(銀の雨振る雪の中の家並み /血を流している住宅 / F・ヴァッサー)
朝、庭のさくらんぼの木に、カササギに似た青い野鳥が止まってた。
さわやかな情景なのに、体内からは原始のエネルギーが失われるばかり
ちっともさわやかに過ごせないのは何故。
十数年前、東京の姉の家に遊びに行ったときに、ぶらっと入ったアートスペースで
フリーダカーロ展をやっていた、フリーダカーロの数奇な人生や、華麗な恋愛も、
人生そのものだった数々のすばらしい絵も興味深いんだけれども、その展覧会で
見た、ファン・オルゴマン設計のメキシコの機能主義建築のアトリエ兼住宅の模型
(青壁の館)に魅入られた、感激したのは建物ではなくて、外周の柵というか生垣
というか、生垣だなやっぱ、つまり張り巡らされた柵のような、林立するサボテン
に、完全にノックアウトだった(笑)
今もこのアトリエはフリーダ・カーロ記念館として、残されているんだそうだが、
このサボテン柵生垣も残されているのかな?
メキシコにいって確かめたい、すごく気になるし、生で見てみたい、それに自分の
アトリエを設計して建てられるなら、絶対サボテンの生垣を使おうと決めている、
が気候的に、日本じゃ無理ならメキシコにいくぞ・・・と無駄に思うるるです。
人間いろんなものに出会って影響されつつ、育っていきますが、もう一人ちょっと
濃い人で、忘れちゃならないのが、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーと
いうオーストリアはウィーン生まれの芸術家です、画家でもあり建築のデザインも
する、1928年生まれで2000年2月19日71歳で亡くなったので、残念です。
終の棲家になったニュージーランドの自宅に、確か米米クラブの石井達也が何年か
前、ヴァッサーを訪ねる企画があってテレビで見たっけ、まだ存命だった頃だな、
え~?うらやましい~るるも会ってみたいのに
このカールスモーキー野郎めと思って見てましたっけ。
日本ともけっこう縁の深い人だったんだけど、ちょっといろいろ問題視された、
大阪市のごみ焼却場と下水汚泥処理施設の建築デザイン、を手がけました、見に
行きたかったが行けてないなあ。
彼の芸術理論の中核は超(トランス)オートマニズムといわれて、ちょっと難しそ
うだけど、つまり偶然を超えるというか、「意図のある芸術」には賛成できない、
芸術の面白さは、人間の頭脳の支配を拒否した、生地のものの中にある、根源的な
エネルギーが、おのずから発展してくるところにあると考えるからだという。
原始的なものと知的なものが融合する世界をめざすってことだろうか。
1977年今から29年前、西武美術館でるるが見た彼の展覧会は、色の洪水と
渦巻きの幻影と、草屋根に覆われた空から見えない町の模型達だった
理論とかよりも
この現実の圧倒的な作品に囲まれて、完全に魅入られたのだった
「こりゃ身動きとれんごとなりますばい!」って感じだった
まあその時は関西弁の人だったから、本当は
「こらあかん、うごけ~へんがな!」ですが。
(1977年西武美術館で買ったヴァッサーの画集
12×15cm厚み3.5cmの不思議小サイズ)
大学時代にもう一つ影響というか、すごいと思ったのが、ジョン・フレデリック・
キースラーのエンドレスハウスの考え方、ちょっとヴァッサーの
「直線は自然界にない!」
という理念と相容れるんだけど、終わりのない家と題された、すべて曲線で作られ
る家、デザイン模型を見ると、奇妙ないも虫やその卵って感じの家なんだけど、
るるは2000年には、こんな家があちこちに出没するものと思って期待していたが、
相変わらず柱と梁に囲まれた、直線と立方体に支配された、建物と町しかなくて、
本当につまらない、しかもその立方体コンクリートの柱や梁の中には、地震に耐え
るだけの鉄筋もない建物がたくさんあって、人を脅かしているしね。
ヴァッサーにしてもキースラーにしても、非常に大事にしているのは皮膚感覚じゃ
ないかと思う、特にヴァッサーは地球を自分の皮膚と考えて、地球を覆うアスファ
ルトやコンクリートの建築物に、人間としての罪悪感をもちつつ、作家活動を続け
た人だから、尊敬できるし、気になるのだろうと思う。
そんな風に、自分の皮膚感覚を、たとえば他の人や動物や植物や地球に同化
していければ、環境破壊も戦争もいじめも、減っていくだろうと思う、
実際には難しくても、その理念を封じ込めないことが大事だって思う。
まじめさのなかに原始のエネルギーを秘める人たちに惹かれます。
えねるぎーをちょうだいわたしに