下の孫が生まれて1ヶ月半、母はひ孫とこの世に共存しました。
私の母方の家系は女の子のひ孫が生まれると世代交代していました。
娘の子が女の子とわかったときに、別れは近付いて来ているのだと思いました。
孫の世話で忙しかったけど病院に泊まりがけで付き添うことにした五年前。
母はもう意識は無かったけど高カロリーの輸液を鎖骨下動脈から点滴されていた。
尿もでなくなっており、行き場の無い輸液は母のからだをパンパンにさせていました。
足の甲や脛のむくみをとるためにリンパマッサージをしてあげながら見守るしかなかった。
危篤との連絡を受けて6月にも病院に付き添った日もありました。
もうダメかと思って深夜病室をあとにした。
翌日早朝に病室に入ると、目を開けて私の名前を呼ぶのです。
看護師さんもビックリしていました。お水下さいって、朝声をかけられたと言うのです。
弟夫婦も病室に着いた時に、娘から電話が入って、もう母体が持たないので帝王切開になるというのです。
命のバトンタッチになるかと思いました。
母は奇跡のごとく持ち直したのです。
すぐに高速バスに飛び乗り、東京駅から東海道線に乗り、おとーさんに戸塚駅で拾ってもらって病院に駆けつけました。
前の人の出産でアクシデントがあり、予定した時間より手術が遅れていると言うことで、娘の顔を見て手術室に送れました。
女の子でした。
あと母は何日見守ってくれるかしらと心は不安でした。
それから2ヶ月弱命を持ちこたえたのでした。
娘も下の子を見せに母の病室を訪ねることもできました。
意識もはっきりしてクリアでした。
3日病室に泊まって付き添いました。
4日目の夕方息を引き取りました。
弟が到着するまで、弟嫁と二人で心臓マッサージをして待ちました。
心電図モニターは一直線になってしまったので詰め所の看護師さんも駆けつけてくれましたが、
弟が来るまで臨終を告げないでとお願いして心電図モニターに波形図を作って待ちました。
弟と三人で心マッサージをして、納得できるところまでしたので、
弟に「諦めよう。お父ちゃんのところに逝かせてあげようよ。」と言ってやめたのでした。
再び直線に戻ったモニターを見て医師や看護師が病室に来て臨終を告げられました。
8月1日が命日です。
ありがとうと言う言葉しか出てきませんでした。
どこまで行ってもこの言葉しか出てきませんでした。
来年は七回忌ですね。お母ちゃん。