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読書の森

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

冬枯れの公園、肌を刺す冷たさ、かけて加えてこの社会事情。
迫り来る入試。

「えっ?」って、つまり今の学生さんに思いを寄せての話です。
日本の敗戦(終戦)直後の方が未だ若い人に「希望」あったと思うのです。
何もかも失った焼け野原、恐ろしく貧しくてこの先どうなるか混沌としてて、街に凶悪犯罪は多発してましたけど。

「あゝ、やっと(軍部の圧政から)自由になれる。これから平和の世の中になる。自分たちは未だ若い、これから頑張ればなんとかなる」そう思った方(識者)が結構多かったと聞きます。
それはおそらく、きっちりかっちり世の中が枠づけられてなく、老人が少ない、復員した男子が多い、バラックから子供の元気な産声がザラに響く時だからではないでしょうか?

「お国のためじゃない、自分たちのために、本当の日本の明日のためにみんな頑張ろうじゃないか!」
と一致団結して働いて、それなりに報酬を得る事ができた。

アメリカは未だ充分余力のある国だったし、敗戦国日本の子供に罪はないと食糧援助を気前良くして下さいました。
少なくとも「希望」が持てた時代だったと思えますね。


それが、、、。次から次へと起こる災害の中で自縄自縛状態の日本人が多い、「希望の見えない」人が多い気がします。


上の新聞広告は岩波書店の新年の広告です。

ハッとする言葉が載っていたので紹介致します。
「どうして、自分が同一化している集団や国を中心に世の中が回っているような認識から容易に脱却できないでいるのでしょうか」
という吉野源三郎先生の言葉です。

つまり客観的な考えとは、たんに「冷静に全体の利害をわきまえて」という事ではない、と私は受け止めました。
それぞれの国がそれぞれの立場から自分たちの利害を「客観的」に受け止めれば、全体の容量(つまり資源です)が少ない場合、資源を巡る戦いになりますわね。

今や地球全体の持つ資源が枯渇してると感じます。
全体に平等に、と考えてる訳ではないですが、世界を「客観的」に認識する事が、あくまでも「主体」の利害から考えられているなら、今の場合恐ろしい事態になるのではないでしょうか?

この場合の主体は個人的な事を言っていません。


未だ大寒も来てませんが、公園の木蓮の芽も膨らんで春を待ってます。

こんな自然の営みをもっと大事にできる世の中になってほしいです。


又おまけです。
牛乳の賞味期限切れ間近で、ホワイトシチューを作りました。肉は余った豚肉、とろみをつけないのでシチューというよりスープみたいな味ですが、寒い時に暖かい汁物は宜しいようです。

追記:
小難しい理屈を述べた感じになって恐縮です。
ただし吉野先生の話の主旨は、いわゆる客観的見方を否定しているものではありません。要は人それぞれ自分の属する集団を主体としてモノを観ざるを得ない、という事です。

ここで「コペルニクス的展開」の話になりますが、コペルニクスはそれまで唱えられていた天動説(地球の周りを他の星が回っている)
ではなく地動説(地球や太陽系の星が太陽を回る)を主張しました。彼は当時の学者から排斥され異端者となりました。正解は今の常識となった学説です。さらに言えばそれぞれの星が一定の法則を持って太陽を回っているおかげで今我々は生きているのです。
そのような観点からモノを観る事が結構これからのトレンドとなるのではないでしょうか?
又小理屈を言ってしまいました^^

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