S食品は元々菓子製造メーカーだった。実家の為という名目だったが、真緒の本心は堅苦しい実家を離れて東京という大都会で自由な一人暮らしをしたいという事だった。
期待が膨らむ春4月、新入社員研修会が伊豆高原の社員寮で開かれ、顔を合わせた二人は同時に声を上げた。
元々次男だった真緒の父は家業を嫌い、遠く神戸の大学に進み、そこで就職、地元の女性である母と結婚した。
神戸市灘区で真緒は小学校に通っていた。その時浩樹はずっと同級生だったのである。
ただ、町の中心の住宅街に住む真緒と町外れに住む彼とはかなり離れていたが。
小学校卒業した年、父親の兄が急死して老舗の跡取りにならざるを得なかった。
真緒は住み慣れた神戸の町を離れて、S町の中学校に入ったのである。
彼女の記憶している懐かしい神戸は、どっしりした洋館や風見鶏と美しい木立の坂の多い町だった。
1995年1月、この甘やかな思い出の町が阪神淡路大震災によって無残に崩壊した時、報道するTV画面を観ながら真緒はポロポロ涙を流した。
子供時代の大切な思い出まで崩壊していく気がした。
懐かしい幼馴染を見ながら真緒はふとある事に気づいた。「そんな筈はないけど」首を捻りながら、浩樹に問いかける。
「相田さんと私、K小学校で一緒だったよね?そうでしょ」
浩樹は黙って首肯いた。
「でも私、その名前で覚えてないの。木村真斗って名前で覚えてるんだけど」
浩樹は困ったような顔をした。
「違いますよ。僕は相田浩樹です」
(じゃあ同じクラスに木村真斗って別の子がいたのかしら?)
それは口に出さずに真緒は浩樹の顔を見つめた。
あれから10年過ぎたのにちっとも変わっていない。勿論背はグッと高くなって男らしく成長したけど、雰囲気が全然変わってない。
悪戯ぽい笑顔の、活発な子だったから。
懐かしい町の大好きな幼馴染がいた、真緒は嬉しかった。
ただこの懐かしい人の名前は相田浩樹でないんじゃないか?と言う疑問が解けなかった。
彼はもはや忘れてしまったかも知れないが、幼い真緒が生まれて初めて好きになった異性がその木村真斗(つまり相田浩樹)だったから。
幼い頃の真緒は内気なお嬢様然としてて、悪戯っ子の標的になりやすかった。
学校帰りの道、いじめっ子に囲まれて泣きそうになってる真緒を身を挺して助けたのがその木村真斗だった。
その頃から体格のいい彼がノスッと立ち塞がった時、いじめっ子は威圧されて逃げ出してしまったのである。
「何て頼もしい子❣️」小さな真緒は目をハートにさせて感謝した。
真緒の忘れられない人だった。
研修会とあって二人はそれ以上親しい口をきく事は無かった。
ただ、同じビルに浩樹も居て、社員食堂やエレベーター内で出会う事がある。真緒と挨拶を交わすだけだが、浩樹は精悍さを増した印象で仕事が面白いらしくイキイキしていた。
そんな彼が一層眩しく見えて彼女はぎごちない態度しか取れなかった。
同じビルでも階が違うとそれほど会う機会もないしバブル崩壊期の仕事が意外とキツくて、仕事に追われる日が続いた。
お盆明けの金曜日、真緒はひどく疲れた表情で帰りの電車に揺られていた。
9時近い地下鉄車内は人がまばらで、彼女はぐったりシートに腰かけていた。
「朝生、朝生君だね?久しぶり」
はにかんだ表情で浩樹が低い声を出した。
「隣に座っていいかな」
真緒は泣き出しそうな笑顔で首肯いた。この頃実家で何かあるのか、連絡出来ない事が多かった。
しかし、彼が横に座った時に何故か真緒は安心し切った気分になって、シートに座ったまま眠ってしまった。
そして、、、浩樹に揺り起こされたのが、真緒の住む駅だった。
「実は俺も同じ駅なんだ。知ってたんだよ」
僕が俺に変わっていて、親しげな表情の浩樹は兄のように真緒の肩を抱くと近く迄送ってくれたのである。
そして「じゃあ!」と手を振ってあっさりと別れた。
その晩真緒は眠れなかった。
「あゝ私恋しちゃった、、」
彼女を金縛りにした感情であった。
そして、その日以来真緒は浩樹の姿を見た事がない。
そのあと直ぐに父親の急死の報があって、傷心の真緒が東京に戻った時聞いたのは浩樹の転勤の話だった。それもシンガポール支店への転勤であった。
支店と言っても出店の様な感じで、嗜好の異なる彼の国としては高級な菓子を売り込むのはかなり困難な仕事である。
言わば左遷なのだ。
いつか日本に帰って迄恋するのはやめよう、父親の不慮の死で打ちのめされた真緒はそれでも気を取り直して、日々仕事に励んでいた。
その一年後、母親の急死に加えて実家の破産した真緒にもたらされた浩樹の失踪事件だったのである。