一方、一貫して底辺の庶民の立場に居て、波瀾万丈過ぎる生涯を送った作家、と言えば林芙美子をおいて他に居ないと思います。
林芙美子が出世作『放浪記』を世に出したのは昭和5年です。
この本が発表した時の反響は凄まじいもので、たちまちベストセラーになりました。
小説と言えば整った筋の物語しか知らない人々にとって、赤裸々な彼女の日記は非常に新鮮だったに違いありません。
よく新人文学賞募集に「面白い」モノ求むとありますが、この小説の中身は理屈抜きで面白くて、スラスラ読めます。
当時の識者たちは「自分の貧乏を売り物にした小説」と白い目で見ていたらしいです。
当時の識者たちは「自分の貧乏を売り物にした小説」と白い目で見ていたらしいです。
当局もかなり凄まじい検閲を行なっていて削除した部分がかなりあったのです。
ただし、思想的に危ないとか、犯罪的な内容でチェックされた訳でないです。
彼女の生い立ちそのものが複雑で社会の規範に外れてます。生まれた時から放浪する暮らし、当時の人に蔑まれた職業を転々とした、これが当局にとって遺憾な事だったらしいです。
林芙美子は触れれば火傷しそうな熱い魂を持って、かつ繊細過敏、それでいて奔放不覊の人です。
それだけなら、ただの不良にもなりますが、彼女は一貫して強烈な向上心を持ってました。
義父の仕事が少し落ち着いた尾道時代に、女学校に上がって、直ぐに家が傾いても、自分でアルバイトをしながら学業を完遂しました。周囲に陰口を言われ、それを跳ね飛ばす明るい性格で友人を作り、スポーツも楽しんでます。かなりタフだったらしい。
この『放浪記』の中で、関東大震災の生々しい体験が描かれていて、世知辛い今日ビックリしちゃう内容があったので紹介します。(当時の東京の方がずっと貧しいですが)
被災後生き延びる道を探す彼女が見た新聞の広告、それは街角の電信柱に張り出されて被災者大勢が覗いてました。
「灘の酒造家よりお取引き先に限り、酒造船に大阪まで無料でお乗せします。定員50名」
広告主にすれば被災したお得意様を助ける為だったのでしょう。しかし、この広告を見るや無一文に近い芙美子は即着物を風呂敷に包んで、芝浦漁港の広告主の下に行きました。この時の交通費に持ち金殆どを使ってしまう。
「知人が酒屋をしていて新聞見せてくれたのです(真っ赤な嘘)。国では皆心配してます(これも嘘、この時親は東京にいる)」
と頼み込む。みすぼらしい彼女をジロジロ見てた事務員、
「こんな時はもうしょうない。お乗せします」
私が一番驚いたのは、事務員の恐るべき甘さ緩さ人情の濃さです。
現代じゃ、まず相手を疑うと思いますね。身分証明とかうるさい筈。
次に驚いたのが彼女の図図し過ぎる楽天性、昨日のblogで否定した楽天性ですが、彼女にしてここでは大成功してます。
(°▽°)明らかに詐欺ですよ。混乱の東京から大阪に逃げたい被災者はかなりいた筈。
許される事でないです。
ただし、面白いなあ🤣と思ってしまう。
この船に乗って芙美子はどこへ行きたかったのでしょう?
答えはただ「海の見れる旅行をしたかった」だけなのです!
行く先は大好きな尾道。
乗船者70人の中、女は三人だけの船旅、若い彼女は随分と親切にしてもらったようで、美味しいモノが食べ放題だったみたい❣️
図図しい芙美子は、反面サービス精神も豊富にありすぎたようです。
執筆、取材を絶対断られず、全部引き受けてしまった。
戦後復興目覚ましいところを雑誌社の勧めで、当時の連載グルメ記事を書く事になります。
その度馳走を試食するのは良いのですが、律儀に完食。過労、睡眠不足、そこに暴飲暴食が重なって、二軒料亭を回った帰宅後、腹痛から全身の痛みに襲われたそうです。その挙句に心臓麻痺でこの世を去りました。享年47歳、いくらなんでも可哀想な気がする。
彼女が最後に食べた料理が鰻重でございます。かなり脂が強かったのでしょうか?
推測に過ぎないけど一気に食した為、胃が異常にガスで膨張してしまい、心臓を圧迫したのではないかと。
恥ずかしながら、食いしん坊の私、同じような経験があるのですよ、大した事なくお陰様で生き伸びてますが、食べ過ぎは危ないです。