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広崎と一緒に飲んだ晩、由芽子は寝付けなかった。
それほど長い時間でもなく、大した事をお喋りした訳でもない。
広崎は早めに由芽子を帰してくれ、途中まで送ってくれた。
何をされた訳でもないのに、側にいる男の吐息を初めて聞いたときめきが由芽子の身体を火照らせた。
「あの人私を好きなんだ」由芽子は確信した。
転々と眠れぬままに素敵な明日を夢見ていた。
しかし、翌朝出社すると社内の雰囲気が一変して見えた。
いつもさりげなく仕事を頼む営業部員が、妙にニヤついた態度を取る。
女性の同僚が刺すような視線を向けている。
肝心の広崎と言えば朝から客回りで、結局その日は終日客先の予定が伝えられた。
営業所でそういうケースはよくあるし、客先によって出張ばかりしている営業もいる。
だが、由芽子は妙に胸騒ぎがした。
昨日の今日である。
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翌日もその翌日も広崎は客先止めになっていた。
由芽子は焦った。
営業所の雰囲気はさほど変化してないのに、何とも言えない棘を人の言葉や態度に感じるのである。
由芽子の両親が離婚する時も妙に同じ雰囲気だった。
原因は父親のちょっとした浮気だったが、母は容赦なく責めた。
二人共親である事を放棄した刺々しい男と女に変わっていた。
口喧嘩が暴力に変わり、父が家出した。
いつも親しげだった近所の人の目に意地悪な棘があった。
その時パニックが彼女に蘇った。
「私の何処が悪いの」
思わず叫びたくなる程由芽子の脳裏に混乱が起きた。
不安定な由芽子を見かねた父方の祖父母が信州の家に引き取った。
彼女は広い田舎家の一室にこもりきりになった。
やがて薄紙を剥ぐ様に穏やかになり、外の自然に触れて、元の無邪気な娘に戻ったのだ。
ただ、今度の棘には由芽子は必死で耐えた。
耐えた変わりに手紙を書いた。
メールや電話は人に伝わり易い。
手紙ならなかなか分かるまい。
恋の秘密を持つ事に長けていない彼女は、想いを込めた手紙を営業所の広崎個人への連絡ボックスに投入してしまったのである。