合気道鴻心館《明月会》Meigetsukai

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Aikido 【日本合気道鴻心館 1/12】

2014年01月12日 | 鴻心館
☆平成26年1月12日(日)
【達人‐植芝盛平‐その4】
 ・植芝盛平翁の生きた時代
昭和15年発刊のある武道書に、高山政吉という人が書いている
「武道改革所見」という論があります。高山政吉という人は、
1899年(明治32年)生れで大日本帝国海軍軍属にして高山流抜
刀術を開いた人物です。
この昭和15年以降は、ご存知のごとく日中戦争、大東亜戦争へと
平穏な空気が戦争体制色へと変わってゆく時代です。
高山政吉は、武道のあるべき姿をこう書いています・・・・
―「今日の精神修養目的武道を改め、國家危急に備へる、國防
武道に改革振興し、日本民族としての建國、精神、技術に復帰
せしめ、神技死の積極的教育方針に立て直し日本國民の必修科
目として習得せしめんことこそ今日の時局に最も急を要する問
題であります。」
軍人らしく、その当時ある武道を世相にあうようにしないと
いけないと書いています。
 さて、このころ植芝盛平翁57歳、昭和16年には日米開戦となります。
盛平翁はそして中国にわたります。一個人としてではなく、中国大陸
で日本軍関係の任務的な目的を持ったかで海を越えています。
私が注目しているのは、この時期の修行のあり方です。
植芝盛平翁は、自身の武道が軍(戦時統制)に巻き込まれていくのを
心の中でよしとしなかったのではないかと推測しています。
正確には合気道(後の)、つまりこのころ皇武館を二代目に譲っています。
皇武館は、財団法人 皇武会のことで、後の「合気会」の前身です。
この時、盛平翁は息子に皇武館をまかせて自身は岩間に本格的に落
ち着き道場を構えています。岩間というのは茨城県にあり、ここで
妻とともに移り住み、畑を耕し、修行をも継続していきます。

 私が植芝盛平翁がその世間に轟かせた合気的実力は30歳~35歳でまず
柔道とは異なった術理に開眼し、修行を続け、そして36歳~39歳の
頃には合気技つまり後の磐石な技(達人技)を身に付けたと考えるに至
りました。※01

 そして60歳を前にして岩間に移ったころというのは合気技術的に一つ
の大きな転機変化(次の段階、レベルの合気体完成)が個人の上にあっ
たのかという気もします。推測レベルですが
このころ塩田剛三氏(養神館合気道創始者)は30代で岩間の盛平翁
のもとで修行をまた開始した時期でもあります。
あまり世間では述べてられていませんが、私は植芝盛平翁の合気術の
発展は塩田剛三氏が弟子として、練習相手として関わっていた事がと
ても大きいと考えています。
そういう視点から私は、岩間時代の修行にとても関心を持っています。
蛇足ながら、私がもしこの時代、昭和16年で60歳前後で生きていたなら
戦争とは一線を引いて自身の合気道を探求するため、道場を片田舎へ移
しているかもしれません。ただ岩間に移った盛平翁の意図はどこにあるの
か分かりませんが・・
私だったらという理由は、清戦争、日露戦争とはあきらかに性格の違った
戦争がこの大東亜戦争つまり太平洋戦争であったからです。

昭和15年発行の武道書「刀と劍道」第五巻の高山政吉「武道改革所見」
にもどります。 -引用p35
戈(ほこ)を止める・・・
「又武は戈を止めると説明され●●を論ずれば如何にも誤りたる、非
國民の如く取られますが,此れは眞の武道の意を理解することなく、
今日の時代に媚びて武道を論ずる、時代錯誤論ではありませんか、眞
の日本武道の戈を止めるということは自己の戈を止めるという意味の
ものでは全くなく敵の戈を止めるにあり敵の戈を止めさすには、自己
に實力がなければ、相手は戈を止めるものではありません。」
この高山政吉は植芝盛平翁とは武道家として考え方は違う武人であり
まだまだ興味深いことを書き残しています。
この頃の武道家は戦争へ向かっていく時代性に合わせて勇ましいことを
書いているように受け取りがちですが、実はよく読んでいけば個人個人
の主張は、実に日本という國をよく見ていることがわかります。
日清戦争でもそうですが、日本側から積極的に起こした戦争ではないこと
は事実です。また大東亜戦争においても歴史的な事実をそれこそ検討して
みれば日本國あげて戦争だ、戦争をしたいという好戦的なものではないと
いうことが見えてきます。
この昭和15年前後の個人としての武道家、軍人の書いたものを読んでいて
何か違和感を感じていました。それは、みながみな戦争万歳という思想な
のかと思っていましたが、まったく正反対な感想を持たざるを得ないよう
です。そういう意味の違和感を感じていたのでしょう。

※01
根拠としては
30歳~35歳の頃、この時期に大東流‐武田惣角に出会い、指導を受けています。
これが植芝盛平翁の合気開眼のきっかけ、つまり黎明期だと私は考えます。
次に飛躍的にこれが華咲いた時期、これが36歳~39歳の頃だと思います。
その理由は、私の師の師である藤平光一先生の著書ではっきりと書いています。
藤平先生は著書の中で、植芝先生のお付きで和歌山県の田辺にお伴した時
の様子を「田辺である柔道家を訪問した際、藤平先生、植芝先生と柔道家のS先生
の三人で話していた中、S先生が昔を思い出して、あのころはあんたは弱かったねぇ
という内容のことを話され、植芝先生は苦虫を噛み潰したような様子だったとか、
また、話をその後を続けてS先生は、しかし大本にいってからのあんた(盛平翁の事)
は強くなった。わしも(S先生)全くあんたにかなわなかった・・・」
この証言が残っている事実から考えると植芝先生は武田氏に伝授された技を本当に
自分のモノにしたのが、大本教時代と考えて間違いないと思います。
他にも私が先生から聞いているはなしはあります。しかし、それは藤平先生はじめ他
の著書の中にない事ですので、表に出すと他人に迷惑がかかることもあり控えておく
ことにします。

【達人‐植芝盛平‐その5】へとつづく

【鴻心館という合気道】
・私が以前の会派をはなれた直接の理由は、植芝盛平翁に近い合気道を
したいという目的、強い信念がどうしても抑えられなくなってきたから
です。
そのかいあってか、段々と呼吸投げとはどういうものかとか、入身投げ
はどういう原理でどういう業なのかが少しずつ分かってきた13年間です。
達人‐植芝盛平。と当ブログで書いているのもそういう理由。植芝盛平
翁の合気道をもっともっと極めたいというおもいからです。
 鴻心館では、度々書いていますが、練習生数は全く問題にしていません。
いくら増えたところで合気会には、はるか及びもせず、かなうはずもなく
200名や300名に会員が増えたところでそんな事は合気道探求とはあまり
関係ないことです。
植芝盛平翁の合気業にいかに近づき、いかに本物になり、弟子を育てるか
何事も目的がはっきりしていない場合、目的いかんによっては衰退も発展
もします。
当会は、練習生数の上での発展は三番目ぐらいで、本物(植芝盛平翁)の合
気道探求をつづけるのみだと毎日やっています。



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