ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

劇団文化座公演167「紙の旗」を観劇

2024年10月31日 | 演劇

劇団文化座公演167「紙の旗」を観劇した、場所は文化座アトリエ田端、午後2時開演、3時50分終演、途中休憩なし、この日は千秋楽、150人程度収容する小さなアトリエ、座席は満席に見えた、来ているのは中高年が圧倒的だった、チケット販売や誘導などをしている劇団スタッフは若い人が多く、演劇を目指す若い人が多いのかと頼もしく思った、どの職業でも若い人が集まってこない仕事は発展しないでしょう

劇団文化座(代表:佐々木愛)は戦時下の1942年2月、井上正夫演劇道場のメンバーであった演出家の佐々木隆、女優の鈴木光枝らによって結成され、同年4月第1回公演梅本重信作「武蔵野」で旗揚げした劇団

この日にもらったプログラムの佐々木代表のあいさつによれば、この日の演目の「紙の旗」は、私達の日常生活に点在する本の小さな選択と意志が描かれているとのこと、我々の日ごろの生活における小さな選択と小さな意志がいまほど大切に思われる時はない気がしている、としている

「紙の旗」の作/演出は内藤裕子氏

内藤裕子氏は埼玉県生まれの劇作家、演出家で演劇集団円(えん)所属、2014年演劇集団円『初萩ノ花』(作・演出)にて読売演劇大賞作品賞受賞、2022年演劇集団円『ソハ、福ノ倚ルトコロ』(作・演出)にて紀伊國屋演劇賞個人賞受賞、2023年エーシーオー沖縄・名取事務所共同制作『カタブイ、1972』(作・演出)にて第10回ハヤカワ「悲劇喜劇」賞、第26回鶴屋南北戯曲賞受賞

キャスト

鈴木和則(共立党)・・・津田二朗
岡野義明(民自党議員)・・・青木和宣
斉藤康彦(民自党議員)・・・鳴海宏明
駒井 茂(議会事務局長)・・・沖永正志
矢島博信(無所属・改新クラブ)・・・藤原章寛
宮崎いく子(公友党議員)・・・瀧澤まどか
相田 透(みらい市民フォーラム)・・・井田雄大
星野伸一(議会事務局職員)・・・早苗翔太郎
神谷あやね(議会事務局職員)・・・若林築未
石川陽子(みらい市民フォーラム)・・・深沢 樹
萩原智子(記者)・・・神﨑七重

あらすじは、

ある地方議会でのこと、新人女性議員が育児休暇について「だから私たち若い世代が言わなきゃオッサン議員たちは気がつかない」とブログに書いたところ、議会は大紛糾、政治に対する諦めや、無力感が覆う空気の中で、その事に抗い、何かを良くしようと奮闘する人々の悲喜交々のある一日の物語

あらすじの補足や、観劇した感想などを述べてみたい

  • 結論から言えば、大変面白かったし、いい演劇だと思った、内藤裕子氏の作品や演出は大したものだと思った
  • やはり演劇は大きな劇場で見るよりもアングラ劇場的な小さな劇場で、俳優と近い位置で見るのが一番だと思った、俳優の声の出し方などが自然であり、演技っぽくないところが良かった
  • 昨年読んだ福田恒存氏の「演劇入門」によれば(その時のブログはこちら)、劇が映画と本質的に異なるところは舞台と観客席との交流ということである、舞台においては役者は終始、観客の緊張度に支配されている、聴き手が熱心に聴いてくれなければ、張り合いぬけがして、話し続ける気をなくしてしまうが、聴き手が身を乗り出し、相槌を打って話し手と無言の対話をすれば、役者はそれに力づけられ、それに反応し自分の演技に酔うことができる、と述べている、こうなるためには舞台と客席は近くないといけないと思った、この日はまさにそんな感じの役者と観客の無言の対話ができていたように感じた
  • 場面転換が何回かあったが、いずれもマンボのような楽しい音楽が流れ、椅子や机などの舞台道具を動かす音や俳優の足音を消しておりうまいと思った
  • あらすじにある通り、ある市議会において女性議員の育児休暇の是非について議論になり、議会与党の代表が「育児を替われる人はいるが議員は代替がきかないことをよく考えるべきだと」と発言し、事実上育児休暇を認めない決定をしたことに憤りを感じた若手女性議員が自身のブログに「議員のオッサンたちは育児の重要性がわかっていない」と書いたから大騒動になり、議会各党の代表者会議が開かれて、その女性議員を呼び出して議論が喧々諤々されるのがこの物語である
  • 呼び出された女性議員は、議会の各党の偉い人たちから、事実誤認があるとか、先輩議員に対するリスペクトがないとか、謝罪してブログを削除せよとか言われるが、毅然として拒否するから、話はどんどんこじれていく・・・
  • 代表者会議は議長と各党代表5名の6名、休暇の是非について議論するが、与党と革新クラブ代表の矢島議員が県議会議員への立候補を認めるというエサを与えられ反対し、その他の野党が賛成する、その議論はなかなか面白かった
  • その代表者会議に、事務方の3名と傍聴の記者が絡み、さらに劇を面白くしていた
  • この演劇は、議会与党や年長者議員の旧態依然とした実態を批判的に描く、という単純なものでもない、プログラム・ノートに書かれた内藤氏の解説を読むと、氏は祖父が市議会議員、祖母が選挙運動をやっていたので、議員と実際に会って話を聞き、議会を傍聴し、議会の仕事の面白さや議員の人たちが真面目に仕事をしているのに気付き、この演目を作ろうと決心したと書いてある
  • そして、若手女性議員の育児休暇の可否は市政にとって必ずしも重大な問題ではないが、与野党・ベテランと若手が自分の意見を臆することなく主張して衝突しながらも、お互いの意見を知り、自身の至らないところを認識し、少しでも前進することの大切さを学んでいく、そういうことを言いたかったのかな、と感じた
  • この日演じた俳優たちはいずれも良い演技をしていた、若手から中堅、ベテランに至るまで、それぞれの役柄をしっかりと演じていたと思う、大したものだと感心した

良い演劇でした

この日は観劇後、駒込の駅まで歩いたが、まだ時間が早かったので、駅の反対側のある商店街を歩いてみた、昭和のムードが残る個人商店中心の商店街であり、良いところだと思った


「築地小劇場100年―新劇の20世紀―」展を観に行く

2024年10月29日 | 演劇

ここ数年、演劇に興味を持ちだし、テレビで観たり公演を観に行ったりしているが、最近、「築地小劇場100年―新劇の20世紀―」展が開催中なのを知って行ってみたくなった、場所は早稲田大学演劇博物館、大学内で何度か見たことがある建物だが入るのは初めて、入場は無料、写真撮影禁止

新劇とは、日本の近代において西欧の影響を受けて生まれた演劇ジャンルであり、台詞による表現と思想に重きを置いた演劇。明治末に誕生し、大正期には時代の最先端の演劇の潮流を形成、戦後に黄金時代を迎えた。いま、通常「演劇」と言えばこの新劇のことを指すと思うが、広く演劇といった場合、歌舞伎、新派、ミュージカルなどを含めたものである

大正13年(1924)6月、演劇の拠点、築地小劇場が誕生した。新劇初の本格的な常設の専用劇場であり、同劇場の専属の劇団名でもあった。新劇の父ともよばれる小山内薫を軸に生まれたこの劇団は、実験的な公演を次々に手掛け、数々の優れた作品を世に送り出した。築地小劇場からは、戦前から戦後の演劇界を支えた俳優や劇作家、スタッフなど多くの人材が輩出されていいる。

築地小劇場創設100年にあたる今年、演劇博物館所蔵の新劇関連資料を一堂に展示し、新劇とはどのような演劇だったのか、その長い歴史を振り返りつつ、「新劇の20世紀」を改めて考える契機としたいというのが主催者の思いのようだ

早大の演劇博物館に入り、順路と出ていたのでそれに従い展示作品などを見て行った、展示は時代順になっており、一つ一つの説明を見ていくと日本における演劇の発展段階がわかるようになっていた、そしてそれぞれの時代の演劇のポスターや台本、舞台の設定記録、写真や映像、音声、衣装などいろんな資料が展示してあり参考になった

展覧会の展示リストの余白などに鉛筆で簡単に歴史をメモして、帰宅して思い出しながら100年の新劇の歴史のキーワードだけを時系列に書いてみると、

  • 演劇と言えば歌舞伎だけだったが、そこから新派が分離し、もう一つ近代劇(新劇)ができた、新劇は翻訳もので、西洋の自由主義や個人主義を演ずる最先端なものだった
  • 川上音二郎が新劇の先駆者となった
  • 島村抱月や坪内逍遥が中心となって文芸協会や芸術座ができた
  • 自由劇場ができる、これは二代目市川左團次と小山内薫が作った
  • 多様な新劇運動が起こり、歌舞伎役者中心にいろんな劇団ができた、前進座、本郷座、有楽座、浪花座など
  • 新劇を上演する劇場もいろいろできた、大規模な商業主義の劇場と小規模の非商業的な劇場があった
  • これらの劇場は大正12年の関東大震災で倒壊した
  • 大正13年(1924年)に築地小劇場ができた、1928年に小山内薫が亡くなるまでの間に90以上の前衛的な演劇の上演をした
  • 小山内亡き後、築地小劇場という劇団は分裂していったが劇場施設は途中名前を変え1945年に空襲で焼けるまで存続した
  • 大正デモクラシーにより左翼活動家の左翼劇場、新築地劇場などのプロレタリア演劇が盛んになった
  • 左翼から一線を画した築地座も1937年にできて後に文学座になる、1904年には俳優座ができる、一方、プロレタリア演劇は治安維持法により解散させられた
  • 戦後は劇団民藝などいろんな劇団ができた、三島由紀夫、木下順二、福田恒存、安部公房などが劇作家や翻訳などで活躍し、小規模なアングラ劇場もできた

展示室内に劇団の設立と分裂、統廃合などの年表の図が大きく出ていたが、それを見ると、築地小劇場が日本の新劇界に与えた影響の大きさというものが良く理解できる、時系列の一番最初の方に築地小劇場があり、その参加者がいくつにも分裂して、統廃合を繰り返し、今ある文学座、俳優座、劇団民藝などの劇団につながっていく

1時間以上、じっくりと勉強して有意義だった、勉強になりました

さて、じっくり立ちながら勉強して疲れたので、博物館のすぐ前にある国際文学館村上春樹ライブラリーにあるカフェ「橙子猫-ORANGE CAT-」に立ち寄り、コーヒー500円を注文してしばしくつろいだ、このライブラリーは誰でも見学できるのでざっと見て回った、村上春樹の小説は若いころいくつか読んだが最近はどうも手が伸びずにいる、氏がクラシック音楽やジャズに造詣が深く、英語にも堪能なところには惹かれている

これでこの日はおしまい、ということで早稲田駅に向かいキャンパスを歩いていると、大きな立て看板があるのに目が行った、「11.10怒りの大集会、改憲・日米安保強化に反対」とか「石破政権による改憲・大軍拡を阻止しよう」などと書いてある

前者の集会の呼びかけ人に池辺晋一郎氏の名前があるのを見てがっかりした、むかしNHKのクラシック音楽番組に檀ふみと一緒に案内役をして軽妙洒脱なところを見せていたのに・・・

安保闘争時代とあまり考え方が変っていない人が多いのが大学とマスコミではないか、そこに目をつけているのがわが国周辺の全体主義国家だろう


俳優座「セチュアンの善人」を観劇する

2024年09月30日 | 演劇

六本木の俳優座劇場で「セチュアンの善人」を観劇した、14時開演、17時終演、シニア料金5,000円、観客の平均年齢は高かった、ここは300人くらい入る劇場だが満員であった

俳優座は、文学座・劇団民藝と並び日本を代表する新劇団の一つ。1944年(昭和19年)2月に青山杉作・小沢栄太郎・岸輝子・千田是也・東野英治郎・東山千栄子・村瀬幸子ら10人によって創立された。初代の劇団代表は千田是也(せんだ これや)。2000年から浜田寅彦、大塚道子と続き、現在の代表は岩崎加根子。

昨年6月に、六本木の俳優座劇場が2025年4月末で閉館することがわかったというニュースがあった(こちら参照)、「劇場の老朽化と収支の悪化」が理由としている、この劇場では東野英治郎、東山千栄子、仲代達矢、加藤剛、市原悦子、栗原小巻ら数多くの名優が舞台に立ってきた

「セチュアンの善人」(神様のおつくりになったこの世は難しすぎます)

原作:ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)
脚色・上演台本・演出:田中壮太郎

ものがたり

  • 3人の神様は世の中の乱れを聞かされて、確かめに地上に降りてくるとと、善人は全然いなかった
  • 唯一、セチュアンの男娼のシェン・テのみが神様たちに一夜の宿を提供する善人であったが、生活苦であった
  • そこで神様はお礼にシェン・テに大金を渡し、善人であり続けるよう言って消え去る、シェン・テはそのお金でコーヒー屋を始めるが、金を目当てに親類縁者・隣近所の人間が押しかけ、その大金は使われそうにる
  • シェン・テは時々冷酷な資本家の従弟のシュイ・タに変装し、シェン・テの利益を確保し、コーヒー屋の事業を効率的に進める
  • シェン・テはパイロット志望の恋人ヤン・スンがいるが、だらしないので愛想をつかした、ところがシュイ・タはヤン・スンをコーヒー事業の管理職にすると能力を発揮して、住民をこき使い、効率を上げ、業績を拡大させたが事故で死亡
  • シュイ・タのやり方は資本主義の貪欲さ丸出し、人をこき使い、怪しい原料を使った商品を売るなど問題が多いが、事業を拡大し、地域住民に雇用と安定した生活をもたらし、善人のシェン・テを悩ませる、善人では幸せになれないのかと
  • 神が再び現れると、善人だと思っていたシェン・テと資本家のシュイ・タが同一人物であったことがわかり嘆く、どうしたら良いかとのシェン・テの質問に神は答えられず、最後は勝手にしろと匙を投げる

今日の公演ではめずらしく公演プログラムを購入した、500円。それを読むとこの演劇の概要、問題設定などが少しわかる、いつくか参考になる部分を書くと

  • 俳優座がこの演目を上演するのは38年ぶり
  • この演目は社会主義の応援歌、資本主義下では善人は人間らしい生活はできず、社会主義に変革しなければならないという思想がこの演劇の根底にある
  • 原作者のブレヒトはファシズムに反対して労働運動に関わり、共産党の立場から教育劇などを作るようになった
  • 神様という存在、善人や善が、作者により皮肉られている
  • 対照的な二つの性格が一人の人間に仮託されている、善人の男娼シェン・テと、社員を搾取する男性経営者のシュイ・タ
  • 本来女性が演じるシェン・テを、男性俳優の森山智寛が演じた

観劇した感想を述べたい

  • 原作は資本主義を批判し、社会主義礼賛のようだが、今時その結論では劇は成り立たず、資本主義の批判をパロディーにした演劇だと思った、それはうまくいったと思う、神や善に対する強烈な皮肉が効いている
  • 舞台演出が良かった、第1幕と2幕の冒頭、舞台の床には相撲の土俵のような丸い輪が設置してあり、水売りのワンがその周りをぐるぐる歩く、その時点では客席の照明はまだ落ちていない、劇の開始時の客席のざわつきを静める効果を狙ったものかと思ったが、それはそれでうまいやり方だと思った
  • その土俵のような丸い輪が、演劇が進んでいくと、途中で垂直に立ち上がり、繁盛しているコーヒー屋の名前の文字が輝くゲートのようなものになるところなど、面白かったし、舞台右横ではいろんな道具を使ってちょっとした音を出して劇に味付けしていたのも良い工夫だと思った
  • 舞台背面には電気の照明により飛行機が飛ぶ姿などが映し出され、効果的な演出だと思ったし、最後の方では歌を歌う場面などもあり、飽きない工夫が凝らされていた
  • 出演者では、シェン・テ/シュイ・タの森山智寛は頑張っていた、特にシュイ・タの演技が良かった、ヤン・スンの八柳豪も憎らしい役をうまく演じていた、パイロットになろうとじゅうたん屋の夫婦から金を出させようとするところなど、本当にパイロットになろうとしているのか、金をだまし取ろうとしている悪党のかよくわからないほど、いい加減さをうまく演じていた、その後、コーヒー屋の管理職になるとそれもピッタリとはまった演技だった
  • 床屋の加藤頼も個性が強い役を、いや、加藤個人の個性が強いのかわからないが、よく演じていた、普通の人物か悪人かよくわからなかった、また、女家主の坪井木の実の演技も良かった
  • 若手で最高に良かったのは水売りの渡辺咲和であろう、大きな声で歌を歌ったり、懸命の演技をした、途中、床屋に手をケガさせられるが、その後、水売りの商売がうまくいき、意気揚々と自慢するなど、意外と才能ある女をうまく演じていた
  • 神様の三人も面白かった、最後のシェン・テから「どうしたら良いのですか」と問いかけられた時の困った表情などは笑えた、水売りの渡辺咲和も神様の今野まいもピンチヒッターであるにも関わらず最後まで頑張れたのは立派だと思う

楽しめました


文学座9月アトリエの会『石を洗う』を観劇

2024年09月22日 | 演劇

久しぶりに演劇公演を観てきた、今回は、文学座アトリエの会『石を洗う』、5,000円、14時開演、16時半終演、途中休憩1回15分含む

作:永山智行(1967年生れ、劇作家/演出家/劇団こふく劇場代表)
演出:五戸真理枝
場所:信濃町・文学座アトリエ(初訪問)

九州の演劇界を牽引する永山智行氏が文学座に初めて書き下ろす戯曲との触れ込み

文学座アトリエとは、ホームページから引用すると、1950年竣工、イギリスのチューダー様式が採用されている文学座の稽古場で、前衛的実験的な作品を上演する「アトリエの会」を行う文学座の拠点。 1950年より現在に至るまで「アトリエの会」の上演場所として活動を続け、 日本の演劇界に歴史を刻み続けてきました、 劇団のほぼ全ての演劇活動がこのアトリエで作られています、とある

信濃町の駅から歩いて10分弱、事前に地図を見ておいたので場所は直ぐに分かった、劇場内は120席くらいか、先日行った俳優座スタジオと違い、舞台を正面に見てすべての座席が配置してあり、奥行きは全部でG列までか、舞台は非常に見やすかった、また、1階のため火事などの非常時にも心配不要な劇場だと思った

舞台正面から観客席奥まで行く通路が2つあり、これが歌舞伎の花道みたいに利用されており面白かった

文学座(代表角野卓造)は、1937(昭和12)年9月、久保田万太郎、岸田國士、岩田豊雄(=獅子文六)の文学者の発起によって創立、「真に魅力ある現代人の演劇をつくりたい」、「現代人の生活感情にもっとも密接な演劇の魅力を創造しよう」を理念としている

活動は本公演、アトリエの会、附属演劇研究所という三本柱があり、今回はアトリエの会の公演だが、本公演の方は、創立者の3名に始まり、森本薫、加藤道夫、三島由紀夫、有吉佐和子、宮本 研、平田オリザ、なかにし礼、鄭義信、川﨑照代、マキノノゾミ、中島淳彦らがかかわってきた、海外作品でもシェイクスピア、チェーホフなどの名作に加えて、テネシー・ウィリアムズ、ソーントン・ワイルダーの作品をいち早く採り上げてきた

また、森本薫『女の一生』、有吉佐和子『華岡青洲の妻』、E・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』、T・ウィリアムズ『欲望という名の電車』などの数々の名舞台を生み出してきた

なかなか由緒ある劇団のようだ、ただ、文学座をはじめとする演劇の集団も路線の違いなどにより離合集散を繰り返しているようだ、この文学座は現存する劇団で一番古い創立、これに続いたのが俳優座で1944年創立となっている

出演

寺田路恵、玉井 碧、鵜澤秀行、高橋ひろし、鈴木弘秋、太田しづか、杉宮匡紀、森 寧々

あらすじ(劇団の説明を引用)

九州南部のとある集落、だんだんと人が減っていき、いまは数十世帯のみが暮らしている。元清掃公社職員の小川和士は、現在は個人で墓石の清掃などを請け負いながら暮らしている。

ある日、小川に墓石の清掃の依頼をしている若い女が横浜からやってきた。同じ頃、その集落にひとりで暮らす石津サエの許には孫の拓己が訪ねてくる。また同じ頃、都内に住む会社員・半谷誠生の周りでは不思議な出来事が起きていた。

その年、それぞれに起きた出来事たちは、まったく無秩序で無関係なものなのだろうか・・・ここにいる者とここにいない者たちの邂逅の物語

いつも感じるのは出演者が誰の役をやるのか劇団ホームページで開示されていないことだ、予習して当日を迎えたい人にとっては有料でもいいから公演ノートをwebで事前に閲覧できるようにしてもらいたい

けっこう筋書きは複雑で、それぞれの登場人物の位置づけが上記のあらすじの説明だけではわかりにくかった、最後まで見て、何となくわかったという感じだった

今回の劇の問題意識としては、これまた劇団の説明を引用すれば、

やがてその集落は緑に覆いつくされ消えていくのだろうか。家も田畑も、そこにあった暮らしも。ここにあるのは、わたしたちの原風景。そしてわたしたちの現実。わたしたちはいつも、なにかを忘れている気がする。わたしたちは、こう生きるしかなかったのだろうか

この問題意識も最後まで演劇を観て何となく、そうなんだ、と言う感じで理解できた、劇の途中で、元タクシー運転手の谷元勤が足を怪我して入院している病院のベッドで「自分は国鉄に勤めていた、もっと働きたかったが民営化の時に余剰人員と言われ退職した、このころから日本はおかしくなった」と言っていたのが印象的だった

藤原正彦教授によれば、「日本は帝国主義、共産主義、新自由主義など、民族の特性に全くなじまないイデオロギーに明治の開国以来、翻弄され続けてきた国である」とある、そうかもしれない

さて、今日の演技を観て、いつものことながら出演者の演劇にかける情熱を感ぜずにはいられなかった、それぞれの出演者は精一杯演技していた、明日が最終日だから一番油が乗った所でもあったのであろう、セリフにつっかえるところも全然なく、自然な感じで話していたのが好印象だった、座席と舞台が接近しているのも迫力を感じられて素晴らしかった、演劇というのはこのくらいの規模で観るべきものかもしれないと思った、ただ、収容能力がもっとあるところでやるか、チケット代を値上げしなければ採算的にはきついだろうなと感じた

出演者は物語の内容から年配者と若者と適度にミックスしていて、その面でも、ベテランと若手の両方の役者の演技をじっくり観れて良かった、ベテランはベテランの味を出し、若者は元気溌剌としたきびきびした演技で良かったと思う

なお、タイトルの「石を洗う」だが、これは劇中に元清掃公社職員の小川和士が墓石の清掃を仕事として、そこを中心に劇が進められ、祖先を大事にする、故郷を大事にする、仕事しつづけることが大事である、などのいろんな意味が墓石を清掃することに込められてるし、我々の祖先と生き方を象徴するものである石を今生きている皆で支えていくべきでは、という意味がポスターの絵になっているのかな、と思った

楽しめた演劇でした


劇団俳優座、演劇「野がも」を観る

2024年06月29日 | 演劇

劇団俳優座創立80周年記念事業の演劇「野がも」(全2幕)を観た、シニア割引で5,000円、14時開演、16時30分終演、この日は公演最終日

場所は六本木の俳優座スタジオ、俳優座のビルの横のエレベーターから5階に上がり、そこにある、初訪問、スタジオ内は狭く、アングラ感満載、座席はざっと見て100席くらいか、ほぼ満員で7割くらいは中高年だったのには驚いた、外国ものは原作を読んだことがある意識高い系の中高年世代が観に来るのだろうか、私もその一人だが

ヘンリック・イプセンは劇団俳優座が取り上げ続けた「近代演劇の父」、「野がも」は築地小劇場開場100年、劇団創立80周年に立ち返る新劇の原点、と劇団の宣伝にはある、さらに、宣伝には「人間てやつは、ほとんどだれもかれも病気です、情けないことにね」と劇中の最後のほうで医師レリングが吐くセリフがある

脚本:ヘンリック・イプセン
翻訳:毛利三彌
演出:眞鍋卓嗣

イプセンはノルウェーの劇作家、グリーグ作曲「ペール・ギュント」はイプセンの戯曲の上演のために作曲したものだ。「野がも」の初演は1885年1月、ノルウェー劇場であったが、評判はあまりよくなかったそうだ。

<配役>

豪商ヴェルレ・・・・・・・・加藤佳男
グレーゲルス・ヴェルレ・・・志村史人
老エクダル・・・・・・・・・塩山誠司
ヤルマール・エクダル・・・・斉藤 淳
ギーナ・エクダル・・・・・・清水直子
ヘドヴィク・・・・・・・・・釜木美緒
レリング・・・・・・・・・・八柳 豪

豪商ヴェルレとエクダルはかつて森林伐採工場の共同経営者だったが、森林法制定により法に違反する伐採を行った罪でエグダルが投獄される、ヴェルレはエクダルの無知を利用して自分だけ無罪になる。その後、ヴェルレ家は巨利を得、エグダル家は没落していく。

その事件から数年後、久しぶりに別居していたヴェルレの息子グレーゲルスが帰ってきてエクダルの息子ヤルマールと再会する。ヤルマールは、ヴェルレ家の女中ギーナと結婚し、娘ヘドヴィクを持ち、ささやかながら幸せな家庭生活を送っていた。

ところが、話をしていくうちにグレーゲルスはヤルマールの妻ギーナと娘のヘドヴィックについてある疑惑を感ずるようになる。やがてグレーゲルスは疑惑を暴き、真実をヤルマールに伝えると・・・・

題名の「野がも」は、ヴェルレが湖で狩りをした時、打ち損じて水底に潜ったものを、彼の犬が引き上げたもの、それを老エクダルに与え、それを孫娘のヘドヴィックがかわいがっていた

この「野がも」という劇について、岩波文庫の巻末の解説を書いた訳者でもある原千代海氏は

  • イプセンは、ある一家の環境を描き、平均的人間がどれだけ「真実」に耐えうるかを検証した
  • 「真実」の使徒をもって自任するグレーゲルスは、ヤルマールの結婚の秘密をあばくことにより、この一家をヴェルレルによって撃ち落された哀れな野がもの状態から救い出そうと考える
  • グレーゲルスは「真実」を伝えたあとに起こる以外な結果に、もし平均的な人間からあらゆる虚偽を取り去るなら、それは同時に彼らから幸福をも取り去ることになるのだ、という教訓を知る
  • イプセンは、特にグレーゲルスを戯画化して、悲劇を抱えた喜劇としてこれを書いた、そして自分自身のモラリスト的一面に鋭い自己批判を加えた
  • 戯曲の象徴として用いられている野がものあり方も、エクダル親子には「生活の夢」、ヘドヴィックには「孤独」、ギーナには「無関心」、そしてグレーゲルスには、ヤルマールが野がもに重なる、という多義的なものとなった

と解説している、なかなか難しい

イプセン研究家の毛利三彌氏は、「野がも」について

  • 1960年代と70年代はノルウェーが急速に近代化を進めた時代で、勝ち組と負け組が明確になり、「野がも」でも家族関係の軋轢には、近代化による経済差が反映されている、それがイプセン自身の家族の変遷と重なっている
  • イプセンが8歳の時、父は破産同然に没落、イプセンは15歳で別の町の薬屋に奉公に出て、その後は故郷に帰らなかった
  • グレーゲルスは「理想の要求」でヤルマールの家庭を崩壊してしまうが、このグレーゲルスの中にかなりイプセン自身の反映がみられる
  • それまでイプセンは旧道徳批判で名を挙げていたのが、一転して、保守的ともみられる「人生の嘘」肯定論を展開していることに当時の人々は戸惑ったが、イプセンは老エクダルが国家近代化の犠牲になって没落したことを書いて、その基本姿勢は変えていない

と解説している、なかなか奥が深い

さて、これだけの予備知識をインプットして当日演劇を観た感想を書いてみたい

  • イプセンは好きな作家である、「人形の家」、「民衆の敵」、「幽霊」などは良い作品だと思う。彼の人生を簡単に調べると、結構いろいろあった人だと分かったし、昨年行ったミュンヘンにも一時住んでいたことを知った
  • 物語には二つの家族が出てくる、豪商のヴェルレ家と没落したエクダル家だ、だが、勝ち組と負け組と単純に言えないと思った、ヴェルレはエクダルを陥れ自分だけが富を築いたが、妻に先立たれ、息子のグレーゲルスとはうまくいっていない、さらにヴェルレは目に重大な疾患があるので幸せそうには見えない、没落したエクダル家は貧しいながら家族3世代一緒に仲良く暮らししていた、金と幸福度は正比例しないと思った、人々の「金持ち度合×幸福度合=一定」という公式が成立するように神はちゃんと考えているのではないか
  • 野がもは豪商ヴェルレによって撃ち落されたが、ヴェルレの犬によって救われた、そしてエクダル家に与えられた。また、ヴェルレは手を出して孕ませた女中をエクダルの息子のヤルマールと結婚させた。ともにヴェルレは楽しんで不要になったものを自分のせいで没落したエクダル家に与えた。その後、罪滅ぼしのためかエクダル家が行き詰まらない程度の援助をギーナに与え続けたがギーナはこれをヤルマールには話していなかった、それを知ったヤルマールは妻や子供ばかりか金までもヴェルレから与えられたものと知り大いに自尊心を傷つけられた。野がもはヴェルレがエクダル家に押し付けた不要なものの象徴だと思った
  • グレーゲルスは真実を伝えるべきと信じていたが、イプセンが暗示したように人間は真実には耐えられない場合があり、常に真実を知ればよいというものではないという考えは、私も同意する。英語にもWhite lieという用語がある、「相 手を傷つけないための、必ずしも悪いとはいえない嘘」である。日本でも「知らぬが仏」という言葉がある。こう考えると、世の中でグレーゲルスのように「真実」や「正義」を振り回す一直線な人は困った存在ということになろう、今の日本でこれを振り回しているのは・・・
  • 初めてこの演劇を見て、事前予習をした時と印象が異なる部分があった、例えば、この演劇の主役は誰であろうか、はっきりしななかったが、観劇した後ははっきりとヤルマールだと思った、斉藤淳の熱演が本当に良かったためかもしれない。パンフレットなどでは、家業のカメラ屋をほっぽり出してギーナに任せきりにし、自分は金にもならない研究などに没頭しているダメ男として描かれているが、今日の舞台では、結構しっかり自分の考えや感情を出しており、ダメ男ぶりは強調されていないように見えた。
  • 準主役はグレーゲルス、ギーナ、ヘドヴィックで、それぞれ志村史人、清水直子、釜木美緒の演技もよかった
  • 劇場内が狭いため、舞台と観客の距離感が非常に近く、すぐ目の前で演技を見せてくれるので、俳優の迫力がビシビシと観客に伝わってきた、こういう設定も良いなと思った。また、俳優たちも舞台の袖や奥、観客の入口のロビーのほうから出てきたりと、面白い工夫がなされていた。

興味深い演劇であった、役者の熱演が素晴らしかった


演劇「ハムレット」を観る

2024年05月25日 | 演劇

彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd Vol.1『ハムレット』を観に行った、S席、9,300円、14時開演、上演時間は休憩を含み3時間35分(一幕 1時間45分/休憩15分/二幕 1時間35分)、場所は彩の国さいたま芸術劇場の大ホール(収容人数776席)、ここは初訪問

彩の国さいたま芸術劇場リニューアルオープン&開館30周年イヤーの今年、彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督吉田鋼太郎による新シリーズ「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」の第一作として『ハムレット』を上演すると知り、行きたくなった。

この芸術劇場は、1994年10月に開館し、本年、リニューアルオープンした。蜷川幸雄前芸術監督の後を引き継ぐ新しい劇場のリーダーとして、2021年4月から舞踊家の近藤良平氏が次期芸術監督に就任した。ここは蜷川幸雄が手がける演劇公演を数多く上演した劇場

今日はほとんど女性客で占められていた、ほぼ満員の盛況だった

演出・上演台本    吉田鋼太郎

出演
ハムレット:柿澤勇人
オフィーリア(恋人):北 香那
ホレーシオ(親友):白洲 迅
レアティーズ(オフィーリアの兄):渡部豪太
ポローニアス(デンマーク王の顧問官、オフィーリアらの父) ほか:正名僕蔵
ガートルード(母):高橋ひとみ
クローディアス(叔父)/亡霊:吉田鋼太郎

フォーティンブラス(ノルウェー王子)ほか:豊田裕大
オズリック ほか:櫻井章喜
マーセラス ほか:原 慎一郎
ローゼンクランツ ほか:山本直寛
ギルデンスターン ほか:松尾竜兵
黙劇役者 ほか:いいむろなおき
フランシスコー ほか:松本こうせい
ヴォルティマンド ほか:斉藤莉生

演出、台本、出演者の吉田鋼太郎(1959生まれ)はあまり知らなかったが、2018年5月の日生劇場での演劇「シラノ・ド・ベルジュラック」の演技をテレビで見て、感動し、好きになった、大した役者だと思った。その後、機会があれば彼の手掛ける演劇は観るようになった。昨年も彼の演出、台本によるシェークスピア「ジョン王」を観た(その時のブログはこちら)

今日の吉田の演技はさすがベテランの味を出していたと思う、演技に余裕が感じられた、そして彼の演出だが、まずまずだと思った、ホールの後方から舞台に向かって2つの通路があるが、その通路を歌舞伎の花道のようにうまく使って臨場感を出すなどの工夫があった、また台本だが、最後のほうでハムレットに「自分はオフィーリアを愛していた」と言わせる独自解釈もしていた、私とほぼ同年代、これからもどんどん頑張ってほしい

今日の主役はタイトルロールの柿澤勇人だろう、1987生まれ、祖父の清元榮三郎は三味線奏者、曾祖父の清元志寿太夫は浄瑠璃の語り手で、ともに人間国宝、兄嫁は村主(すぐり)千香、千香の姉が村主章枝、両者とも元スケート選手、すごい家系だ。初めて観る俳優だが、熱演していた、最初のうちは結構怒鳴り気味の大声で話していてぎこちなさを感じたが、後半はだいぶ良くなったように思う、やはり日常の会話のように話す技術が大事だと思う

それ以外では、ハムレットの恋人オフィーリア役の北香那(1997生まれ)が良い演技をしていた、吉田の指導が大きいのかもしれないが、父をハムレットに誤って殺され、自分もハムレットから尼寺に行けと言われて気がふれてしまうところの演技が真に迫って非常に良かった。

ハムレットの母ガートルード役に高橋ひとみ(1961生まれ)もいい演技をしていた、ただ、これは吉田に指摘すべきことかもしれないが、ガートルードはもっと色っぽく、セクシーで大胆によろめく熟女というか半分悪女のように振る舞い、服装なども工夫してほしかった、そうでなければ先夫が亡くなって直ぐに先夫の弟と結婚したりしないのではないか、高橋は十分そういうイメージを出せる女優だと思うが、今日の高橋の衣装はそれとは逆の清楚で上品な感じだったので、私が抱くガートルードのイメージから少しずれていると思った、

今日の公演だが、終演になると観客席はすぐにほぼ全員スタンディング・オベーションになった、純粋に演劇が素晴らしかったとしてそうなったのか、吉田がご婦人たちから人気があるためか、主役の柿澤の人気なのかわからないが、圧倒された、演劇公演でこんなことがあるのは初めてだ、宝塚とあまり変わらないイメージで演劇を見ているのでしょう、と言ったら怒られるか

さて、今日は劇場に行くため埼京線の与野本町の駅に降りると、駅前のかなり広いスペースをとってバラが植わっており、満開の花を咲かせていた、大変きれいであり目の保養になった

お疲れ様でした

 

 


演劇「深い森のほとりで」を観に行った

2024年05月17日 | 演劇

青年劇場 第132回公演「深い森のほとりで」を観に行ってきた。場所は新宿の紀伊国屋ホール、ここは初訪問、チケットは5,800円、14時開演、16時15分終演、客席は満員、シニア層が大部分であった。途中休憩が1回、15分あり。

福山啓子=作・演出
舞台監督=松橋秀幸

出演

原 陽子(大学初の理系女性教授):湯本弘美
原 麻子(陽子の妹):菅原修子
原 理沙(麻子の娘):八代名菜子
本田隆一郎(陽子の指導教授):広戸聡
福本則夫(陽子の助手、ポスドク):佐藤良唯(初舞台)
山口美恵子(大学の事務):大嶋恵子
浅田真理子(大学4年、陽子の生徒):五嶋佑菜
田部信彦(大学教授、陽子の同僚):中川為久朗
加賀 剛(製薬会社セールス):奥原義之

大まかなストーリーは、目先の利益でなく、人類のいまと未来のために未知のウイルスと格闘する科学者たちの物語、コストカットで研究員の首が切られ、稼げる研究をと追い立てられ、この国の科学者は、いま世界が直面する課題に向き合うことができるのだろか、大学の小さな研究室の一人の女性科学者が、周りを巻き込み、未知のウイルス研究に挑むが・・・

もう少し細かく書くと(ネタバレ注意)、舞台はある大学の農学部獣医学科の研究室

  • 大学初の女性教授、陽子の科研費が不採択、助手の福本が製薬会社営業に転職
  • 同僚の田部教授からダメ生徒の浅田真理子を押し付けられる
  • だが、浅田は陽子のウイルス研究の熱意に共感
  • 福本が舞い戻り、浅田と一緒に陽子を支えることに
  • 陽子の妹とその娘の理沙が来て、理沙がバングラデシュにボランティアに行くと言う
  • バングラデシュで致死性の高いウイルスが発生し理沙が陽子にワクチン開発を訴える
  • 陽子の新ワクチン開発は採算が合わないため製薬会社から資金提供拒まれる
  • 陽子たちは研究費を国際機関に申請して承認されるが厳しい条件付のため行き詰まる
  • 新型コロナ発生
  • 陽子の研究は挫折したが、国際機関から評価され、仲間もでき、将来に希望が

作・演出の福山啓子は、この劇団の座付作家、「博士の愛した数式」「あの夏の絵」などの作品を手掛けた人で、「むかし、私たちは山や、川や、森や、獣を恐れ敬う気持ちを持っていました。人工物に囲まれて暮らす私たちは、そうした気持ちを失ってしまったようです。今、様々な自然災害やパンデミックに出会うことで、私たちはもう一度人と自然のかかわりを見つめなおす最後のチャンスをもらっているような気がします。科学の分野においても、自然を切り刻んで消費するのではなく、共存していくこと、人間と人間、人間と自然を一つながりのものとして考えることが始まっています。私たちの未来を守るために、日夜様々な困難を乗り越えながら奮闘している科学者に、この芝居を通じてエールを贈りたいと思います。」と述べている(青年劇場ホームページより)。

ストーリーとしてはわかりやすく、見ていて理解が容易だった、劇中、福山の主張は、

  • 大学内での女性差別があるが、以前よりは少しだけましに
  • 大学では成果が出ない基礎研究に予算がつかないし、学んだ生徒も就職できない
  • コロナワクチン購入費用の一部でも基礎研究に充てていれば事態は変わる
  • 人間は自然を軽視してきたので、その報いとしてウイルスが蔓延するようになった
  • 日本でダメなら世界へ羽ばたけ

というようなことかと感じた。

確かに国の予算はすぐに成果の出ないものにはつきにくい、というのはよく聞く話だ。これには企業側の要請もあるだろう、研究者や卒業生に即連力になるような研究や勉強を求めるということだ。こういう発想こそ日本が凋落している原因ではないか。

基礎研究の軽視は国と企業側の浅はかな考えが行政や大学の研究にも影響を与えている問題だが、大学側の問題もある。それは軍事研究の忌避だ、これも日本凋落の原因でしょう。およそ軍事の研究ほどすそ野の広い研究はなく、軍事だけの研究などは有り得ないのは誰でもわかることなのにイデオロギーで固まった大学教授にはわからないらしい。

ところで、基礎研究の軽視だが、文系でも同様な問題がある。それはリベラルアーツの軽視だ、時間がある若いときに古今東西の文学などを読み、すぐに役にも立たない芸術や文芸にどっぷりと浸かることにより、人間としてどこで仕事をしようともゆるぎない基礎を築き、自国の文化歴史を誇りに思い、他国の同様なものも語ることができ、尊重することもできる、そんな人物が育つのではないだろうか。ビジネススクールで得た知識だけでは長期的には勝負できない。

今日の舞台だが、

  • それぞれの役者さんは熱演していたと思う、それぞれがその持ち味を活かしていた
  • 今日の配役は役柄からベテランが多くアサインされていた、主人公の陽子を演じた湯本弘美はベテランの味を存分に発揮していたし、本田教授役の広戸聡もいい味を出していた、事務役の山口美恵子もよかった、一方、若手の五嶋佑菜も現代っ子らしさを存分に出していたし、バングラデシュに熱を上げていた理沙役を演じていた八代菜名子は若い娘役をうまく演じていた、初舞台の佐藤良唯も福本役をうまくこなしていた、それ以外の人もみんなよかった、相当練習をしたのでしょう
  • 歌舞伎やオペラのような舞台転換はないが、話が一区切りつく都度、舞台が暗くなり、出演者が配置換えになることにより変化をもたらし、飽きない工夫がされていると思った
  • また、舞台の奥の中段の高さのところに歩く場所があり、そこに指導教授の本田先生が現れ、うんちくを語るなど、陽子が空想をする効果を出していて、うまい舞台設定だと思った

さて、福山が主張する自然との共存ということだが、こうした考えは昔からの日本人の感性にマッチしているように思われる、自然を神として敬い、共存する生活をしてきた日本人。西欧人のように自然を人間に危害を与える征服すべき対象ととらえず、自然や四季を大事にし、争いを好まず、神社も寺もチャペルも棲み分け、華道、茶道、書道、木造住宅など自然と共存してきたのが日本民族だ

この日本民族の生きかたこそ、世界各地で対立や醜い争いが蔓延しているいまこそ、世界が見習うべきライフスタイルといえるでしょう・・・と言いたいところだが、最近は日本人自身もその良きライフスタイルを見失っているかもしれない、日本人はもっと自分たちの来し方に自信を持っていいと思う、そこがしっかりしていれば、西欧のいろんなやり方も批判的に見れるのではないか

今日はいい演劇を見せてもらいました

さて、今日の演劇の前に、ランチを取ろうと紀伊国屋の前の新宿中村屋に行ったら、休みだった、メンテナンスのためとのこと。仕方ないので、その中村屋のビルの上の階にあったタイ料理の「新宿ランブータン」に入った。普通の料理とバイキングとどちらにするか入口で選べとのこと、シニアは普通の料理でいいので、そちらに入るが、バイキングのほうが混んでいる。

料理はランチメニューから「生麺パッタイ」1,000円を注文した。焼きそばみたいなもの。もっちりした麺で、辛くはなく、においもきつくなく、おいしかった。

 


演劇「マクベスの妻と呼ばれた女」を観た

2024年03月26日 | 演劇

青年劇場の演劇「マクベスの妻と呼ばれた女」を観てきた。場所は新宿御苑前にある青年劇場スタジオ結(ゆい)、自由席で5,000円。篠原久美子作、五戸真理枝(文学座)演出、開演14時、終演16時。スタジオ結はそんなに大きくなく、ざっと数えて150席くらいしかない小劇場だが、その分、観客と舞台の距離感が近く、迫力ある演技が身近で観られてよかった。

この公演は青年劇場創立60周年、築地小劇場会場100周年記念公演の第1弾で、青年劇場はこれまで原作の篠原久美子氏の4作品を上演していているという。

この演目は全公演完売という人気だそうだ、今日も満員で、年配者が目立ったのはこの劇場が歴史のある劇団で、古くからの固定客が多いからなのか。

「マクベスの妻と呼ばれた女」はマクベスではなく、その妻や女中達に焦点を当て、女性への差別や偏見に対する怒りや、いまだに紛争の絶えない世界に対する憤りを訴えるものである。演劇界でも女性が活躍する時代になったとは言え、まだまだその場は限られている、そこで演出に文学座の五戸真理枝を初めて起用して、出演者をはじめスタッフもほとんどが女性という演劇を考えたとある。

出演

松永亜規子(マクベス夫人)、武田史江(デスデモナ)、竹森琴美(オフェーリア)、福原美佳(女中頭)、江原朱美(ケイト)、蒔田祐子(クイックリー)、八代名菜子(ボーシャ)、秋山亜紀子(ロザライン)、広田明花里(シーリア)、島野仲代(ジュリエット、ロミオ声)

場所はマクベスの城、マクベス夫人と女中たちは、フォレスの戦いで英雄となったマクベスからの手紙に浮き立つ、そこに突然国王が今夜城にやってくるという連絡が入る。城で働く女中たちは、国王一行をもてなすためにてんやわんや、一行が到着し、無事に一夜を明けるもつかの間、殺された国王が発見される、そして、女中たちが国王殺しの犯人捜しが始まるが・・・

  • 女中たちにはそれぞれシェイクスピアの他の演目に出てくる女性の名前が与えられているし、話の中で、その他の演目の中での話しも出てくるところが面白い演出だ
  • 国王が殺されたあと、誰が犯人かを女中たちが詮索し始めてから俄然、進行が面白くなる、女中頭のヘカティが中心になり、ひとりひとり女中たちが気になっていることをしゃべり出す、それを女中頭がうまくまとめていき、話を進めていく、うまい脚本だと思った
  • 観ていて、戦争への憤りよりも女性の役割、生き方、というものに対する問題提起の方にこの演劇の大きな主張があるように思えた、そしてその大きなポイントについて実にうまく話を進めて観る人を飽きさせない工夫があったと思う
  • その女性の生き方についての葛藤が頂点に達するのが最後にマクベス夫人が自死しようとする場面である、シェイクスピアの原作ではマクベス夫人はその犯した罪の大きさにおののき、迫り来る恐怖に精神の錯乱をきたして狂死するが、この物語ではそこを大胆にアレンジして、自分は殺された夫である国王を尊敬し、国王亡き後、もはや自分の生きる意味がないので辱めを受ける前に自死を決意する、が、そこに女中頭のヘカティが表れ、あなたが女としてやりたいことは何か、古いしきたりに従って考えるのではなくひとりの女性として好きな生き方をすべきではないか、などと叫ぶ。これに夫人も戸惑う、このやりとりが迫力あり見応えがあった
  • ではヘカティが主張する、良い娘、良い奥さん、良い王妃ではない生き方とは何か、それは観る人が考えて、ということだろうが、演出の五戸真理枝はその点について「さて、では自分は何を目指して生きていきましょうか。生きてるだけで良いんだよ、誰しもその命をそう寿ぐことができるような社会があればいいのにな、と私はいつも思います」と当日配布されたプログラムで述べていたる。
  • この五戸の考えを私はなかなか理解できないが否定はしない。常々ものごとは一つの考え方しかないわけではないと思っているので、今までの私たちの親や、先祖が持っていた価値観、それは著しい男女格差がある社会環境にもめげず、いい娘、いい奥さんであろうとする健気で高潔な精神性が国や家庭を支えていた、そういう価値観を否定する必要はなく、それが良いと言う女性がいても全く問題ないと思うし、それこそ生き方や考え方の多様性であろう、それを古い考えだといって否定し、批判する人は全体主義信奉者であろう。
  • 出演した女優たちは皆素晴らしい演技だった、それぞれが持ち味を活かして演じていたと思う、今日初舞台のシーリア役の広田明花里(あかり)も初々しい演技で素晴らしかった。

楽しめました。


演劇「諜報員」を観た

2024年03月20日 | 演劇

東京芸術芸劇場シアターイーストでパラドックス定数(劇団名)の演劇「諜報員」を観てきた。自由席、4,000円。2時開演、4時終演。ほぼ満席の盛況だった、若い人が結構来ていた。

作・演出
野木萌葱

出演
植村宏司、西原誠吾、井内勇希、神農直隆、横道毅、小野ゆた

この演劇は、パンフレットに次の通り説明が書かれている。

「リヒャルト・ゾルゲ。父はドイツ人。母はロシア人。ドイツのジャーナリストとして日本へ入国。その正体は、ソビエト連邦の諜報員。任務は日本の国内施策、外交政策を探ること。独自の情報網。信頼すべき協力者。彼らと共に数年に渡り活動。しかし遂に、特別高等警察に逮捕される。

彼が諜報員だったなんて。知らなかった。信じていたのに。裏切られた。協力者たちは、口々にこう叫んだ。彼らは皆、決まってそう言う。騙されてはいけない。保身の為に叫ばれる言葉など、すべて嘘だ。協力者たちを、探れ。二つの祖国を持つ外国人諜報員。その周りで、彼らは何を見ていたのか。日本はどれだけ、丸裸にされたのか。」

この説明書き読んでこの演劇は昭和の戦争の時に起った「ゾルゲ事件」を題材にしたものだな、というのはわかる、しかし、ゾルゲ事件のことについてそんなに詳しいことは知らないので、事前に予習でウィキなどのネット情報で簡単に調べて演劇に臨んだ。

演劇が開始されると、舞台は警察内の鉄格子で仕切られた犯人拘留のための部屋という設定、その拘留場所の周りは廊下や会議室のような設定。その拘置所の中に4人が拘留されており、話を始めるところから舞台が開始されるが・・・

私はこの劇を観ていて最初の30分くらいで眠くなった、少しうとうとしてしまった。これではいけないと思い、そこからは最後までしっかり観た。どうして眠くなったのかというと、観ていてストーリーがわからないのだ、セリフが声が小さくてよく聞こえないこともある。最後まで観たが結局、どういう内容なのかイマイチよくわからかった、というのが素直な感想である。

どうしてそうなるのか、私の不勉強もあるが、私は劇団側にも問題があるのではと感じた。それは、芸術劇場の公演案内を見ても演劇の内容は上に記載した通りのことしか書いてない、当日もらったパンフレットにもストーリーについて書いてないし、キャストも俳優の名前だけで、どの俳優が劇中の誰の役を演じるのかも書いてない。そもそもあらすじがわからない、登場人物も誰だけわからない、そこからスタートしているからストーリーが理解できず、集中力が途切れるのだ。これではあまりに不親切ではないだろうか。

ストーリーについて最後のどんでん返しのようなところまで事前に明らかにする必要はないが、大体のところはホームページ等で明らかにすべきだと思う。そうしても演劇の魅力はちっとも変わらないと思う。シェイクスピアの演劇でも歌舞伎でもあらすじはみんな知っているけど楽しめている。

私が今日観劇して何となく理解したストーリーは大体次の通りだが、間違っているかもしれないし、完ぺきではない

  • ゾルゲは特高警察に既に逮捕されているが罪を認めてない
  • 警察に拘留された4人はゾルゲの協力者であるが、実はそのうちの一人は警察の人間が協力者に成りすましているもの、協力者どうしはお互い知らないので警察が紛れ込んでもわからない
  • 警察から紛れ込んだ人間は何とかして他の3人の協力者からいろいろゾルゲ事件の概要を聞き出そうとする、3人のうち一人は尾崎秀実である
  • 3人の協力者の1人は自分がやったことをノートに書くまでになる
  • 最後、結局ゾルゲが自白して罪を認める
  • 3人は自分たちのしてきたことを顧みて、自分たちの存在価値は何か自問することになる、そしてそれはソ連のためというより、さらに背後に大きな力が働いていた、と悟る

私が理解したのはこんな程度で、冒頭に述べた通りはっきり言ってよくわからない、というものだ。今日観劇に来ていた人で理解できた人がどれだけいただろうか?

前にもこのブログで述べたが、演劇をどうしてこんなに難しくする必要があるのだろうか。どうも演劇界は理屈っぽいような気がしている。別にそんなに難しくもないことをわざと難しく演じて、意識高いところを見せる、そんな印象がある。シェイクスピアもイプセンもゴーゴリもストーリーはそんなに難しくない。だけど観る者に何か考えさせる暗喩や皮肉があり、センスの良さがあると思う。小難しいだけの演劇は作る方も観る方も自分たちの意識高いところに自己満足しているだけと思えるがどうか。

 


演劇「マクベス」を観る

2024年03月03日 | 演劇

東京芸術劇場シアターイーストで演劇「マクベス」を観てきた。原作:W.シェイクスピア、翻訳:松岡和子、上演台本・演出:ノゾエ征爾(劇団はえぎわ主宰)。東京芸術劇場で2月25日まで上演後、彩の国さいたま芸術劇場のリニューアルオープン公演として上演する予定。

今日は、14時開演、15時40分終演、4,500円。シアターイーストは300人前後の収容能力があるが、今日は8割がた埋まっていた、客層は幅広い年代の人に見えた。演劇の特徴で、若者も女性も目立った。値段的にも来やすいのだろう。シェイクスピアに興味がある若者が増えるのは喜ばしいことだ。私は若いころは見向きもしなかった。

芸術劇場のホームページによれば、「彩の国さいたま芸術劇場では、2022年春、ノゾエを招いてシェイクスピアの『マクベス』を題材としたワークショップを実施。ワークショップでは「演劇を見慣れていない若者に演劇の魅力を知ってもらう」という目標を掲げ、ノゾエは親しみやすく、飽きさせない構成と演出で約100分の『マクベス』をつくりあげた。これをきっかけに、はえぎわと彩の国さいたま芸術劇場の共同制作による『マクベス』を東京と埼玉で上演することが決定。」とある。

出演者

内田健司:マクベス
川上友里:マクベス夫人
山本圭祐:バンクウォー、フリーアンス他
村木 仁:ダンカン、暗殺者、医者他
町田水城:マクダフ、将校、貴族他
広田亮平:マルカム、暗殺者他
上村 聡:ロス他
茂手木桜子:魔女、門番、マクダフ夫人他
菊池明明:魔女、マクダフ息子他
踊り子あり:魔女、侍女他

ノゾエ征爾氏のインタビュー記事を読むと、マクベスは悲劇だが悲劇の中にもユーモアや人間味を見つけていく、若者に演劇の面白さを感じてもらうため自分が初めて戯曲を読んで面白いと感じた部分を大事にした、台本についても初心者の気持ちを大事にして「ここは飽きる」という部分についてジャッジして、(そこはカットして)、人間の温かさや息遣いが感じられるようにした、と話している。

ノゾエ氏はマクベスに人間味を見つけていくと話しているが、私はマクベスはもともとかなり人間臭い男だと思っている、魔女のささやきを妻に話し、妻のそのそそのかしに乗って悪い夢を見て、国王を殺害してしまう、そのあとで事の重大性と魔女のささやきにがまた気になり、臆病になっていく。軍事は優秀だが人間としてはごく普通の弱みを持っている男だ。

本作の特徴の一つは100分1幕ということだろう。本来、戯曲通りに演じるともっと時間がかかるのを一気に100分で小気味よく上演するというやり方だ。これはよかったと思った。オペラでも歌舞伎でも無意味に長い部分があるので、そういうところは思い切ってカットしても問題ないと思う。

さて、今日の舞台だが、場面転換はなく、舞台に50個くらい並べてある木製の椅子の配置換えを何回もすることで場面転換的効果を出しているのが面白いと思った。音楽についても現代の音楽をところどころ使ったり、魔女が携帯電話みたいなものをもってそのスイッチを押すと音楽が流れたりしていたように見えたが、いい試みだと思った。

出演者はそれぞれ全力で演じていたと思う、その姿勢が演技に出ていた。私が特に注目したのはマルカム(ダンカンの息子で王位承継者)の広田亮平だ。彼は芸術劇場も初めてだし、彩の国さいため芸術劇場も初めて、シェイクスピアも初めての27歳の若手俳優だ。

彼が活躍するのは最後のほう、イングランドに避難しているところ、マクベスの部下だった貴族のマグダフが来て祖国奪回の再起を促すと、自分は精力絶倫だけでなく物欲が衰えず、王として持つべきもろもろの美徳がないと言い、真実、節制、信念、寛大、忍耐、慈悲、敬虔、我慢、勇気、不屈の精神、これらの美徳を書いたカードを一枚ずつ捨て、これらは一切持ち合わせてないと言う。落胆したマグダフは、あなたに国を治める資格はないと言い、嘆く。それを見てマルカムは、さっき述べた自分の悪口は全部取り消すと言う。実はマグダフの誠実を試すために嘘を言ったのだ。いい役ではないか、いい場面ではないか、実に若々しさを出して賢い王子役を演じていたと思った。

さて、最初から最後まで舞台の両側の机の上には何やらいろんなガラクタが置いてあったが、これが何を意味するのか最後まで分からなかった。

楽しめました。