古文なんて、古めかしいわけの分からない日本語で書かれて、内容も現実とほど遠いと。
しかし、例えば平安時代において『源氏物語』はその時代のベストセラーだったのである。
後100年生きる事ができたら、村上春樹の作品は古典となるだろう。
古文とは時代を解き明かす生きた文学なのだ。
私が高校生の頃、英語が苦手だったが、古文は大好きだった。
古文の時間がくると目がキラキラ光り、頬が輝く。
後にNHKに入った友達がちょっと呆れた顔をして言う。
彼女は英語が得意であった。
「古文勉強して何の役に立つのよ?貴女って分かんない人ね」
勉強が役に立つと考えたことが無かったので言葉に窮した。
要するに面白いから好きなのである。
理屈で説明出来なかった。
結局古文は実生活には何の役にも立たなかったが、ふと思い出す一節が心を救ってくれる事があった。
この本に興味を持ったのは、著者が文部省に入省し、教科書検定に携わった事に興味を覚えたからだ。
といっても同時代の人であるから、自分の高校時代の大好きな教科書とは関係していない。
ここに書かれたのは、はっきり言ってマニアックで、濁点の有無でどうのこうのという話など、それこそどうでもいいじゃないかと思う。
しかし、著書の主張を読むと成程と思う。
昔、物語は写本で伝えられた。印刷技術が発達したのはずっと後のことである。
それ故、今伝えられている古典、古語は歴史の変遷を経て、人の校閲を重ねたものなのだ。
つまり、本文は成長していく。
「限りなくオリジナルに近づくことも文学研究であり、末流本文を生むのは文学そのものだ」
歴史を絶対と見るのではなく、相対化して見るべきだと言っている。
勿論、著者は文献学について論じているが、本来の歴史もそうあるべきだと私は思った。
古文と歴史、古文と文化、学問はお互いに結びつきがあるようだ。
専門馬鹿でなく、広い知識を持った学者が望まれる。
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