「鎖国」などと言う大それたテーマを取り上げたのは、昨日のブログが原因です。
江戸時代、儲かる商売の5位に唐物屋が入ってるのに疑問を持ちました。
当時、長崎の出島にしかオランダや中国渡来の唐物は入ってこない筈です。
5位に入るほど取引が出来たのはなぜでしょう。
他に入手ルートはなかったのでしょうか?
それが「抜け荷」でした。
3位の廻船業者の中で世界をまたにかけた密貿易業者がいたのです。
御用商人の名を借り、ロシア、アメリカ、イギリス、フランスまで渡ったそうです。
この抜け荷の罪は重く、甘い汁を吸ったものは悲惨な最期を遂げたようです。
自由貿易にすれば、江戸の商売は盛んになり、町は一層繁栄すると思えるのに、幕府はどうして鎖国をしたのでしょうか?
長崎の出島だけが例外で、海外との外交通商は禁じられていました。
当時、貿易ができたのは、オランダ、中国、朝鮮(当時の日本ではそう呼んでました)、琉球(今の沖縄)でした。
それまで、南蛮渡来と言えばポルトガルの品物もかなりあったのに、どうしてオランダだけなのでしょうね。
それは、ポルトガルのカトリックの宣教師が盛んにキリスト教の布教活動をしたからです。
そのため、日本人の信者が急激に増えました。
大名の中にも信徒がいました。
キリスト教の教義と封建的な体制は明らかに矛盾しています。
それは幕府にとって脅威になりました。
幕府のキリスト教迫害が始まったのはその頃です。
ついに1637年「島原の乱」が起きました。
島原藩の原城を乗っ取った農民、キリシタン、浪人が幕府に抵抗し戦ったのです。
総勢3万7千人が皆殺しの目に遭いました。
この戦いは江戸時代最大の事件であり、幕府の受けた打撃も相当なものでした。
1639年、キリスト教が入ってくるルートを断ち、幕藩体制を強固にする為に「海禁(鎖国)」は敷かれたのです。
黒船が来航して、1854年日米和親条約が江戸幕府とアメリカとが結ぶまで、鎖国は続きました。
ここに至るまで、鎖国が出来たのは当時の世界事情によると考えます。
アメリカ合衆国は建国間もないし、ヨーロッパはヨーロッパ内の競争に明け暮れていた筈です。
四方を広い海に囲まれた日本は、その頃の大国にとって東洋の島に過ぎなかったから、独自の文化を築いてこれたのでしょう。
もし、「鎖国」がなければ、江戸時代という太平の世の中はあれほど長く続かなかったし、独特の日本文化も育たなかったと思います。
だからと言って江戸時代がとても平和で豊かな時代だったとは一概に言えません。
この時代は地震の活発な時期でもあり、天災、飢饉も頻発したのです。
結果的に江戸時代の人口は減ってもいない代わりにさほど増えてはいません。
それでも、江戸時代の庶民が明日を信じて生きてきたのは、日本の穏やかな風土によるところも多いし、他国と事を構えることがなかったからかも知れません。
他人と事を構えるのを上手に避ける国民性も江戸時代に育ったのでしょう。
白黒をはっきりさせない態度は狭い国土で一定の人数が生き残る知恵でした。
それも、外敵が襲ってくる心配がないからで、敵か味方かと殆ど考えずにいられたからではないでしょうか。
鎖国を解いた日本は、厳しい世界情勢の渦に飲まれ、断続的に長い戦争の時代に入ったのです。
過酷な戦国時代を経た江戸幕府は「太平」を築く事には成功したと思えます。
キリスト教への迫害とか、封建的な狭い見方とか、かなりおかしな時代だったとは思いますが、少なくとも自国の利益の為に他国と戦うということをしない、出来ないのは「鎖国」が原因だったのではないでしょうか?
もはや「鎖国」など全く遠い世界の話ですが、昨今の情報戦争について考える時、時代錯誤と笑ってられない気がします。
追記:
考える内に、政治的な意見らしくなりましたが、その意図は全くありません。
「じゃあ、鎖国をしないで太平な世の中にするにはどうすりゃいいのか」って?
戦後の歴史を又振り返りたいです。