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カーテンの隙間から薄い光が漏れていた。
夜が明けたのだ。
ろくに眠っていないのに佳代の頭は冴えていた。
まるでジグソーパズルを全て埋め終わった様に、毅の行動の真意を理解したからである。
佳代が離婚を切り出しても、毅はまるで取り合わなかった。その場は有耶無耶で終わった。
佳代は不完全燃焼の思いを抱えながら、表面上は変わりなく過ごしていた。
ただ、眠れぬ日々が続いて、医者に睡眠薬を処方してもらっていた。
毅は明らかに変化した。
以前の落ち着いた彼でない、妙に軽く明るい夫として佳代の目に映った。
園山から佳代の携帯に電話があったのはその頃である。
携帯の番号は毅が教えたと言う。
訪問して佳代と会うのを密かに楽しみにしていた園山の気持ちを見透かす様だった。
それと同時に自宅への招きは一切無くなった。
「奥さん率直に聞きます。僕の事どう思ってらっしゃいますか?」
園山の声は切実に聞こえた。
「どういうこと?」
「部長が打ち明けられたのです。妻が君への思いで苦しんでると」
佳代は笑いも出来なかった。
何とか家庭の事情を誤魔化そうとして、結局何度か園山と電話のやりとりをした。
最終的に自分と毅の気まぐれという事で謝って、話を納めた。
その電話で園山も理性を取り戻した様だったのに。
佳代と園山の電話が頻繁だと密告したメールは、毅が金で雇った誰かに打たせたのだろう。
そこまでして夫は佳代を被疑者に陥れてみたかった。
憎しみは屈折した愛の表れかも知れない。
妻を歓ばせる事の出来ない自分の身体に彼は常に劣等感を持っていた。
若い園山を見る佳代の目がイキイキしているのが憎かったのだ。
「離婚」と言う佳代の言葉が、毅が隠していた脆い神経を深く傷つけたのである。
彼は妻に去られる事に、激しい恐怖感を持っていた。
昔母が女に変わってしまった時と同じ喪失感を抱いたのだろう。
佳代の夫を愛する気持ちの支えが崩れたと同時に、毅の自恃の支えも崩れてしまったのかも知れない。
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夫は佳代に内緒で休暇を取って、Y旅館に泊まった。
旅館の電話番号と住所を書いたメモを目につく所に置いたのも彼の計画だったのか。
佳代は不安の予感が募り、取るものもとりあえず旅館に駆けつけた。
毅はしんとした顔でそれを迎えた。
「風呂へ入ろう」
「えっ、何言うの?
風呂へ入ろう言うんだ。一緒に」
気が狂ったのかと佳代は夫を凝視した。
当然、お互いの裸は知ってはいる。手を触れ合ったり、軽くハグした事は佳代の方からはある。
しかし、夫から積極的に言われたのは初めてである。
毅は至極真面目な顏で再度言った。
佳代は言われるままに服を脱ぎ、誰にも触れられず崩れていない裸体を夫の目に晒した。
毅はまるで名画でも鑑賞する様に佳代の身体に視線を這わせた。
檜の風呂に入った時、毅はポツリと言った。
「ごめんな。君となら何とか出来ると思ってたんだ」
それは久しぶりに聞く毅の素直な感情を吐露した言葉だった。
入浴後、冷たい麦茶を毅が勧めてくれた。
二人でそれを飲んだ後、急に眠気が襲った佳代は横になった。
あれは夕陽がすっかり山に隠れた時である、毅はいなくなった。
見つかった時は無惨な遺体だった。
おそらく、佳代の残した薬を多めに飲ませ、自分も服用して飛び込み自殺を図ったのだろう。
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朝一番で佳代は夫の顧問弁護士に電話をかけた。
「事情があって遺産を放棄致します。手続きを教えて下さい」
電話の向こうで唖然とした弁護士の顔が見える様だった。
何回念を押されても遺産放棄の意思を固く示した。
電話を切って佳代はホッとした。
上野毛の家は佳代名義になっている。
自分の蓄えも多少ある。
家を売り、小さなマンションを借りて仕事を探そうと思った。
夫は資産運用にも長けている、株の儲けも相当なものだ。
遺産はかなりの額だろう。
死亡保険金は入って直ぐの自殺であるから出ない。
それも夫の企みだった。
夫は佳代を冤罪の恐怖に陥れるのも、大いなる財産を周囲にちらつかせるのも計算済みだった。
それが彼の歪んだ愛の形だった。
もうその手には乗らない、と佳代は思った。
佳代は少なくとも、女としての歓びを捨て、自分なりの愛や真心を傾けたつもりだった。
その思いを壊した人の恩恵など受けたくない。
佳代の思いはいつも空周りだったのである。
遺産放棄はささやかな佳代の人間としての意地だった。
母方の夫の従兄弟は健在で時々金の無心をする。
多分、遺産の話に飛びつくだろう。
それでもう全て夫との縁が切れるのだ。
この先一人で生きていく時、毅と過ごした日々が、淡く懐かしい思い出に変わる日を佳代は願った。