土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

姉と僕の赤痢

2020-08-14 | 随想
僕には2、3歳違いの姉、宜子がいた。姉が出窓に出たとき窓に出る戸を閉めるという意地悪をしたような記憶がある。姉は5歳で死亡したから僕が2,3歳ぐらいのことで僕の最初の記憶である、というより記憶の記憶である。姉は赤痢で避病院と呼ばれた隔離病院に収容された。当時の知識では脱水という考えがなく、水を飲むことは厳しく禁じられたと言う。死ぬときは禁じられた水の入った瓶を抱えて亡くなったと母が悔しそうに言っていた。今は水を摂ることが強く進められているのだが。近所の女性が、姉の死去した夜、人魂が僕の家の破風の下の通風を抜け出るのを見たという。

僕も小学2年で同じ赤痢にかかった。谷川の水で野菜や器を洗い、風呂水を汲むなどいろいろなことに利用していたため、姉も僕も上流に感染者が出たとき感染したと聞いている。母は姉の二の舞は避けようと必死であった。生まれた子が次々同じ病気で亡くなるというのは悪夢である。

幸い父が綾部町の助役をしていたので、医者でもある長岡誠町長に相談した。町長は話を理解し、法律を無視して自宅療養を黙認し、便を煮沸するなどの指導をしてくれた。母は女医を志望していたが当時はとても無理なことであった。しかしそれだけに消毒・殺菌などはよく呑み込んで実行したのだろう。僕のひどい衰弱に葬式の事も考えていたようだ。少し回復の兆しが見えたとき、僕は「牛乳が飲みたい」と言った。町長は少し考えて「いいでしょう。試してみましょう」と言ってくれた。牛乳は当時はかなり貴重なものであった。今に至るも大好物である。なにか新しい薬の話も耳に残っているから、抗生物質の一歩手前であるサルファ剤が用いられたかもしれない。どうにか回復したが、腿、脛は骨だけのようになり、膝がボールのように見えた。アフリカなどの飢えた子供に見るのと同じである。立つことも出来ないので乳母車に乗せられて医者に通った。

この体力がないとき、引揚げてきた結核の人と同居していたのでそれを頂いてしまった。しかしこれまた幸運で、特効薬である抗生物質ストレプトマイシンが登場した。これを延々と打ち続けるのは苦痛であったが。程なく父は貿易会社に転職し、一家で丹波から東京に出た。そこで1年間休学し、小学の残りは体操を禁じられて過ごすことになった。父がさらに会社関係から米国製のよく効くとされるストレプトマイシンを入手した。密輸品だったようでボーナスが全部飛ぶとぼやいていたのを覚えている。

中学からは父が失職して丹波に戻り、家の財政は最悪となった。その頃は米が1斗(約18L)買えた度にホッとしたのを覚えている。しかし結核完治後、田舎の生活が身に合ったのか身体は強くなり老齢になるまでは病気はしなくなった。今80歳となるが、姉と違いいくつかの幸運と町長を始めとする恩人あっての話である。

  うつし世に遊びしかたみ足裏に墨つけしまま吾子昇天 泉 正子(和子)

僕がもっとも好きな母の短歌である。朝日歌壇に五島美代子選(昭和46年)で載せられている。五島についてはウィキペディアに「「母の歌人」と呼ばれる。急逝した長女を歌った、哀惜の情あふれる歌も多い」とある。
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