「水之巻」第二節 兵法の身なりの事
(原文より)
身のかかり、顔はうつむかず、
仰のかず、かたむかず、
ひずまず、目をみださず、
額にしわをよせず、眉あいに皺をよせて目の玉動かざるやうにして、
瞬きをせぬやうにおもひて、
目を少しすくめるやうにして、
うらやかに見るるかを、
鼻すじ直にして、
少しおとがいを出す心なり
首は後ろの筋を直に、うなじに力を入て・・・・・
宮本武蔵の「五輪書」ですが
どうしてこういう文章になるのかというと
それは、身体を素材として武蔵が体現してきた「意識操作のことから」
ものを文章として残さざるを得なかったからということです。
ということは、
武蔵の行ったことを簡略してみると
幾多の時代的な社会事情や武に関する見聞きや自身の武術経験から
身体操作に武術の根幹があるのではなくてそれは
意識操作にあると見抜く。
その意識操作には例えば
"少しおとがいを出す"ということに気づくことになり
なるほど、「こういう意識操作をした際」
たしかに「頤(おとがい)」が前に気持ちほどでていますよね。となったと思います。
では、こういう意識操作とはなんなのか?
自分の身体のある部分を意識します、その際単に部位を意識するのではなくて
そこから@@がでている意識をします。
その部位は3点です。
もちろん身体の表面にある点(部分)です。
その3つの個所から@@が@@と意識したら
自ずと頤が前にでます。
その際に型(形)、套路はスムースにできるということも体現、体感できると思います。
五輪の書、とくに水之巻の中味は
昔々、その昔の武蔵の生きていた
その生の身体を持った武蔵が経験した(体現した)状況を再現してみて
(武蔵の意識の動き、こころ)初めて自分の身体も水之巻にある
身体の動きがあらわれます。
ただし、すべてを会得するのは難しいと思います。
私も全てはわかりません。
下線部の「少しおとがいを出す・・心なり」あたりを書いてみました。
この水之巻は、
武術(極意)を探求している武術家にとっては
宝物をはるかにしのぐものとなっているはずです。
(原文より)
身のかかり、顔はうつむかず、
仰のかず、かたむかず、
ひずまず、目をみださず、
額にしわをよせず、眉あいに皺をよせて目の玉動かざるやうにして、
瞬きをせぬやうにおもひて、
目を少しすくめるやうにして、
うらやかに見るるかを、
鼻すじ直にして、
少しおとがいを出す心なり
首は後ろの筋を直に、うなじに力を入て・・・・・
宮本武蔵の「五輪書」ですが
どうしてこういう文章になるのかというと
それは、身体を素材として武蔵が体現してきた「意識操作のことから」
ものを文章として残さざるを得なかったからということです。
ということは、
武蔵の行ったことを簡略してみると
幾多の時代的な社会事情や武に関する見聞きや自身の武術経験から
身体操作に武術の根幹があるのではなくてそれは
意識操作にあると見抜く。
その意識操作には例えば
"少しおとがいを出す"ということに気づくことになり
なるほど、「こういう意識操作をした際」
たしかに「頤(おとがい)」が前に気持ちほどでていますよね。となったと思います。
では、こういう意識操作とはなんなのか?
自分の身体のある部分を意識します、その際単に部位を意識するのではなくて
そこから@@がでている意識をします。
その部位は3点です。
もちろん身体の表面にある点(部分)です。
その3つの個所から@@が@@と意識したら
自ずと頤が前にでます。
その際に型(形)、套路はスムースにできるということも体現、体感できると思います。
五輪の書、とくに水之巻の中味は
昔々、その昔の武蔵の生きていた
その生の身体を持った武蔵が経験した(体現した)状況を再現してみて
(武蔵の意識の動き、こころ)初めて自分の身体も水之巻にある
身体の動きがあらわれます。
ただし、すべてを会得するのは難しいと思います。
私も全てはわかりません。
下線部の「少しおとがいを出す・・心なり」あたりを書いてみました。
この水之巻は、
武術(極意)を探求している武術家にとっては
宝物をはるかにしのぐものとなっているはずです。