った演技は十分伝わった

おしのに感情移入でき、泣けました

さて、観劇の後はデパ地下に寄って何かいいものがないか見て歩いたところ、もう桜餅が売っていることに気づいた、暦の上ではもう春だからでしょう、今年も長命寺の桜餅を買いに行くことにしようと思った


劇団俳優座「教育」を観劇

2025年02月15日 | 演劇

LABO公演 Vol.41劇団俳優座創立80周年記念事業「教育」を観劇した、場所は六本木の俳優座スタジオ、14時開演、1時間45分(休憩無し)、座席は全部で150席くらいか、ほぼ満員だった、前回このスタジオで観劇した時(こちら参照)は、座席はL字型であったが、今回は舞台がその時よりは狭く、逆に座席は広く、コの字型の座席配置となっていた

作者:田中千禾夫(ちかお)
演出:中村圭吾

< 配役 >

瑠王(ルオウ)・・・・・加藤佳男
絵礼奴(エレーヌ)・・・・瑞木和加子
禰莉(ネリー)・・・・・椎名慧都
翡江流(ピエール)・・・・野々山貴之
若い女中・・・稀乃

田中千禾夫の名作『教育』を40年ぶりに再演!教育とは暴力なのか?!新進気鋭の中村圭吾が、新演出にて田中千禾夫戯曲に挑む、とある

仏蘭西のとある森の別荘に、絵礼奴(エレーヌ)と禰莉(ネリー)の母子が住んでいた。父、瑠王(ルオウ)は遠くの島で鉱山を経営しており、月に一度生活費を届けるためのみに別荘を訪れていた。

今日はその日。いつもは金を渡して、4,5杯の酒を飲むとすぐに帰る習慣だったが、今日はなぜか帰ろうとしない、父の口から禰莉(ネリー)の出生の秘密を告白され、心乱れる禰莉。そこに禰莉に心を寄せる医師、翡江流(ピエール)がやってきて、女の幸福を説こうとする。母絵礼奴の告白は父瑠王と大きく違い・・・

三者三様の告白によって、愛とは何か!をそれぞれに教育させられた禰莉は苦悩する

教育という題名に興味をもった、この日は公演終了後にトークセッションがあり、演出の中村圭吾氏と山辺恵理子 氏 (早稲田大学文学学術院講師)との対談があり、これにも参加してみたが勉強になった

このトークセッションで中村氏と山辺氏が話した主な内容を記憶している範囲で記せば次の通りである

  • ネリーの悩みは哲学的なもので、劇の最後に「生きがいとは何か」という叫びは贅沢な悩みである
  • 教育と愛と違い、教育は資格がある人がやるもので、それは①年上の人であること、②男性であること、③学問があることの3つである、父のルオウは学問がなく、母のエレーヌは男性でなく、医者のピエールは学問がない
  • 商品の売買では商品を買ったという認識があって商売が成立する、教育で「学んだ、勉強になった」という意識を持てない場合、教育したとは言えないのではないか
  • 教育とハラスメントは紙一重、教育とは暴力なのか、という命題を考えた、演劇の演出家による役者への指導も暴力的な面を有する
  • この演劇では女中の役割が田中千禾夫の原作より強調されている、初演当時は女中は声だけの出演だったが本作では女中から見たネリーを強調するために姿も見せる方法にした
  • 作者の田中千禾夫が教育というタイトルを付したのは、戦前・戦後共に知る人間として教育に対する不信感があったからではないか
  • 劇中ではルオーの告白はネリーに響いたがピエールの告白は響かなかった

観劇した感想

  • スタジオは狭く、その分、役者との距離感が近く、福田恒存氏が言うような役者と観客との無言の対話が成立する環境であったので演劇の舞台としては理想的だと思った、ただ、ビジネス的には厳しいだろう
  • ストーリーが小難しく、1回観ただけでは理解するのが難しいと思った、また、延々と出演者二人のセリフが続く場面が多く、途中で眠くなり、特に最初のネリーとルオウの会話の内容がイマイチ理解できなかった、もう少し何か飽きないような台詞や進行の工夫が必要なのではないかと思った
  • 教育というタイトルを奇異に感じた、内容的には「説得」だと思った、娘のエレーヌがどういう経緯で生れて来たのか、本当は誰の子供なのかという点についての父親ルオウと母親エレーヌのどちらの説明により説得力が有るのか、そういったことを見せるドラマなのかなと思ったが、結局、結論ははっきりわからなかった(途中で寝たからか)

終演後のトークセッションも含めて勉強になりました


演劇「殺しのリハーサル」を観劇

2025年01月15日 | 演劇

ティアラこうとう大ホールで演劇「殺しのリハーサル」を観劇した、6,500円、4時半開演、5時半終演、座席は7割がた埋まっていた

原作:レビンソン&リンク
翻訳:保坂磨理子
演出:鈴木孝宏

「殺しのリハーサル」は刑事コロンボの生みの親、レビンソン&リンクが、全盛期の1982年にTV映画として書き下した作品

あらすじは、

ブロードウェイのとある劇場、誰もいない客席に姿を現す劇作家アレックス、一年前の今日、恋人であった女優モニカが、自らの主演舞台の初日、自分との婚約発表を目前に謎の死を遂げた、自殺と処理された彼女の死を殺人事件と断定したアレックスは、事件後行方をくらましていたが、 丁度一年経ったこの日、この劇場に当時の舞台関係者を招集していた、続々と集まる俳優たち、そして演出家、舞台監督、プロデューサー、新作の稽古と称してこれからアレックスが行うのは真犯人を暴くための「殺しのリハーサル」だった

出演:伊藤洋三郎/紫城るい/山本みどり/清雁寺繁盛/川原洋一郎/庄田侑佑/松浦海之介/岸田茜/岩田翼/新藤真耶/馬場真佑/坂上麻優

観劇した感想などを書いてみたい

  • ホールに到着して今回も事前予習のために公演プログラムを1,100円で購入して開演までの間に読んだが、実際の演技を観て、最後のどんでん返しという意味が分からなかった
  • 1年前に一緒に公演した舞台の役者やプロデューサーなどが劇作家アレックスの呼びかけで再び集まってアレックスの新作のリハーサルをやる、ということで舞台がスタートし、リハーサルを進めていくがその途中で刑事が出てきて、メンバーが逃げ出さないように見張るという、その辺から不自然なストーリーになってきて、最後はこの刑事が実は偽刑事であり、何が重要な役割を演じるというものだが、さっぱりわからなかった
  • 自殺したモニカというアレックスと婚約する予定の女優は他の役者に殺されたという、その真犯人の犯行の証拠というトリックも「何ーんだ、それかよ」というもので、どんでん返しというほどのものではないと感じた
  • それぞれの役者は良く演じていたと感じた、ホールが結構大きく、セリフが聞こえないのではと心配したが、R席にいた私にも役者たちの声は良く通った、発音がはっきりしていて、発声方法もよく訓練されているからでしょう、怒鳴るような話し方はしていなかったのは良かった
  • 役者の中で特に頑張っている感が出ていたのがアレックスの秘書役を演じた坂上麻優だ、テキパキした性格の秘書の役を可愛らしく演じていたのに好感を持った
  • 今回の舞台の場面転換は舞台の奥行きの途中に黒幕が出てきて舞台の横幅3分の2くらいを隠し、その客席では見えない黒いカーテンの向こう側で転換後のセッティングが準備されるというもので、よく考えたうまいやり方だと思った
  • あと、この日の公演は午後4時半開演だったが、大ホールはこの公演だけだったのでなぜ2時か3時開演にしないのかなと感じた

演劇というのもなかなか難しいものだと感じた

この日は少し早く到着したので、ティアラこうとうのすぐ前にある猿江恩賜公園をブラブラした、スカイツリーが見えて良いところだと思った

※ このブログを投稿する際、タグに「殺しのリハーサル」とこの演劇のタイトルを入れたら、この言葉でタグは利用できませんと出た、なるほど、殺人のやり方をネットで共有するような投稿とみなされたのでしょう、恐れ入りやした


劇団民藝「囲われた空」を観劇

2024年12月19日 | 演劇

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA、劇団民藝公演「囲われた空 CAGING SKIES」を観劇した、6,600円、13時半開演、終演16時15分ころ、座席は8割以上埋まっていたか、中高年が多いと感じたが若い人も目についた

■原作:クリスティン・ルーネンズ
■脚色:デジレ・ゲーゼンツヴィ
■訳:河野哲子(『囲われた空 もう一人の〈ジョジョ・ラビット〉』小鳥遊書房刊)
■上演台本:丹野郁弓
■演出:小笠原 響
■出演:日色ともゑ、石巻美香、石川 桃、釜谷洸士

劇団民藝は1950年4月3日に(前身は1947年発足の民衆芸術劇場=第一次民藝)築地小劇場、新協劇団など「新劇」の本流を歩んできた滝沢修、宇野重吉らによって民衆に根ざした演劇をつくり出そうと旗あげされた

この劇団の歴史をwebサイトで見ると、俳優で知っている名前は、宇野重吉、北林谷栄、大滝秀治、樫山文枝、日色ともゑだけだった

劇団の歴史に書かれている過去に手掛けてきた作品を見ると、内外の小説、戯曲、創作劇などである

さて、この日の物語だが、民藝のwebページから要約すると

2019年に上映されたアメリカ映画『ジョジョ・ラビット』は、反ナチス映画として話題になりアカデミー賞脚色賞を受賞、この映画の原作小説『Caging Skies』をベネズエラ生まれのデジレ・ゲーゼンツヴィが戯曲化したもの

1944年、ウィーンにあるヨハニスの家、ヒトラーに忠誠を誓う17歳のヨハニス(釜谷洸士)は連合軍の爆撃によって重傷を負った、母のロスヴィタ(石巻美香)が怪我をした彼と祖母(日色ともゑ)の世話をしている

ある日、母の行動を不審に思ったヨハニスは、居間のソファの下からバイオリンを探り当てる、そこにはエルサ(石川 桃)、25歳のユダヤ人のパスポートが隠されていた、家族が寝静まってから書斎を調べると、壁にうっすら線があることに気づきナイフの刃を入れて押すとドアのように開き、壁の中には若い女性エルサがいた、そこから家族間の葛藤が始まる

観劇した感想を述べてみたい

  • 舞台が居間、書斎、寝室と3つに仕切られており、円形の回転する床の上にセットされ、人力により場面転換するという面白い設定であった、造作もよくできていると思った、ただ、場面転換が多すぎるように感じた
  • 出演者が4人だけという少人数なのが特徴で各俳優の演技が良く観れて良かった、主役はヨハニスの釜谷洸士とエルザの石川 桃だろう、釜谷はちょっと堅苦しいところが目立った、また、ところどころ大声で怒鳴るように話すところがあり、どうかなと思った、これは劇場収容人数が450人程度と大きすぎることもあるでしょう
  • 内容的にはナチスの思想の感化され、偏狭な考えに囲われた空間に生きていた若者がナチスが敵視するユダヤ人女性を家族がかくまっていたことに衝撃を受けるも、そのユダヤ人女性に惹かれていき葛藤する中でナチスの敗北により戦争が終わってぼう然とする、というところかと思ったが、第1幕の途中から集中力が途切れてしまい、演劇の内容が良く理解できなかった
  • 開演時間を間違えて開演1時間前に到着したので、プログラムを買い、席でじっくりと読み、大体のところは把握して臨んだけど、集中できなかった、なぜだろうか、何となく物語が観念的すぎて単調であるためかもしれない
  • 従って、劇団がこの演劇で何を観客に訴えたいのか、肝心のところがわからなかった、ナチスのような全体主義の思想にとらわれて自己を見失ってはいけない、ということなのか
  • プログラムの中には、「他人の命を救うためには自分や愛する者たちの生命を危険にさらされるか?」というデジレ・ゲーゼンツヴィ氏の解説があるが、惚れたエルザを助けるために家族を危険にさらすことができるのか、というのがそれなのか、そして結局、母がその犠牲になったということなのだろうか、そうであるとすれば、終戦後、エルザはヨハニスを置いて囲まれた空間を去って行き、二人はばらばらになるので、エルザを助けた代償はあまりに大きいということになる
  • プログラムに岡真理氏(早稲田大学文学学術院教授)の投稿があり、氏は「エルサを手に入れるためにヨハニスはあらゆる努力をし、彼をそれを愛ゆえの自己犠牲と考えるが、実際は自分本位な自己愛であることに気づかない」とあるから、そうなのかもしれない、更に氏は「エルサはヨハニスが自らの罪(ナチス信奉?)を告白して謝罪する機会を封じ、赦しを永遠に与えないという最悪の形で彼を罰する」と書いているのでヨハニスには救いがないということになる

さて、

  • この日は終演後、出演者と観客の交流会があったので参加してみた、半分以上の人が参加する熱の入れようだった、出演者のそれぞれのいろんな考えや苦労話、舞台裏の状況などが聞けて良かった、司会もうまかった

  • プログラムの岡真理氏の投稿を読んで「はて?」と思った、氏はエルサがヨハニスが罪を告白して謝罪する云々のあとに、元「慰安婦」のハルモニの「謝罪されなければ、赦すことができない」という言葉を思い出すと書いている、また、ナチズムに関係づけて「アラブ人はすべて敵」と見做す国民教育を行っているなどとイスラエルの批判をしている
  • 演劇にかこつけて慰安婦やパレスチナ問題などの自己の政治的主張をするのは演劇の政治利用であり慎むべきだ、そのような意見を主張をするのは自由だが、演劇と関係ないところでやってもらいたい

難しい演劇でした


劇団文化座公演167「紙の旗」を観劇

2024年10月31日 | 演劇

劇団文化座公演167「紙の旗」を観劇した、場所は文化座アトリエ田端、午後2時開演、3時50分終演、途中休憩なし、この日は千秋楽、150人程度収容する小さなアトリエ、座席は満席に見えた、来ているのは中高年が圧倒的だった、チケット販売や誘導などをしている劇団スタッフは若い人が多く、演劇を目指す若い人が多いのかと頼もしく思った、どの職業でも若い人が集まってこない仕事は発展しないでしょう

劇団文化座(代表:佐々木愛)は戦時下の1942年2月、井上正夫演劇道場のメンバーであった演出家の佐々木隆、女優の鈴木光枝らによって結成され、同年4月第1回公演梅本重信作「武蔵野」で旗揚げした劇団

この日にもらったプログラムの佐々木代表のあいさつによれば、この日の演目の「紙の旗」は、私達の日常生活に点在する本の小さな選択と意志が描かれているとのこと、我々の日ごろの生活における小さな選択と小さな意志がいまほど大切に思われる時はない気がしている、としている

「紙の旗」の作/演出は内藤裕子氏

内藤裕子氏は埼玉県生まれの劇作家、演出家で演劇集団円(えん)所属、2014年演劇集団円『初萩ノ花』(作・演出)にて読売演劇大賞作品賞受賞、2022年演劇集団円『ソハ、福ノ倚ルトコロ』(作・演出)にて紀伊國屋演劇賞個人賞受賞、2023年エーシーオー沖縄・名取事務所共同制作『カタブイ、1972』(作・演出)にて第10回ハヤカワ「悲劇喜劇」賞、第26回鶴屋南北戯曲賞受賞

キャスト

鈴木和則(共立党)・・・津田二朗
岡野義明(民自党議員)・・・青木和宣
斉藤康彦(民自党議員)・・・鳴海宏明
駒井 茂(議会事務局長)・・・沖永正志
矢島博信(無所属・改新クラブ)・・・藤原章寛
宮崎いく子(公友党議員)・・・瀧澤まどか
相田 透(みらい市民フォーラム)・・・井田雄大
星野伸一(議会事務局職員)・・・早苗翔太郎
神谷あやね(議会事務局職員)・・・若林築未
石川陽子(みらい市民フォーラム)・・・深沢 樹
萩原智子(記者)・・・神﨑七重

あらすじは、

ある地方議会でのこと、新人女性議員が育児休暇について「だから私たち若い世代が言わなきゃオッサン議員たちは気がつかない」とブログに書いたところ、議会は大紛糾、政治に対する諦めや、無力感が覆う空気の中で、その事に抗い、何かを良くしようと奮闘する人々の悲喜交々のある一日の物語

あらすじの補足や、観劇した感想などを述べてみたい

  • 結論から言えば、大変面白かったし、いい演劇だと思った、内藤裕子氏の作品や演出は大したものだと思った
  • やはり演劇は大きな劇場で見るよりもアングラ劇場的な小さな劇場で、俳優と近い位置で見るのが一番だと思った、俳優の声の出し方などが自然であり、演技っぽくないところが良かった
  • 昨年読んだ福田恒存氏の「演劇入門」によれば(その時のブログはこちら)、劇が映画と本質的に異なるところは舞台と観客席との交流ということである、舞台においては役者は終始、観客の緊張度に支配されている、聴き手が熱心に聴いてくれなければ、張り合いぬけがして、話し続ける気をなくしてしまうが、聴き手が身を乗り出し、相槌を打って話し手と無言の対話をすれば、役者はそれに力づけられ、それに反応し自分の演技に酔うことができる、と述べている、こうなるためには舞台と客席は近くないといけないと思った、この日はまさにそんな感じの役者と観客の無言の対話ができていたように感じた
  • 場面転換が何回かあったが、いずれもマンボのような楽しい音楽が流れ、椅子や机などの舞台道具を動かす音や俳優の足音を消しておりうまいと思った
  • あらすじにある通り、ある市議会において女性議員の育児休暇の是非について議論になり、議会与党の代表が「育児を替われる人はいるが議員は代替がきかないことをよく考えるべきだと」と発言し、事実上育児休暇を認めない決定をしたことに憤りを感じた若手女性議員が自身のブログに「議員のオッサンたちは育児の重要性がわかっていない」と書いたから大騒動になり、議会各党の代表者会議が開かれて、その女性議員を呼び出して議論が喧々諤々されるのがこの物語である
  • 呼び出された女性議員は、議会の各党の偉い人たちから、事実誤認があるとか、先輩議員に対するリスペクトがないとか、謝罪してブログを削除せよとか言われるが、毅然として拒否するから、話はどんどんこじれていく・・・
  • 代表者会議は議長と各党代表5名の6名、休暇の是非について議論するが、与党と革新クラブ代表の矢島議員が県議会議員への立候補を認めるというエサを与えられ反対し、その他の野党が賛成する、その議論はなかなか面白かった
  • その代表者会議に、事務方の3名と傍聴の記者が絡み、さらに劇を面白くしていた
  • この演劇は、議会与党や年長者議員の旧態依然とした実態を批判的に描く、という単純なものでもない、プログラム・ノートに書かれた内藤氏の解説を読むと、氏は祖父が市議会議員、祖母が選挙運動をやっていたので、議員と実際に会って話を聞き、議会を傍聴し、議会の仕事の面白さや議員の人たちが真面目に仕事をしているのに気付き、この演目を作ろうと決心したと書いてある
  • そして、若手女性議員の育児休暇の可否は市政にとって必ずしも重大な問題ではないが、与野党・ベテランと若手が自分の意見を臆することなく主張して衝突しながらも、お互いの意見を知り、自身の至らないところを認識し、少しでも前進することの大切さを学んでいく、そういうことを言いたかったのかな、と感じた
  • この日演じた俳優たちはいずれも良い演技をしていた、若手から中堅、ベテランに至るまで、それぞれの役柄をしっかりと演じていたと思う、大したものだと感心した

良い演劇でした

この日は観劇後、駒込の駅まで歩いたが、まだ時間が早かったので、駅の反対側のある商店街を歩いてみた、昭和のムードが残る個人商店中心の商店街であり、良いところだと思った


「築地小劇場100年―新劇の20世紀―」展を観に行く

2024年10月29日 | 演劇

ここ数年、演劇に興味を持ちだし、テレビで観たり公演を観に行ったりしているが、最近、「築地小劇場100年―新劇の20世紀―」展が開催中なのを知って行ってみたくなった、場所は早稲田大学演劇博物館、大学内で何度か見たことがある建物だが入るのは初めて、入場は無料、写真撮影禁止

新劇とは、日本の近代において西欧の影響を受けて生まれた演劇ジャンルであり、台詞による表現と思想に重きを置いた演劇。明治末に誕生し、大正期には時代の最先端の演劇の潮流を形成、戦後に黄金時代を迎えた。いま、通常「演劇」と言えばこの新劇のことを指すと思うが、広く演劇といった場合、歌舞伎、新派、ミュージカルなどを含めたものである

大正13年(1924)6月、演劇の拠点、築地小劇場が誕生した。新劇初の本格的な常設の専用劇場であり、同劇場の専属の劇団名でもあった。新劇の父ともよばれる小山内薫を軸に生まれたこの劇団は、実験的な公演を次々に手掛け、数々の優れた作品を世に送り出した。築地小劇場からは、戦前から戦後の演劇界を支えた俳優や劇作家、スタッフなど多くの人材が輩出されていいる。

築地小劇場創設100年にあたる今年、演劇博物館所蔵の新劇関連資料を一堂に展示し、新劇とはどのような演劇だったのか、その長い歴史を振り返りつつ、「新劇の20世紀」を改めて考える契機としたいというのが主催者の思いのようだ

早大の演劇博物館に入り、順路と出ていたのでそれに従い展示作品などを見て行った、展示は時代順になっており、一つ一つの説明を見ていくと日本における演劇の発展段階がわかるようになっていた、そしてそれぞれの時代の演劇のポスターや台本、舞台の設定記録、写真や映像、音声、衣装などいろんな資料が展示してあり参考になった

展覧会の展示リストの余白などに鉛筆で簡単に歴史をメモして、帰宅して思い出しながら100年の新劇の歴史のキーワードだけを時系列に書いてみると、

  • 演劇と言えば歌舞伎だけだったが、そこから新派が分離し、もう一つ近代劇(新劇)ができた、新劇は翻訳もので、西洋の自由主義や個人主義を演ずる最先端なものだった
  • 川上音二郎が新劇の先駆者となった
  • 島村抱月や坪内逍遥が中心となって文芸協会や芸術座ができた
  • 自由劇場ができる、これは二代目市川左團次と小山内薫が作った
  • 多様な新劇運動が起こり、歌舞伎役者中心にいろんな劇団ができた、前進座、本郷座、有楽座、浪花座など
  • 新劇を上演する劇場もいろいろできた、大規模な商業主義の劇場と小規模の非商業的な劇場があった
  • これらの劇場は大正12年の関東大震災で倒壊した
  • 大正13年(1924年)に築地小劇場ができた、1928年に小山内薫が亡くなるまでの間に90以上の前衛的な演劇の上演をした
  • 小山内亡き後、築地小劇場という劇団は分裂していったが劇場施設は途中名前を変え1945年に空襲で焼けるまで存続した
  • 大正デモクラシーにより左翼活動家の左翼劇場、新築地劇場などのプロレタリア演劇が盛んになった
  • 左翼から一線を画した築地座も1937年にできて後に文学座になる、1904年には俳優座ができる、一方、プロレタリア演劇は治安維持法により解散させられた
  • 戦後は劇団民藝などいろんな劇団ができた、三島由紀夫、木下順二、福田恒存、安部公房などが劇作家や翻訳などで活躍し、小規模なアングラ劇場もできた

展示室内に劇団の設立と分裂、統廃合などの年表の図が大きく出ていたが、それを見ると、築地小劇場が日本の新劇界に与えた影響の大きさというものが良く理解できる、時系列の一番最初の方に築地小劇場があり、その参加者がいくつにも分裂して、統廃合を繰り返し、今ある文学座、俳優座、劇団民藝などの劇団につながっていく

1時間以上、じっくりと勉強して有意義だった、勉強になりました

さて、じっくり立ちながら勉強して疲れたので、博物館のすぐ前にある国際文学館村上春樹ライブラリーにあるカフェ「橙子猫-ORANGE CAT-」に立ち寄り、コーヒー500円を注文してしばしくつろいだ、このライブラリーは誰でも見学できるのでざっと見て回った、村上春樹の小説は若いころいくつか読んだが最近はどうも手が伸びずにいる、氏がクラシック音楽やジャズに造詣が深く、英語にも堪能なところには惹かれている

これでこの日はおしまい、ということで早稲田駅に向かいキャンパスを歩いていると、大きな立て看板があるのに目が行った、「11.10怒りの大集会、改憲・日米安保強化に反対」とか「石破政権による改憲・大軍拡を阻止しよう」などと書いてある

前者の集会の呼びかけ人に池辺晋一郎氏の名前があるのを見てがっかりした、むかしNHKのクラシック音楽番組に檀ふみと一緒に案内役をして軽妙洒脱なところを見せていたのに・・・

安保闘争時代とあまり考え方が変っていない人が多いのが大学とマスコミではないか、そこに目をつけているのがわが国周辺の全体主義国家だろう


俳優座「セチュアンの善人」を観劇する

2024年09月30日 | 演劇

六本木の俳優座劇場で「セチュアンの善人」を観劇した、14時開演、17時終演、シニア料金5,000円、観客の平均年齢は高かった、ここは300人くらい入る劇場だが満員であった

俳優座は、文学座・劇団民藝と並び日本を代表する新劇団の一つ。1944年(昭和19年)2月に青山杉作・小沢栄太郎・岸輝子・千田是也・東野英治郎・東山千栄子・村瀬幸子ら10人によって創立された。初代の劇団代表は千田是也(せんだ これや)。2000年から浜田寅彦、大塚道子と続き、現在の代表は岩崎加根子。

昨年6月に、六本木の俳優座劇場が2025年4月末で閉館することがわかったというニュースがあった(こちら参照)、「劇場の老朽化と収支の悪化」が理由としている、この劇場では東野英治郎、東山千栄子、仲代達矢、加藤剛、市原悦子、栗原小巻ら数多くの名優が舞台に立ってきた

「セチュアンの善人」(神様のおつくりになったこの世は難しすぎます)

原作:ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)
脚色・上演台本・演出:田中壮太郎

ものがたり

  • 3人の神様は世の中の乱れを聞かされて、確かめに地上に降りてくるとと、善人は全然いなかった
  • 唯一、セチュアンの男娼のシェン・テのみが神様たちに一夜の宿を提供する善人であったが、生活苦であった
  • そこで神様はお礼にシェン・テに大金を渡し、善人であり続けるよう言って消え去る、シェン・テはそのお金でコーヒー屋を始めるが、金を目当てに親類縁者・隣近所の人間が押しかけ、その大金は使われそうにる
  • シェン・テは時々冷酷な資本家の従弟のシュイ・タに変装し、シェン・テの利益を確保し、コーヒー屋の事業を効率的に進める
  • シェン・テはパイロット志望の恋人ヤン・スンがいるが、だらしないので愛想をつかした、ところがシュイ・タはヤン・スンをコーヒー事業の管理職にすると能力を発揮して、住民をこき使い、効率を上げ、業績を拡大させたが事故で死亡
  • シュイ・タのやり方は資本主義の貪欲さ丸出し、人をこき使い、怪しい原料を使った商品を売るなど問題が多いが、事業を拡大し、地域住民に雇用と安定した生活をもたらし、善人のシェン・テを悩ませる、善人では幸せになれないのかと
  • 神が再び現れると、善人だと思っていたシェン・テと資本家のシュイ・タが同一人物であったことがわかり嘆く、どうしたら良いかとのシェン・テの質問に神は答えられず、最後は勝手にしろと匙を投げる

今日の公演ではめずらしく公演プログラムを購入した、500円。それを読むとこの演劇の概要、問題設定などが少しわかる、いつくか参考になる部分を書くと

  • 俳優座がこの演目を上演するのは38年ぶり
  • この演目は社会主義の応援歌、資本主義下では善人は人間らしい生活はできず、社会主義に変革しなければならないという思想がこの演劇の根底にある
  • 原作者のブレヒトはファシズムに反対して労働運動に関わり、共産党の立場から教育劇などを作るようになった
  • 神様という存在、善人や善が、作者により皮肉られている
  • 対照的な二つの性格が一人の人間に仮託されている、善人の男娼シェン・テと、社員を搾取する男性経営者のシュイ・タ
  • 本来女性が演じるシェン・テを、男性俳優の森山智寛が演じた

観劇した感想を述べたい

  • 原作は資本主義を批判し、社会主義礼賛のようだが、今時その結論では劇は成り立たず、資本主義の批判をパロディーにした演劇だと思った、それはうまくいったと思う、神や善に対する強烈な皮肉が効いている
  • 舞台演出が良かった、第1幕と2幕の冒頭、舞台の床には相撲の土俵のような丸い輪が設置してあり、水売りのワンがその周りをぐるぐる歩く、その時点では客席の照明はまだ落ちていない、劇の開始時の客席のざわつきを静める効果を狙ったものかと思ったが、それはそれでうまいやり方だと思った
  • その土俵のような丸い輪が、演劇が進んでいくと、途中で垂直に立ち上がり、繁盛しているコーヒー屋の名前の文字が輝くゲートのようなものになるところなど、面白かったし、舞台右横ではいろんな道具を使ってちょっとした音を出して劇に味付けしていたのも良い工夫だと思った
  • 舞台背面には電気の照明により飛行機が飛ぶ姿などが映し出され、効果的な演出だと思ったし、最後の方では歌を歌う場面などもあり、飽きない工夫が凝らされていた
  • 出演者では、シェン・テ/シュイ・タの森山智寛は頑張っていた、特にシュイ・タの演技が良かった、ヤン・スンの八柳豪も憎らしい役をうまく演じていた、パイロットになろうとじゅうたん屋の夫婦から金を出させようとするところなど、本当にパイロットになろうとしているのか、金をだまし取ろうとしている悪党のかよくわからないほど、いい加減さをうまく演じていた、その後、コーヒー屋の管理職になるとそれもピッタリとはまった演技だった
  • 床屋の加藤頼も個性が強い役を、いや、加藤個人の個性が強いのかわからないが、よく演じていた、普通の人物か悪人かよくわからなかった、また、女家主の坪井木の実の演技も良かった
  • 若手で最高に良かったのは水売りの渡辺咲和であろう、大きな声で歌を歌ったり、懸命の演技をした、途中、床屋に手をケガさせられるが、その後、水売りの商売がうまくいき、意気揚々と自慢するなど、意外と才能ある女をうまく演じていた
  • 神様の三人も面白かった、最後のシェン・テから「どうしたら良いのですか」と問いかけられた時の困った表情などは笑えた、水売りの渡辺咲和も神様の今野まいもピンチヒッターであるにも関わらず最後まで頑張れたのは立派だと思う

楽しめました


文学座9月アトリエの会『石を洗う』を観劇

2024年09月22日 | 演劇

久しぶりに演劇公演を観てきた、今回は、文学座アトリエの会『石を洗う』、5,000円、14時開演、16時半終演、途中休憩1回15分含む

作:永山智行(1967年生れ、劇作家/演出家/劇団こふく劇場代表)
演出:五戸真理枝
場所:信濃町・文学座アトリエ(初訪問)

九州の演劇界を牽引する永山智行氏が文学座に初めて書き下ろす戯曲との触れ込み

文学座アトリエとは、ホームページから引用すると、1950年竣工、イギリスのチューダー様式が採用されている文学座の稽古場で、前衛的実験的な作品を上演する「アトリエの会」を行う文学座の拠点。 1950年より現在に至るまで「アトリエの会」の上演場所として活動を続け、 日本の演劇界に歴史を刻み続けてきました、 劇団のほぼ全ての演劇活動がこのアトリエで作られています、とある

信濃町の駅から歩いて10分弱、事前に地図を見ておいたので場所は直ぐに分かった、劇場内は120席くらいか、先日行った俳優座スタジオと違い、舞台を正面に見てすべての座席が配置してあり、奥行きは全部でG列までか、舞台は非常に見やすかった、また、1階のため火事などの非常時にも心配不要な劇場だと思った

舞台正面から観客席奥まで行く通路が2つあり、これが歌舞伎の花道みたいに利用されており面白かった

文学座(代表角野卓造)は、1937(昭和12)年9月、久保田万太郎、岸田國士、岩田豊雄(=獅子文六)の文学者の発起によって創立、「真に魅力ある現代人の演劇をつくりたい」、「現代人の生活感情にもっとも密接な演劇の魅力を創造しよう」を理念としている

活動は本公演、アトリエの会、附属演劇研究所という三本柱があり、今回はアトリエの会の公演だが、本公演の方は、創立者の3名に始まり、森本薫、加藤道夫、三島由紀夫、有吉佐和子、宮本 研、平田オリザ、なかにし礼、鄭義信、川﨑照代、マキノノゾミ、中島淳彦らがかかわってきた、海外作品でもシェイクスピア、チェーホフなどの名作に加えて、テネシー・ウィリアムズ、ソーントン・ワイルダーの作品をいち早く採り上げてきた

また、森本薫『女の一生』、有吉佐和子『華岡青洲の妻』、E・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』、T・ウィリアムズ『欲望という名の電車』などの数々の名舞台を生み出してきた

なかなか由緒ある劇団のようだ、ただ、文学座をはじめとする演劇の集団も路線の違いなどにより離合集散を繰り返しているようだ、この文学座は現存する劇団で一番古い創立、これに続いたのが俳優座で1944年創立となっている

出演

寺田路恵、玉井 碧、鵜澤秀行、高橋ひろし、鈴木弘秋、太田しづか、杉宮匡紀、森 寧々

あらすじ(劇団の説明を引用)

九州南部のとある集落、だんだんと人が減っていき、いまは数十世帯のみが暮らしている。元清掃公社職員の小川和士は、現在は個人で墓石の清掃などを請け負いながら暮らしている。

ある日、小川に墓石の清掃の依頼をしている若い女が横浜からやってきた。同じ頃、その集落にひとりで暮らす石津サエの許には孫の拓己が訪ねてくる。また同じ頃、都内に住む会社員・半谷誠生の周りでは不思議な出来事が起きていた。

その年、それぞれに起きた出来事たちは、まったく無秩序で無関係なものなのだろうか・・・ここにいる者とここにいない者たちの邂逅の物語

いつも感じるのは出演者が誰の役をやるのか劇団ホームページで開示されていないことだ、予習して当日を迎えたい人にとっては有料でもいいから公演ノートをwebで事前に閲覧できるようにしてもらいたい

けっこう筋書きは複雑で、それぞれの登場人物の位置づけが上記のあらすじの説明だけではわかりにくかった、最後まで見て、何となくわかったという感じだった

今回の劇の問題意識としては、これまた劇団の説明を引用すれば、

やがてその集落は緑に覆いつくされ消えていくのだろうか。家も田畑も、そこにあった暮らしも。ここにあるのは、わたしたちの原風景。そしてわたしたちの現実。わたしたちはいつも、なにかを忘れている気がする。わたしたちは、こう生きるしかなかったのだろうか

この問題意識も最後まで演劇を観て何となく、そうなんだ、と言う感じで理解できた、劇の途中で、元タクシー運転手の谷元勤が足を怪我して入院している病院のベッドで「自分は国鉄に勤めていた、もっと働きたかったが民営化の時に余剰人員と言われ退職した、このころから日本はおかしくなった」と言っていたのが印象的だった

藤原正彦教授によれば、「日本は帝国主義、共産主義、新自由主義など、民族の特性に全くなじまないイデオロギーに明治の開国以来、翻弄され続けてきた国である」とある、そうかもしれない

さて、今日の演技を観て、いつものことながら出演者の演劇にかける情熱を感ぜずにはいられなかった、それぞれの出演者は精一杯演技していた、明日が最終日だから一番油が乗った所でもあったのであろう、セリフにつっかえるところも全然なく、自然な感じで話していたのが好印象だった、座席と舞台が接近しているのも迫力を感じられて素晴らしかった、演劇というのはこのくらいの規模で観るべきものかもしれないと思った、ただ、収容能力がもっとあるところでやるか、チケット代を値上げしなければ採算的にはきついだろうなと感じた

出演者は物語の内容から年配者と若者と適度にミックスしていて、その面でも、ベテランと若手の両方の役者の演技をじっくり観れて良かった、ベテランはベテランの味を出し、若者は元気溌剌としたきびきびした演技で良かったと思う

なお、タイトルの「石を洗う」だが、これは劇中に元清掃公社職員の小川和士が墓石の清掃を仕事として、そこを中心に劇が進められ、祖先を大事にする、故郷を大事にする、仕事しつづけることが大事である、などのいろんな意味が墓石を清掃することに込められてるし、我々の祖先と生き方を象徴するものである石を今生きている皆で支えていくべきでは、という意味がポスターの絵になっているのかな、と思った

楽しめた演劇でした


劇団俳優座、演劇「野がも」を観る

2024年06月29日 | 演劇

劇団俳優座創立80周年記念事業の演劇「野がも」(全2幕)を観た、シニア割引で5,000円、14時開演、16時30分終演、この日は公演最終日

場所は六本木の俳優座スタジオ、俳優座のビルの横のエレベーターから5階に上がり、そこにある、初訪問、スタジオ内は狭く、アングラ感満載、座席はざっと見て100席くらいか、ほぼ満員で7割くらいは中高年だったのには驚いた、外国ものは原作を読んだことがある意識高い系の中高年世代が観に来るのだろうか、私もその一人だが

ヘンリック・イプセンは劇団俳優座が取り上げ続けた「近代演劇の父」、「野がも」は築地小劇場開場100年、劇団創立80周年に立ち返る新劇の原点、と劇団の宣伝にはある、さらに、宣伝には「人間てやつは、ほとんどだれもかれも病気です、情けないことにね」と劇中の最後のほうで医師レリングが吐くセリフがある

脚本:ヘンリック・イプセン
翻訳:毛利三彌
演出:眞鍋卓嗣

イプセンはノルウェーの劇作家、グリーグ作曲「ペール・ギュント」はイプセンの戯曲の上演のために作曲したものだ。「野がも」の初演は1885年1月、ノルウェー劇場であったが、評判はあまりよくなかったそうだ。

<配役>

豪商ヴェルレ・・・・・・・・加藤佳男
グレーゲルス・ヴェルレ・・・志村史人
老エクダル・・・・・・・・・塩山誠司
ヤルマール・エクダル・・・・斉藤 淳
ギーナ・エクダル・・・・・・清水直子
ヘドヴィク・・・・・・・・・釜木美緒
レリング・・・・・・・・・・八柳 豪

豪商ヴェルレとエクダルはかつて森林伐採工場の共同経営者だったが、森林法制定により法に違反する伐採を行った罪でエグダルが投獄される、ヴェルレはエクダルの無知を利用して自分だけ無罪になる。その後、ヴェルレ家は巨利を得、エグダル家は没落していく。

その事件から数年後、久しぶりに別居していたヴェルレの息子グレーゲルスが帰ってきてエクダルの息子ヤルマールと再会する。ヤルマールは、ヴェルレ家の女中ギーナと結婚し、娘ヘドヴィクを持ち、ささやかながら幸せな家庭生活を送っていた。

ところが、話をしていくうちにグレーゲルスはヤルマールの妻ギーナと娘のヘドヴィックについてある疑惑を感ずるようになる。やがてグレーゲルスは疑惑を暴き、真実をヤルマールに伝えると・・・・

題名の「野がも」は、ヴェルレが湖で狩りをした時、打ち損じて水底に潜ったものを、彼の犬が引き上げたもの、それを老エクダルに与え、それを孫娘のヘドヴィックがかわいがっていた

この「野がも」という劇について、岩波文庫の巻末の解説を書いた訳者でもある原千代海氏は

  • イプセンは、ある一家の環境を描き、平均的人間がどれだけ「真実」に耐えうるかを検証した
  • 「真実」の使徒をもって自任するグレーゲルスは、ヤルマールの結婚の秘密をあばくことにより、この一家をヴェルレルによって撃ち落された哀れな野がもの状態から救い出そうと考える
  • グレーゲルスは「真実」を伝えたあとに起こる以外な結果に、もし平均的な人間からあらゆる虚偽を取り去るなら、それは同時に彼らから幸福をも取り去ることになるのだ、という教訓を知る
  • イプセンは、特にグレーゲルスを戯画化して、悲劇を抱えた喜劇としてこれを書いた、そして自分自身のモラリスト的一面に鋭い自己批判を加えた
  • 戯曲の象徴として用いられている野がものあり方も、エクダル親子には「生活の夢」、ヘドヴィックには「孤独」、ギーナには「無関心」、そしてグレーゲルスには、ヤルマールが野がもに重なる、という多義的なものとなった

と解説している、なかなか難しい

イプセン研究家の毛利三彌氏は、「野がも」について

  • 1960年代と70年代はノルウェーが急速に近代化を進めた時代で、勝ち組と負け組が明確になり、「野がも」でも家族関係の軋轢には、近代化による経済差が反映されている、それがイプセン自身の家族の変遷と重なっている
  • イプセンが8歳の時、父は破産同然に没落、イプセンは15歳で別の町の薬屋に奉公に出て、その後は故郷に帰らなかった
  • グレーゲルスは「理想の要求」でヤルマールの家庭を崩壊してしまうが、このグレーゲルスの中にかなりイプセン自身の反映がみられる
  • それまでイプセンは旧道徳批判で名を挙げていたのが、一転して、保守的ともみられる「人生の嘘」肯定論を展開していることに当時の人々は戸惑ったが、イプセンは老エクダルが国家近代化の犠牲になって没落したことを書いて、その基本姿勢は変えていない

と解説している、なかなか奥が深い

さて、これだけの予備知識をインプットして当日演劇を観た感想を書いてみたい

  • イプセンは好きな作家である、「人形の家」、「民衆の敵」、「幽霊」などは良い作品だと思う。彼の人生を簡単に調べると、結構いろいろあった人だと分かったし、昨年行ったミュンヘンにも一時住んでいたことを知った
  • 物語には二つの家族が出てくる、豪商のヴェルレ家と没落したエクダル家だ、だが、勝ち組と負け組と単純に言えないと思った、ヴェルレはエクダルを陥れ自分だけが富を築いたが、妻に先立たれ、息子のグレーゲルスとはうまくいっていない、さらにヴェルレは目に重大な疾患があるので幸せそうには見えない、没落したエクダル家は貧しいながら家族3世代一緒に仲良く暮らししていた、金と幸福度は正比例しないと思った、人々の「金持ち度合×幸福度合=一定」という公式が成立するように神はちゃんと考えているのではないか
  • 野がもは豪商ヴェルレによって撃ち落されたが、ヴェルレの犬によって救われた、そしてエクダル家に与えられた。また、ヴェルレは手を出して孕ませた女中をエクダルの息子のヤルマールと結婚させた。ともにヴェルレは楽しんで不要になったものを自分のせいで没落したエクダル家に与えた。その後、罪滅ぼしのためかエクダル家が行き詰まらない程度の援助をギーナに与え続けたがギーナはこれをヤルマールには話していなかった、それを知ったヤルマールは妻や子供ばかりか金までもヴェルレから与えられたものと知り大いに自尊心を傷つけられた。野がもはヴェルレがエクダル家に押し付けた不要なものの象徴だと思った
  • グレーゲルスは真実を伝えるべきと信じていたが、イプセンが暗示したように人間は真実には耐えられない場合があり、常に真実を知ればよいというものではないという考えは、私も同意する。英語にもWhite lieという用語がある、「相 手を傷つけないための、必ずしも悪いとはいえない嘘」である。日本でも「知らぬが仏」という言葉がある。こう考えると、世の中でグレーゲルスのように「真実」や「正義」を振り回す一直線な人は困った存在ということになろう、今の日本でこれを振り回しているのは・・・
  • 初めてこの演劇を見て、事前予習をした時と印象が異なる部分があった、例えば、この演劇の主役は誰であろうか、はっきりしななかったが、観劇した後ははっきりとヤルマールだと思った、斉藤淳の熱演が本当に良かったためかもしれない。パンフレットなどでは、家業のカメラ屋をほっぽり出してギーナに任せきりにし、自分は金にもならない研究などに没頭しているダメ男として描かれているが、今日の舞台では、結構しっかり自分の考えや感情を出しており、ダメ男ぶりは強調されていないように見えた。
  • 準主役はグレーゲルス、ギーナ、ヘドヴィックで、それぞれ志村史人、清水直子、釜木美緒の演技もよかった
  • 劇場内が狭いため、舞台と観客の距離感が非常に近く、すぐ目の前で演技を見せてくれるので、俳優の迫力がビシビシと観客に伝わってきた、こういう設定も良いなと思った。また、俳優たちも舞台の袖や奥、観客の入口のロビーのほうから出てきたりと、面白い工夫がなされていた。

興味深い演劇であった、役者の熱演が素晴らしかった


演劇「ハムレット」を観る

2024年05月25日 | 演劇

彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd Vol.1『ハムレット』を観に行った、S席、9,300円、14時開演、上演時間は休憩を含み3時間35分(一幕 1時間45分/休憩15分/二幕 1時間35分)、場所は彩の国さいたま芸術劇場の大ホール(収容人数776席)、ここは初訪問

彩の国さいたま芸術劇場リニューアルオープン&開館30周年イヤーの今年、彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督吉田鋼太郎による新シリーズ「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」の第一作として『ハムレット』を上演すると知り、行きたくなった。

この芸術劇場は、1994年10月に開館し、本年、リニューアルオープンした。蜷川幸雄前芸術監督の後を引き継ぐ新しい劇場のリーダーとして、2021年4月から舞踊家の近藤良平氏が次期芸術監督に就任した。ここは蜷川幸雄が手がける演劇公演を数多く上演した劇場

今日はほとんど女性客で占められていた、ほぼ満員の盛況だった

演出・上演台本    吉田鋼太郎

出演
ハムレット:柿澤勇人
オフィーリア(恋人):北 香那
ホレーシオ(親友):白洲 迅
レアティーズ(オフィーリアの兄):渡部豪太
ポローニアス(デンマーク王の顧問官、オフィーリアらの父) ほか:正名僕蔵
ガートルード(母):高橋ひとみ
クローディアス(叔父)/亡霊:吉田鋼太郎

フォーティンブラス(ノルウェー王子)ほか:豊田裕大
オズリック ほか:櫻井章喜
マーセラス ほか:原 慎一郎
ローゼンクランツ ほか:山本直寛
ギルデンスターン ほか:松尾竜兵
黙劇役者 ほか:いいむろなおき
フランシスコー ほか:松本こうせい
ヴォルティマンド ほか:斉藤莉生

演出、台本、出演者の吉田鋼太郎(1959生まれ)はあまり知らなかったが、2018年5月の日生劇場での演劇「シラノ・ド・ベルジュラック」の演技をテレビで見て、感動し、好きになった、大した役者だと思った。その後、機会があれば彼の手掛ける演劇は観るようになった。昨年も彼の演出、台本によるシェークスピア「ジョン王」を観た(その時のブログはこちら)

今日の吉田の演技はさすがベテランの味を出していたと思う、演技に余裕が感じられた、そして彼の演出だが、まずまずだと思った、ホールの後方から舞台に向かって2つの通路があるが、その通路を歌舞伎の花道のようにうまく使って臨場感を出すなどの工夫があった、また台本だが、最後のほうでハムレットに「自分はオフィーリアを愛していた」と言わせる独自解釈もしていた、私とほぼ同年代、これからもどんどん頑張ってほしい

今日の主役はタイトルロールの柿澤勇人だろう、1987生まれ、祖父の清元榮三郎は三味線奏者、曾祖父の清元志寿太夫は浄瑠璃の語り手で、ともに人間国宝、兄嫁は村主(すぐり)千香、千香の姉が村主章枝、両者とも元スケート選手、すごい家系だ。初めて観る俳優だが、熱演していた、最初のうちは結構怒鳴り気味の大声で話していてぎこちなさを感じたが、後半はだいぶ良くなったように思う、やはり日常の会話のように話す技術が大事だと思う

それ以外では、ハムレットの恋人オフィーリア役の北香那(1997生まれ)が良い演技をしていた、吉田の指導が大きいのかもしれないが、父をハムレットに誤って殺され、自分もハムレットから尼寺に行けと言われて気がふれてしまうところの演技が真に迫って非常に良かった。

ハムレットの母ガートルード役に高橋ひとみ(1961生まれ)もいい演技をしていた、ただ、これは吉田に指摘すべきことかもしれないが、ガートルードはもっと色っぽく、セクシーで大胆によろめく熟女というか半分悪女のように振る舞い、服装なども工夫してほしかった、そうでなければ先夫が亡くなって直ぐに先夫の弟と結婚したりしないのではないか、高橋は十分そういうイメージを出せる女優だと思うが、今日の高橋の衣装はそれとは逆の清楚で上品な感じだったので、私が抱くガートルードのイメージから少しずれていると思った、

今日の公演だが、終演になると観客席はすぐにほぼ全員スタンディング・オベーションになった、純粋に演劇が素晴らしかったとしてそうなったのか、吉田がご婦人たちから人気があるためか、主役の柿澤の人気なのかわからないが、圧倒された、演劇公演でこんなことがあるのは初めてだ、宝塚とあまり変わらないイメージで演劇を見ているのでしょう、と言ったら怒られるか

さて、今日は劇場に行くため埼京線の与野本町の駅に降りると、駅前のかなり広いスペースをとってバラが植わっており、満開の花を咲かせていた、大変きれいであり目の保養になった

お疲れ様でした