知らせを聞いた卓が急遽病院に駆けつけた時、陽治は昏睡状態でベッドに横たわっていた。
三年ぶりに見る父親の赤らんだ寝顔は意外過ぎる程安らかに見えた。
「大きな鼾をかかれて眠ってるように見えただけだったんです。通報が遅れてしまって本当に申し訳ない事です」
家政婦と称する中年の女はひたすら謝るだけだった。
鈍重そうなその女が、何故か卓には母と重なって見えた。母の持っていた敏感な表情はまるでないが、豊かな胸と柔らかそうな身体つきがそっくりで、瞬間、彼はこれが父の女だと直感した。
時折り父を訪ねていた叔母も弟は未だ来ていない。当然弟にも連絡した筈で、この人と会いたくないのだ、とこれも直ぐに分かった。
家政婦だった女をそのまま愛人にしたのかも知れない。
「酒好きだが遊びを知らない陽治らしい」卓はぼんやりしていた。
瀕死の人間が健康に見えるのは奇妙だが、卓の目には今の父親は卓が知っているピリピリとして神経質な男と全く異なっていた。
第一、その頃と異なり肉付きが豊かに変わっている。
「こんな女の方が父親に向いていたのかも知れない」
気が抜けたような気がしてきた。
医師の指示に全く素直に従ってから、増美というその女はまめまめしく病床の周りを片付けていた。
その動作に無駄が多いと卓は意地悪く観ていた。
どこか間は抜けていても、増美は如何にも長年連れ添った妻のように父に馴れていた。
これが母の翔子だったら、医師に病状や治療方針の詳しい説明を求めただろうと思う。
しかしながら、この状態で説明を求めても無駄のようだった。
たとえ瞬間苦しかろうとこれは「安らかな終わりなんだ」と卓は思った。
そして初めて良妻賢母に見えた翔子が全然父親と合わないものを持っていた、と感じたのである。
母の方がずっと能力の高い人間だったのかも知れない。少なくとも結婚当初父は10歳も年下の母を愛していた筈だったが、その内重荷になってきたのではないか?
卓は凡そこの場に相応しくない想念に耽っていた。
夜が更けた頃、理由をつけて卓は病院を出た。実の父親と他所の女なのに、他人の夫婦の邪魔をしている気がして居心地がひどく悪く、疲れていた。
その翌日、朝早くに増美から父の死を告げる電話があった。
複雑な家庭の事情を知られたくない為に、双方の親族が計らった内内だけの葬儀が終わった。
喪主は卓がなったが、形だけでいくら勉強が出来ても、こんな場合にまるで役立たずだと実感した。
享年56歳、あまりに早い急死の為遺書も無く、借家の為に残った遺産も少ないかと思われた。
しかし、陽治は意外な程の貯金をして多額の生命保険を掛けていた。受け取り人は子供二人になっている。
それを知った時、卓は初めて身の内に暖かい風を感じた。
弟と財産で争う事もないように父は配慮してくれていた。
これが父親の愛情だった、と初めて悟った。卓は溢れそうになる涙を必死で堪えていた。
卓と9歳も違う弥は両親のどちらとも似ず、寧ろ叔母の知里そっくりでいかにも大人しい優しげな男の子だった。
一緒に育った筈の弟は歳が離れすぎて卓には全然他人に思えた。
弥は遺産分与について理解出来ない訳でもなかろうが無邪気で、卓一人ガツガツしてる自分を感じた。
それ相当の謝礼を叔父叔母に出し、増美にも礼金を包んで、卓は別のアパートで一人暮らしを始めた。
大人の遊びを覚えたのはその頃である。