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読書の森

子どもの頃の物語 最終回

見出しは神戸六甲山で両親と従兄と一緒に撮った写真です。父は会社を退職、職を転々としてました。一時親戚を頼って神戸に住んでいました。
 
一家は私が誕生した後、祖父母(名義の上で離婚しただけなので)やおばたちが住む大垣の家に同居することになりました。
私の股関節脱臼が分かったのは一歳を過ぎた時です。
終戦後間もないことで大垣市内の医者は払底し、治療で巻かれたギブスの処置は拙劣なものだったのです。ギブスがきつくて血流が滞って赤子は痛みに泣き続けてます。
焦った祖母はそのギブスを切ってしまいました。
結果的に私の脚は脱臼状態に戻ってしまいました。
 
ギブスで固まってしまった赤子の筋肉を動かすため、母は私を背負って医院に通い続けました。姑たちは私の足の悪いのは母親のせいだとか陰口を言ってます。
おまけに、その間母は又妊娠していました。
祖母の命令で堕ろす処置をとらされました。その後の妊娠時も同様に堕ろすことになったのです。頼りの夫はただ家でゴロゴロしてるだけ。
悪夢を見る思いだったと思います。
 
赤ん坊としてみれば、病院に行く度死ぬほど痛い思いをしなければなりません。そのころの私は白衣の人を見ると怖がって必死に這って逃げようとしたそうです。
 
周りの誰もがなんとか私を治そうとしたのに、治らないどころか、それぞれの心に深い傷を負う結果となりました。
 
後年、母は反抗期の私が口答えする度に「あの子たち(堕ろした子)ならきっと私をかばってくれる」とか言い出します。
私は自分のために妹や弟を無惨に殺したように感じ、ひどく傷つきました。
 
 
私は病で動けなくなり寝たきりの祖父の姿しか見ていませんが、これが壮年期の祖父です。
祖父は次々と商売を起こした人です。どうも何事も気が多すぎたようです。
 
上の娘たちにかける愛情はとても細やかで夜になると布団をかけに回ったそうです。
 
この祖父の死後、お情けで残った家は没収、一家離散となりました。

祖母と叔母、叔母の友達に囲まれた私です。後ろにいるのが祖母で実際より背が低くみえます。
 
一人になった父は定職に就けず、母は税務署の嘱託で働いてます。口論が絶えない毎日で私はとうとう原因不明の病気で高熱を出し寝たきりになってしまいました。
見かねた祖母が東京の伯母の家に私を連れて行ってしまったのです。
「この子を殺す気か」と母に言ったそうです。
 
昭和29年、東京蒲田の工場を伯母の夫が経営してます。母屋は工場の隣、その狭い二階の部屋で祖母と私は二人暮らしを始めました。
 
伯母は痩せている私に栄養をつけようと工員さん並みの食事を出します。
従業員皆と共にスタミナのつく山盛り料理を早めに食べねばなりません。
そして、二年生で編入学した小学校の悪ガキは、慣れない土地で親と離れてる子に容赦なかったのです。
下校時に「びっこびっこ」と囃された挙句悔しくて睨んだ私の顔を傘の先で突っつきました。こぶが出来てうずくまる私をかばってくれたのは上級生です。
 
街で、祖母が目を離した隙に変なおじさんに悪戯されたりしたのもその頃です。
小さな私にとって苦痛というより、あまりに驚天動地の凄い毎日でありました。
 
お陰様で原因不明の病気の方は治り(寝ていられませんから)それなりに太ってはきましたが、一時期耳が全く聞こえなくなって毎日祖母と耳鼻咽喉科に通ってました。
 
やっと両親が私を引き取りに来た時の嬉しさときたらありません。ただ周りは私以外に子育てをした事のない大人ばかりです。
XX家のたった一人の後継ぎの子に周りの親族は皆一生懸命なのですが、一生懸命になればなるほど、私は困ったのです。

私の近所(大田区)の友達の家庭と全く異なる生育環境であります。
一番違うのは周りの子は子供が多くて大人が少ないのに、私は一人で周りは大人ばかりだった事ですね。
 

時代は下って、50代の私と70代の母が一緒に図書館に行くところです(横浜市港北区)。

これは自分が働いてせっせと貯めたお金で購入したマンションの敷地内で70代の母と共に撮った写真です。今から思えば母娘にとってやっと来た平和で安定した日常だったのです。
 
それ以前に購入した日吉のマンションに収入が途絶え、借家の立ち退きを迫られた両親が住みたいと言った時、私の頭の中は真っ白になりました。
脚の痛みがひどく通勤が困難で退職を考えていたからです。日吉の部屋は狭く、到底三人が住むことはできません。
私が断った事で、両親は又名古屋に行く事になったのです(母の姉を頼って)。

父は1993年に亡くなりました。
父の死後、母は自分が父に辛く当たった事をとても後悔したそうです。
一人暮らしをしていた私がこのマンションで母と共に暮らすようになったのはその後です。
 
人にはちょっと言えない事情があって(人に騙された訳では全然ありません)、16年間住み続けたこのマンションを手放してから、必死な私は90近い母にどれほど辛い思いをさせたか、分かりません。

75歳の今、歳をとって体力も知力も落ちて私は母の置かれた状況を身をもって分かるようになりました。最後まで心が可愛い人だった母の事を思い返す度に辛いです。
「過去より未来だ」と母に言った事が悔やまれてなりません。


それにつけても、「戦争が母の本当の青春を奪ってしまった」。
母が言ったこの言葉がやっと実感出来ます。
母だけでない、どれほどの人が日常のささやかで大切な幸せを奪われてしまった事でしょうか。
災害を人は防ぐ事は出来ませんが、戦争は防ぐ事が出来ます。
惨い戦争は即刻止めていただきたい!
それだけです。

冗漫で読みにくいこの話を読んでいただいた方、ありがとうございました。


 

 

 
 
 
 
 
 

読んでいただき心から感謝です。ポツンと押してもらえばもっと感謝です❣️

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