☆平成26年1月9日(木)
【2月の日帰りスキーツアー募集】
2月には毎年、道場より練習生、保護者へむけたスキーツアー
を実施。参加者を募集をしています。福井県今庄365スキー場
へ往復バスを貸し切り、一日スキーを楽しみます。
すでに親子参加の3組を受け付けています。
まだまだ申し込みできます。鴻心館練習生、保護者の方で
スキー希望者は事務局までご連絡をお願いいたします。
初心者大歓迎です、スキースクールもあります。
たくさんの参加をお待ちしています。
また最少人数は設定していませんので、何人参加でも中止
はありません。
バス代は、練習生3000円/人、保護者ご家族は1000円/人、幼児無料
ととてもリーズナブルな料金となっています。
他は実費となります。
今庄365スキー場は、スキー場内、センターハウスより徒歩3分には
温泉がありスキーを終えた後に入ってから帰ります。
【達人‐植芝盛平‐その2】
・植芝盛平翁あっての藤平光一先生、塩田剛三氏
合気道をする立場から、あくまでも合気道という歴史の流れから以下述べます。
植芝盛平翁の合気技に出会い、それまでの技との違いに驚き入門した門人に、
藤平光一先生、塩田剛三氏がおられました。
そのお一人、藤平先生は初めて植芝先生に出会い、その不思議な合気技で投げられ、
衝撃を受けられたと聞きます。
また、塩田剛三氏も藤平先生と同じく、その合気道の実力に驚嘆するところから合
気修行が始まります。そして当の植芝先生は、確か30歳代のとき大東流武田惣角氏
と出会いその技に抵抗できずに伏せられ、とても悔しい思いを持ったと聞きます。
本物の合気道武道家と世に知られたこれら3名の達人らに共通する事が、今述べた
最初に常識を超えた技の存在に気づかされたという事です。
ココは、技を掛けられた時に、常識を超えた業であるとよく見抜いたというべきかも
しれません。どんなに凄い技でも受け取り手にその価値を見出す能力がなければ
「それがどうしたのか???」と何とも思わないからです。
最初に衝撃を受けた場合、その後の修行には、そうでない人との間には天と地ほどの
隔たりがあると考えます。
これが出発点の怖さです。
もし、頭を殴られたような衝撃(驚き)を初対面で受けなければ、植芝盛平翁も藤平光一先生
も塩田養神館館長も達人として世に存在しえなかったという事です。
ブログですので、この辺りでおいておきますが、日本人の性(さが)なのか
日本人は、「なかなか意識転換をすることができない・・・」と井沢元彦氏も書いて
います。本当にその通りです。
何か衝撃的な事が起きない限り自分の意識を強く変えることはできません。
ですから、ある意味入門動機というのがとても大事なことなのです。
それぞれその門人の目的に合った指導をしないとお節介に受け取られたり、
負担に感じたり、最悪の場合「あの先生はめんどうな人だ・・・」なんて言われかねません。
実際に、昔の修行時代の話ですが、私の後輩練習生が忘年会を前にして、「あの先生はちょっと
面倒くさいので去年の忘年会で横の席で大変だった・・・」と陰口を聞いたことがあります。
いろいろと説教されたのでしょうか・・・?
私はその先生(直接の先生ではない)指導員の方には丁寧に教えていただいていたので
逆に、人によってはこんな受け取られ方をするのかと、様々おもうところはありましたが
【日本人の特徴】
日本人は、「なかなか意識転換をすることができない・・・と書きましたが
井沢氏はどうして著書の中でそう書いたのかというと
一つは、戦国時代が終わり江戸時代になってもしばらくは戦国の気風が強く残ってい
ました。つまり「人殺しが金になる時代」と井沢氏は表現している、そんな映画「殺人狂」
の時代でした。しかし時はすぎ、太平の世へと流れが傾いたときに、最後の奥の手として
打った政策があの生類憐みの令(貞享4年・1687年)だったという事です。
家康の政策だけでは、なかなか世の人々の意識は変えられず、綱吉の時代まで戦国気質を
社会が引きずっていたという事です。
生類憐みの令は無茶苦茶な法ですが、そこまで「殺す」という人間の意識を180°転換させ
るにはこういう悪法が必然だったということです。
そのおかげで日本人の意識もやっと動くことになり明治維新までの間、大きな戦はありま
せんでした。
日本人はアメリカ人(銃社会)とは根本的に異なった気風が備わっている理由は
戦国の遺風を遺さずに江戸という太平の時間を持てたという事につきると思います。
次に日本人のなかなか意識転換しがたい気質が裏目にでたのが、黒船の事件、
ペリー来航の時です。これはよく知られた歴史的事実ですからどういう展開になったか
は書きません。
最後に個人の考えとして、日本人はなかなか意識改革できない民族というよりも
大陸と距離をおいた島国という地理条件、気候風土などから偶然性の上にも
必然的にそうなっていったのだと思っています。
(大した考察をすることもなく漠然とそう思う。)
【2月の日帰りスキーツアー募集】
2月には毎年、道場より練習生、保護者へむけたスキーツアー
を実施。参加者を募集をしています。福井県今庄365スキー場
へ往復バスを貸し切り、一日スキーを楽しみます。
すでに親子参加の3組を受け付けています。
まだまだ申し込みできます。鴻心館練習生、保護者の方で
スキー希望者は事務局までご連絡をお願いいたします。
初心者大歓迎です、スキースクールもあります。
たくさんの参加をお待ちしています。
また最少人数は設定していませんので、何人参加でも中止
はありません。
バス代は、練習生3000円/人、保護者ご家族は1000円/人、幼児無料
ととてもリーズナブルな料金となっています。
他は実費となります。
今庄365スキー場は、スキー場内、センターハウスより徒歩3分には
温泉がありスキーを終えた後に入ってから帰ります。
【達人‐植芝盛平‐その2】
・植芝盛平翁あっての藤平光一先生、塩田剛三氏
合気道をする立場から、あくまでも合気道という歴史の流れから以下述べます。
植芝盛平翁の合気技に出会い、それまでの技との違いに驚き入門した門人に、
藤平光一先生、塩田剛三氏がおられました。
そのお一人、藤平先生は初めて植芝先生に出会い、その不思議な合気技で投げられ、
衝撃を受けられたと聞きます。
また、塩田剛三氏も藤平先生と同じく、その合気道の実力に驚嘆するところから合
気修行が始まります。そして当の植芝先生は、確か30歳代のとき大東流武田惣角氏
と出会いその技に抵抗できずに伏せられ、とても悔しい思いを持ったと聞きます。
本物の合気道武道家と世に知られたこれら3名の達人らに共通する事が、今述べた
最初に常識を超えた技の存在に気づかされたという事です。
ココは、技を掛けられた時に、常識を超えた業であるとよく見抜いたというべきかも
しれません。どんなに凄い技でも受け取り手にその価値を見出す能力がなければ
「それがどうしたのか???」と何とも思わないからです。
最初に衝撃を受けた場合、その後の修行には、そうでない人との間には天と地ほどの
隔たりがあると考えます。
これが出発点の怖さです。
もし、頭を殴られたような衝撃(驚き)を初対面で受けなければ、植芝盛平翁も藤平光一先生
も塩田養神館館長も達人として世に存在しえなかったという事です。
ブログですので、この辺りでおいておきますが、日本人の性(さが)なのか
日本人は、「なかなか意識転換をすることができない・・・」と井沢元彦氏も書いて
います。本当にその通りです。
何か衝撃的な事が起きない限り自分の意識を強く変えることはできません。
ですから、ある意味入門動機というのがとても大事なことなのです。
それぞれその門人の目的に合った指導をしないとお節介に受け取られたり、
負担に感じたり、最悪の場合「あの先生はめんどうな人だ・・・」なんて言われかねません。
実際に、昔の修行時代の話ですが、私の後輩練習生が忘年会を前にして、「あの先生はちょっと
面倒くさいので去年の忘年会で横の席で大変だった・・・」と陰口を聞いたことがあります。
いろいろと説教されたのでしょうか・・・?
私はその先生(直接の先生ではない)指導員の方には丁寧に教えていただいていたので
逆に、人によってはこんな受け取られ方をするのかと、様々おもうところはありましたが
【日本人の特徴】
日本人は、「なかなか意識転換をすることができない・・・と書きましたが
井沢氏はどうして著書の中でそう書いたのかというと
一つは、戦国時代が終わり江戸時代になってもしばらくは戦国の気風が強く残ってい
ました。つまり「人殺しが金になる時代」と井沢氏は表現している、そんな映画「殺人狂」
の時代でした。しかし時はすぎ、太平の世へと流れが傾いたときに、最後の奥の手として
打った政策があの生類憐みの令(貞享4年・1687年)だったという事です。
家康の政策だけでは、なかなか世の人々の意識は変えられず、綱吉の時代まで戦国気質を
社会が引きずっていたという事です。
生類憐みの令は無茶苦茶な法ですが、そこまで「殺す」という人間の意識を180°転換させ
るにはこういう悪法が必然だったということです。
そのおかげで日本人の意識もやっと動くことになり明治維新までの間、大きな戦はありま
せんでした。
日本人はアメリカ人(銃社会)とは根本的に異なった気風が備わっている理由は
戦国の遺風を遺さずに江戸という太平の時間を持てたという事につきると思います。
次に日本人のなかなか意識転換しがたい気質が裏目にでたのが、黒船の事件、
ペリー来航の時です。これはよく知られた歴史的事実ですからどういう展開になったか
は書きません。
最後に個人の考えとして、日本人はなかなか意識改革できない民族というよりも
大陸と距離をおいた島国という地理条件、気候風土などから偶然性の上にも
必然的にそうなっていったのだと思っています。
(大した考察をすることもなく漠然とそう思う。)