中国人街でウロウロしてる彼女の手を引っ張る男がいて、ギョッとして睨むと、それが浩樹だった。
「ウソ、なんで?なんで直ぐに私が分かったの!」
嬉しさより驚きが先立って、真緒は色気の無い声を出す。
苦笑して見下ろす浩樹はひどく貫禄がついて見えた。
若々しく清新な雰囲気の以前の彼と異なって、老けて見える。それも渋味のある大人の男の匂いがした。
真緒は圧倒されて目を伏せた。
この人は随分私から遠いところにきてしまったのだ。それは距離の問題ではないようだ。
俯いた真緒の手を取って浩樹は古めかしい飲茶の店に入った。
店主は浩樹に丁寧に頭を下げて彼は鷹揚に頷く。店員も皆同様の態度をとる。真緒は目を見張った。
適当にオーダーをとって、向かい合った浩樹は寧ろ哀しそうな目をしていた。
「真緒がシンガポールに向かった時から知らせる人間がいて、俺はお前の足取りを全部知ってるんだ」
「えっ」
「実は俺、今はこの辺りでは一番顔のきく男なんだよ。びっくりしただろう?
ヤクザみたいと思うか?」
(そうみたい)と真緒は心でつぶやいたが、口では
「でも元気そう」
と辛うじて声を出した。
「実は相田と言うのは仮の名で、俺の両親は中国のスパイだったんだ。正確なところはスパイの子だった。つまり俺はスパイの孫と言う訳だ。中国で戦前から続く名家だった祖父母は革命で処刑されそうなところを上層部に助けてもらった。そして日本語の出来る為にスパイとなって来日した。
あくまでも、満州国の引揚者と言う形だった」
信じられないような打ち明け話に真緒は驚愕のあまり気を失いそうになった。
その内「ウッソだよう」と笑ってくれるんじゃないか、と縋るように浩樹を見たが、彼は磊落そうなお面を崩さない。
真緒は出された食事が喉を通らないが、彼はうまそうにパクついた。
「食べられんかったら弁当にして持っていけば」
真緒は機械的に首肯く。
袋に入った弁当を持たせてもらった真緒を抱くようにして「じゃあ」と店を後にすると、浩樹はやおらそれまで身につけていた派手な色のシャツを脱いだ。思わず目を閉じた真緒が恐る恐る目を開けると清潔そうな白いテーシャツ姿になっている。
顔も変わって見えて以前の若さが蘇ったようだ。
「驚いた?」
「、、、」
「ドーラン落としたんだ。貫禄つけるような化粧をしてたんだよ。ともかく場所を変えよう」
浩樹は真緒の手を強く引いて、大通りの雑踏の中を紛れるような形で歩いて行った。
「詳しいことは後で話す。取り敢えずマーライオンの側迄車で行こう」
タクシーを呼ぶと、二人が如何にも海外からの旅行者に見えたらしく、インド人の運転手が英語で行く先を聞いた。
真緒は漸くホッとして傍の浩樹を眺めた。
しかし、先程と打って変わって浩樹は暗い表情で前を向いているだけだった。
タクシーを降りて、浩樹は地元の屋台で真緒に甘いライチのジュースを勧めた。
ゴクゴク飲んで人心地ついた真緒を連れて、さらに人気のない道を歩いていく。
観光コースと異なる海岸のベンチで浩樹は真緒にある告白をした。
「さっきは驚いただろう?」
真緒は素直に首肯く。
「いくら何でもまさか!?
こんなことだとは思わなかった」
と悲鳴を上げたいくらいだったが、驚きと疲れで何を話す気にもならなかった。
浩樹の曇った表情を見てると、もっと深い苦悩がありそうで、さらに何も言えなくなった。
「もう少し落ち着いたら君と結婚しようと決心していた」
浩樹は社員として問題があった訳ではない。
寧ろ能力を買われていた。
しかし、会社側で何か彼に疑いを持っていると気づいたのが、入社した年の夏だった。
それより以前。
彼は神戸の大学時代から世の中のアウトローと言われる男たちと付き合っていたのだ。アウトローと言ってもそれなりの大学生で頭のいい男だったが、ある問題を持った連中である。中国系の貿易商の子もその一人だった。
そして彼自身もある問題を抱えていた。それでたまに彼らと飲んだり遊んだりバカ話をする事で溜まったガス抜きをしていた。
それがあの阪神大震災が起きた時に飛んでもない悲劇の原因となった。
「何ですか?その問題って。つまりスパイって事?あんまり嘘ぽいので私まだ信じられないのよ」
「そうだろ。実は俺もそうなんだ」
「えっ?」
真緒は浩樹を凝視した。
何なの?